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乳飲み子のように、何もできない私でいい。

天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」

新約聖書 ルカによる福音書 2章10-12節 (新共同訳)

こんにちは、くどちんです。キリスト教主義学校で聖書科教員をしている、牧師です。

キリスト教会の暦では、クリスマスの4週間前から「アドベント(待降節)」という、クリスマスを待ち望む期間に入ります。今日はそのアドベントの4回目の日曜日で、教会ではこの日曜日にクリスマスを祝う礼拝を行うことがほとんどです。かく言う私の所属教会でも、今日クリスマスの礼拝をささげました。

世の中を見渡すとこの数日ものすごく心の痛む出来事ばかりが聞こえて来て、実は今日も礼拝に行く前にそんな悲しいニュースを知ってしまい、絶望的な気持ちでの一日のスタートになりました。ネットを開いたりテレビをつけたりすると、とにかくそういう持って行き場の無い憤りを感じるような出来事ばかりが目に入ってしまうので、今日はおとなしく本を読むなり韓国語の勉強をするなりしていよう……と思ったのでした。受け止めきれない悲しみや怒りからは、時に距離を取ることも大事ですよね。

しかしまあそうやって目を瞑るようにして過ごしていても、心のどこかではずっと引っかかっているあれこれを思い巡らしてしまうもので。

どうしてこの世の中はこんなに悲しみに満ちているんだろう。どうしてみんな幸せになれないんだろう。自分や他者を傷付けずにはいられなくなってしまうのはなぜなんだろう。そんなことをぐるぐる考えておりました。

そこでふと思ったのが、「私たちは『私』として生きようとし過ぎているのではないかな?」ということでした。

先にも書いたように、今年は韓国語の勉強を始めて楽しく頑張っているのですが、その中で興味深かった学びとして「우리(ウリ:私たち)」という言葉がありました。「韓国語では『私の』というよりも、『私たちの』と形容することが多い」ということを聞いたのです。

たとえば自分の配偶者のことを指す時、普通私なら「私の夫」と言いますが、こういう時も「우리 남편(直訳すると、『私たちの夫』)」と表現するそうなんですね。

考え方の違い……と言ってしまえばそれまでですが、「私」という捉え方ではなく「私たち」という捉え方を好むそのスタンスに、私は何となく好ましいものを感じたのでした。

「私たち」という捉え方で、自分が常に誰かと繋がっているという認識を持つことは、煩わしい部分もあることでしょう。「自由になりたい、好きにさせてくれよ」と思うことも多いのかもしれません。かく言う私も結構「おひとりさま」で行動するのが好きな質なので、実際に「우리」の文化圏で暮らしたら「勘弁してくれ~」などと言い出す可能性は大いにあります。

ただ、やっぱり辛い時、心細い時、自分一人では抱えきれないと思われる痛みや疼きに耐えかねている時、「우리」と言ってくれる誰かが傍にいてくれると嬉しいだろうな、心強いだろうな、とは思います。たとえ問題が解決しなくたって、「独りじゃない」と思えることが、目の前をほんの少し、ふっと明るくしてくれる。そう、それはまるで、クリスマスを象徴するロウソクの灯のように、小さいけれども温かい光のゆらめきとして、心の片隅を照らしてくれるものになる。そう思うのです。

「そんなこと言ったって、人は一人で生きるものだ。誰かに頼ることを前提にするのは弱い生き方だ」と言う人もいるでしょう。そう言って強く生きられる人は、それでもいい。

でも、人はいずれ必ず弱ります。弱さを抱える時が来ます。じゃんけんに勝ち続けることができないように……と私はよく形容するのですが、どうしたって努力では及ばない「何か」によって「負け」を喫する日は必ず来るのです。

そんな時に、強くある生き方だけしか受け入れられなかったら、自分で自分を否定するしかなくなってしまいます。

このクリスマスに改めて思ったのは、「聖書はそんな『弱い時』の私たちのために先回りして、『弱くあること』を受け入れてくれている」ということでした。

救い主としてこの世に降ったイエスさまは、筋肉隆々、光り輝くスーパーマンのような姿では現れませんでした。貧しい家畜小屋の飼い葉桶の中で、泊る所さえ見付けられない若く力の無い夫婦の間に、自分一人では何もできないどころか命さえ落としかねない弱々しい存在として、ただ横たわる乳飲み子。それが私たちに示された救い主の姿です。

何もできなくていい。力なんて無くてもいい。豪華でなくても寝床を与えてくれる誰かと共に生きられればいい。見栄えが悪くてもその存在をくるんでくれる布を差し出す誰かがいてくれればそれでいい。寒風吹き込む家畜小屋でも、共に身を寄せ合って眼差しを交わし合う誰かが寄り添ってくれるなら私たちは一緒に生きていける。そこに神さまは共にいる。

これから先、私にも、これを読んでくださっているあなたにも、「私はもうダメだ」と思ってしまう日が来ることでしょう。それはひょっとしたら一度や二度では無いかもしれない。でも、そんなダメな時が来ても、「それでいい」。ダメな自分を、まるで乳飲み子のように何もできないままにさらけ出して、神さまの前にただ「おぎゃあ」と泣いていても良いのです。だって、神の子イエスもそうされたのだから。

「私が」「私だけが」何とかする、ということから解放されたら、素直に「隣にいる誰か」と共に支え合う生き方に開かれていけるのではないか。いや、きっとそうだ。そうだと信じたい。いや、信じる。その先に、神の国は来る。

「信仰」ということの底力を確信するクリスマスです。

メリークリスマス。決して煌びやかではない、クリスマスの真の喜びが、あなたと共にありますように。

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