校長室前の縄文土器は失くした。
プロローグ
「小沢について詳しい方っていらっしゃいませんか?」
小沢地区をなんとか盛り上げたいと考えた私(カマダ)が、農事組合法人しみずの石山さんに尋ねたのは今年の初夏のことでした。
「多分、マツオさんだろうなぁ……」
石山さんに電話していただき伺ったのが石山松男さんのお宅です。
石山さんに案内され石山さんのお宅へ……という石山さんの多さはさて置き、ここから数回に渡り、Kudoji'sの活動する小沢・坂元地区の歴史を追いかけます。
「地域おこし」「まちづくり」がなんとなく上から目線で、使いたくない言葉であるというのは地域のプレイヤーあるあるかもしれませんが、自分も同様に考えます。なんだか上滑りしてしまうように思えるのです。
そこでまずは歴史からということで、小沢・坂元地区の歴史を学べく地域の長老へのインタビューを敢行しました。ここから数回はそんなインタビューをエッセイテイストで描きながら、この地の歴史を紐解きます。
偉大な先人
石山さんに石山松男さん(以下、松男さん)をご紹介いただいた一行は、そこでとんでもない史料を手にします。それがこちらです。
いや、既にまとまってるんかい!!
なんと著者は松男さんご自身。
いやはや凄い人がいたものだ……と感じ入りながら著者ご自身から「小沢のむかし」についての解説を伺いました。
小沢の歴史は縄文から!?
「小沢の歴史」は、「小沢の先住民」という見出しから始まります。
大森勝山遺跡や十腰内遺跡などがある弘前市です。縄文時代から弥生時代の切り替わりにあたる2000-4000年前の遺物が出土してもおかしくありません。これが事実であれば「小沢にヒトがくらいしていた痕跡」として最も古いものです。
しかし問題は「校長室前に飾っていたんだけれど、引っ越しの時に無くしてしまった」ということ。水田跡が発見されている隣の田舎館村では「農家さんが畑を耕していたら出土する」という話を耳にしたことがあります。津軽は大らかな地域なのです。遺物をなくした程度では騒ぎません。
一緒に解説を聞いていた小沢小学校出身の石山さんは「そういえばあったような……」と記憶を辿ります。どうやら”土器らしきもの”があったのは事実のようです。今どこにあるんでしょう……。
「小沢」という地名から
小沢の1番”むかし”はいつなのでしょうか?
土器がないので、断定は難しいですが楽しみながら考えてみます。
スケールの大きい話をすると、人類は大河周辺で発展してきました。
生活用水にも、作物にも水が必要だったためです。
さてさて、小沢……小さい沢です。
「沢」は、細い川、短い川の通称とされます。定義上では沢も川の一部に含まれますが、山間部でのみ使われることが多いことが特徴です。
そして、小沢は1955年に弘前市に編入されるまで「清水村」という村の一部でした。清水……湧き出る澄んだきれいな水の意です。
水資源があるという点で、土淵川の源流を有する久渡寺山とその麓の小沢・坂元地区は昔から「ヒトの住みやすい土地」だったのではないかと考えられます。
校長室前の土器は行方不明でも、
2000-4000年前からヒトが住んでいた可能性はありそうです。
ヒトにとって暮らしやすい小沢
縄文・弥生人にとって、小沢は「水資源に近い」暮らしやすい土地であったと考えられます。豊かな水資源は今の「りんごが美味しい小沢」にも少なからず影響していると考えられます。
縄文人から選ばれる土地であった小沢です。
現代人にも……と言いたいところですが現実は厳しいです。
でも、小沢で育ったりんごは最高ですよ。
次回は「藩政以前の小沢」です
今回は、土器の出土から最古の小沢人を想定してみました。
次回は「藩政以前に小沢」を描いてみます。
津軽(大浦)為信が浪岡城を攻めて独立を果たしたのが約430年前の話です。久渡寺の歴史はその300年前からあるともされ、弘前がまだ南部藩だった頃の歴史にも通じます。
歴史を知ると、見るものの感じ方も変わるものです。地域を盛り上げれればと思っても、なんてことを始めてしまったのだと、少し後悔しています。小沢の歴史は思っている以上に壮大でした。
次回もお付き合いいただけると嬉しいです。
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