光は暗闇の中でこそ輝く

ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

新約聖書 ルカによる福音書 2章6-7節 (新共同訳)

こんにちは、くどちんです。キリスト教学校で聖書科教員をしている、牧師です。

2020年が終わろうとしています。本当に今年はとんでもない一年でしたね。今年のお正月には家族で旅行に出かけたのですが、それがずいぶん昔のことのように感じられます。家族で話していて、「あれ、いつのお正月のことだったっけ?」としばらく首を傾げておりました。

一方で、今年は個人的に嬉しい知らせも続きました。身近な友人たちに、それぞれお子さんが生まれたのです。こんなご時世で病院も本当に大変な中なので、出産時はどうなるか……と心配もありましたが、結果的にはどの友人の家庭も皆健やかに新しい命を迎えることができたようで一安心。むしろ「こんな年だからこそ」一層喜ばしく感じられる出来事となりました。

冒頭に引用したのは、クリスマスの出来事を記した聖書の一節です。クリスマスは楽しい、明るいイベントのように思われがちですが、聖書が伝える「最初のクリスマス」はとても暗く、寂しい状況の中に起こった出来事です。

ヨセフとマリアの年若い夫婦は、時の権力に翻弄されるようにして、身重の体を携えて住民登録のための旅に出ます。これだけ交通機関や医療が発達した現代でさえ臨月間近の旅行は推奨されるものではないのですから、当時の彼らの不安はいかばかりであったかと思います。

しかも町は同じような旅の人たちで宿がいっぱい。さらに出産というリスクを抱えた彼らはまさに「招かれざる客」だったことでしょう。やっとあてがわれた一夜の宿は、なんと家畜小屋。うーん、あんまりじゃなかろうか、と思ってしまいますよね。今年子どもを授かった友人たちがもしそんな風に「まともでない」扱いを受けたなら…と想像すると、胸が痛みます。考えられない。

聖書は救い主の誕生を、そんな「どん底」とも言えるような場面として描くのです。どこにも華やかさや煌びやかさが無い、人の世の中心から外れた、暗く寂しい場所での出来事として。

この救い主はのちに十字架で刑死することになります。世の中心から疎外された人たちへの愛を語り、愛を伝えた結果、世の中心に立つ人たちから嫌われ、憎まれ、十字架刑に処せられることになります。徹頭徹尾、「世界の中心 ”から外れた所” で愛を叫ぶ」のが、聖書の伝える救い主なのです。

今年は誰もが多かれ少なかれ疎外感や孤独感を味わうことになった年だと思います。でもそんな暗い、寂しい時の中でこそ、友達の元気そうな顔を久しぶりに見た時の喜びや、誰かの小さな一言の温かさ、「会いたい」と思える人がいることのありがたさなどが心底感じられた時にもなりました。

個人的には、自分が自由に身動きを取れなくなったことで初めて、「これまでそういう境遇に置かれていた人たち」の辛さを痛感しました。以前から思いを馳せてきたつもりではありましたが、いかにそれが足りないものであったかと深く反省したのです。「デジタル関係は苦手」と全てをひとくくりにして知らんぷりをしていた私でしたが、自分なりに方法を学んで、登校しにくい生徒さんたちのための遠隔授業のあり方を考えることができました。またオンラインでの礼拝方法を模索したことを通して、遠方に引っ越したり入院中だったりする皆さんとも祈りを合わせる機会が持てました。

今年の経験を通して、世の中全体が今までの価値観を見直すことになるのでしょう。大きいこと、広いことを一概に良しとするのではなく、小さくとも身近な繋がりを見直したり。当たり前だと思い込んでいたやり方を改めて、新しい方法にチャレンジを始めたり。誰かを見過ごしにしてきた自分たちのあり方をきちんと見詰めて、より細やかに連帯する必要性に目覚めたり。

暗く寂しい家畜小屋にこそ救い主が生まれたように。暗闇の中でこそ小さな灯が明るく輝いて見えるように。苦しい、息の詰まる一年だったからこそ、私たちはそこから新しい、喜びに満ちた「何か」を見付けることができるのだと信じます。

私たちはそんなにやわじゃない。来たる新しい年は、もっと良いものにしてみせる。逆境の中でさえ、それを上回る「善いもの」を見出し、生み出していってみせる。そんな風に思います。

皆さま、どうぞ良いお年を、ものすごく素敵な新年をお迎えくださいますように。そのことを強く信じつつ、お祈りしています。

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