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「受け手」としての新しい経験で「目からうろこ」の彩りに出会おう

そこで、アナニアは出かけて行ってユダの家に入り、サウロの上に手を置いて言った。「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、私をお遣わしになったのです。」すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで、身を起こして洗礼(バプテスマ)を受け、食事をして元気を取り戻した。
新約聖書 使徒言行録 9章17-19節(新共同訳)

こんにちは、くどちんです。キリスト教主義学校で聖書科教員をしている、牧師です。

韓国語を勉強し始めて、もうすぐ2年になります。何度かその辺のことにも記事で触れてきました。

私は「牧師として」「教員として」、この社会人人生を歩んできました。いずれにせよ「教える」という立場です。
時に研修などもありますし、いろんな本を読むなどして研鑽に励み続ける必要はあるものの、基本的には「人に伝える」ことが私の歩みの基軸にあります。

そんな私が、全く新しい学びとして韓国語を始めました。
これについては私は何ら「教えられること」「伝えられること」を持たないわけです。ただただ、テキストから、先生から、「教えてもらうこと」「受け取ること」ばかりの立場です。
「分からない人」として、完全な「受け手」の姿勢になるということは、とても新鮮なことに感じられました。

ハングルを覚え始めの頃、ご多分に漏れず「ダブルパッチム」に悩みました。「こんなん一生覚えられへん気がする(泣)」とへこみました。
へヨ体等の活用を学び始め、変則活用なんかが出て来ると、「これ一個一個覚えるしかないのん?! 無理じゃない?!」と嘆きました。
月に1回だけ教室に通うようにし始めて、やっぱり体系立てて教えてもらえるのはありがたいなぁとしみじみ思う一方、「次当てられたらどうしよう」「なんでみんなスラスラ答えられるん?!」と焦りを覚えました。

そしてその度に思いました。「今まで生徒さんたちが感じてた不安とか、焦りとかって、これやったんやな……」と。

大人になって、社会に出て、働き始めの時は、全てが分からなくて、先輩方に教わる一方でした。
ところが、気が付けば職場でもそれなりに自分が先輩の立場になってきていました。時に同僚や先輩に助言を仰ぐこともあるものの、大抵のことには「自分で考えて対応しなければ」と思うくらいの責任感や、それができる程度の経験値は備わっていたのでした。
「助けてもらう」「手伝ってもらう」はたくさんあっても、純粋に「教わる」ということは減っていたのだと思います。

そんな中、韓国語と出会って新たな学びを始めたことは、私の社会人人生を大きくリフレッシュさせるものになりました。

「初心忘るべからず」とはいうものの、頭で思うのと、「やばい! 次当てられたら、これ上手く読めへん! どうしよ!」なんて激しい動悸と共に味わう初心とでは雲泥の差があります(笑) 「分からない時は分からないと言って良い」「分からないと素直に助けを求める人に対しては親切に丁寧に教えるべきだ」なんていう当たり前のことを、身をもって再確認することができたのでした。

冒頭に引用した聖書箇所は、サウロがアナニアの祈りによって目を癒される場面です。有名な「目からうろこが落ちる」という諺は、ここから来ているのですね。
ユダヤ教の指導的な立場で、まさに「教える」者として力を誇っていたサウロは、不思議な体験を通じて目を曇らされます。そこにイエスの弟子であるアナニアがやって来て、イエスの名によって祈ると、サウロの目からうろこのようなものが落ち、元通り見えるようになったのです。サウロはその後、元のユダヤ教のスタンスからは大きく離れ、「イエスこそ救い主である」ということを伝える、キリスト教の宣教者としての第二の人生を歩み始めます。

自分は教える側の人間だ。間違っている者、分かっていない者に対して、自分が教えてやらなくては。
そういう自負を持って生きていたであろうサウロが、自分の力では手も足も出ない状況になり、むしろ「人に乞う」立場を経験することで、これまでの自分を大きく超えた別の生き方へと開かれていったのです。

韓国語を学び始めた私は、街中でこれまで見過ごしていたハングル表記に目を奪われまくり、出掛けた先々で「これは読める」「こんな言い方するのか」「この単語知らないぞ」と休む間もなくきょろきょろしてしまうこの頃です(笑) 韓国語学習を通じて新しいお友だちもできたり、仕事でしんどいことがあっても「切り替え」の利く時間が持てたりしています。
リスニングと称してこれまで全く見たことの無かった韓ドラにも触れ、同僚とその話で盛り上がったり、生徒さんからも「私の推しドラマはこれです!」と教えてもらえたり。
サウロのような大転換ではなくても、「新たな学び」「新たな出会い」というものが、人生の楽しみを広げてくれるということは大いにありそうです。

「できること」「やらねばならないこと」に埋め尽くされがちな毎日の中に、「まだできないこと」「やってみたいこと」を加えていけたら、まさに「目からうろこが落ちた」かのように、さらに彩り豊かな日々が見え始めるのではないでしょうか。


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