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闇の中でこそ感じられた光

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
新約聖書 ヨハネによる福音書 1章1-5節 (新共同訳)

こんにちは、くどちんです。キリスト教主義学校で聖書科教員をしている、牧師です。

2022年最後の日曜日となりました。それがクリスマスに当たるという、今年は何とも面白い巡り合わせになっています。

先日、「今年の漢字」が発表になりました。

この募集のポスターが我が職場にも貼ってあって、それを見た今月初め頃、「私にとっての『今年の漢字』って何かなぁ……」と考えていました。

私は毎年のようにこれについて考える習慣があって、夫婦で年末、お互いの一年を振り返って夜な夜な話したりしています。今年はこんな一年だったからこの漢字かな、来年はこんな漢字で表現されるような年にしたいな……などなど。

この2022年を振り返って、「私の今年の漢字」を考えてみた時、初めに湧き起こったのは、「『どん底』の『どん』に漢字があるなら、それにしたいなぁ」という思いでした。
「どん」って何だよ、「どん」って。(セルフツッコミ)

人生生きていればこんなこともあるんだな、仕事を続けていれば思いもかけなかった出来事に出会うものだな。そんなことを思った今年でした。
何というか、「人生はいつも想定外」なんて分かったようなことを言いながら、それでも「想定内の想定外」しか想定していなかったんだなぁと思い知らされるような、唐突に横っ面を張り倒されて面食らうような、そんな思いを味わった一年になりました。

そんな中で、「どん底」と言いたくなるような状況もあったのですが、「一字選べ」と言われた時に「底」はしっくりこなかったんですね。
なぜか。
「確かに底だとも思ったけど、だからこそ感じられた温かさや繋がりもあって、そう思うと『底』にいながら『上の方』を仰いでもいたなぁ」なんて思ったんですね。だから、「底」という字から連想する「絶望」のイメージでは捉えたくなかったんだと思います。
思い切り深い所まで沈んだ、でも「底」をずしんと蹴ってまた浮上していきたい、「底」を打った衝撃の部分だけ取り出す意味合いでの、「どん」。(伝わる?)

今日はクリスマスで、多くの人がイルミネーション輝く街で楽しい時間を過ごしておられるのかもしれません。それはとても幸せなこと。
一方、先の「今年の漢字」にも表れているように、文字通りの戦禍の中で明日をも知れぬ思いをしている人もいれば、生活の苦しさや生きづらさと闘っている人もいます。
聖書が語るクリスマスは、本当はこういう「暗い所」にいる人たちに届けられた希望の灯のメッセージです。

「救い主」という言葉の仰々しさとは裏腹に、寒く暗い夜、世間から爪弾きにされて居場所も無かった親のもと、家畜小屋の飼い葉桶に寝かされたとされるみどり児イエス。生まれたての赤ん坊という、弱々しく小さな壊れやすい有様は、とても「救い主」というイメージからは遠かったことでしょう。
でも聖書の語る救い主は、このような暗い所、寂しい所、悲しみと嘆きのある所、多くの人が眼差しを向けない所にこそ、来られたのです。
それは、クリスマスのキャンドルの灯にも似て、暗闇だからこそ一層温かく輝く希望の光です。

私が先に「底」ではなく「どん」だと感じた今年の歩みも同じでした。
言葉にならない辛さを感じはしたけれど、そんな状態だったからこそ染み入る優しさがあったり、そんな思いをしたからこそ再認識できた恵みがありました。これからどうしたいか、どうすべきかを深く考える機会にもなりました。
今年のこれらの経験を、単なる「不幸」として分かりやすく片付けるのではなく、微かだけれども確かにその中で垣間見た「滋味深さ」のようなものを、しっかり嚙み分けて味わいたいと思いました。
そして、立場や状況は違っても今やはり苦しい思いをしている人たちと共に、私もまた寄り添える一人として歩めたらと願ったのでした。

クリスマスの喜びが全ての人の上にありますように。
悲しみに暮れる人にも、ほんのひと時顔を上げられるような、美しく温かい希望の灯が見出されますように。
その灯を分かち合うことで、人の世が光に満ちた温かなものへと変わっていけますように。

新しい年、皆さんの身近な所から神の国が始まっていくことを願います。


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