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人生はままならぬものだけど ~ドラマ「二十五、二十一」を観て(ネタバレあり)

何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
生まれる時、死ぬ時/植える時、植えたものを抜く時
殺す時、癒す時/破壊する時、建てる時
泣く時、笑う時/嘆く時、踊る時
石を放つ時、石を集める時/抱擁の時、抱擁を遠ざける時
求める時、失う時/保つ時、放つ時
裂く時、縫う時/黙する時、語る時
愛する時、憎む時/戦いの時、平和の時。
旧約聖書 コヘレトの言葉 3章1-8節 (新共同訳)

こんにちは、くどちんです。キリスト教主義学校で聖書科教員をしている、牧師です。

韓国語リスニングがてら、韓国語ドラマを見るようになって1年半が経ちます。
いやー、たくさん観たよ。面白いもん。

で、最近観終わったのがこちら。

「二十五、二十一」。実際話題になっていたのは去年だと思いますが、やっと観ました。
とても良かった! 面白かった!
以下、ネタバレありの感想です。

私はこの物語を、徹頭徹尾「人生のままならなさを描いた作品」だと思いました。
そもそもの発端はIMF危機。
裕福で何不自由なく暮らして幸せだったペク・イジンは、父の商売が破綻して家族が離散し、孤独にアルバイトを重ねながらも父の借金取りにまで追われる状況。お父さんだってずさんな商売をしていたわけではないでしょうに、本当に「誰も悪くないのにどうして?」と言いたくなるような悲劇です。
一方ナ・ヒドは精魂傾けてきたフェンシングができなくなるというピンチに直面。これもまたIMF危機の煽りで部が無くなるというのです。食って掛かるヒドにコーチは「自分のせいじゃない。時代のせいだ」と。
「時代のせい」で、これまで当たり前のように享受してきた幸せがするりと逃げていく。
でも、人生は続く。
そして、続いて行く先では良い出会いがあり、努力や誠実さの実る場面もあり、助けの手が差し伸べられることもある。
必死で顔を上げて、這いつくばってでも前進しようとしていたら、「ずっと真っ暗」ってことは無いんです。

でも、じゃあ「逆境を乗り越えた先はずっと幸せか」というと、それもまた違う。
自分以外の人たちの思いに翻弄されたり、まさに降って湧いたような災難に出会ったり、いわれのない非難に晒されたり、悲劇の前に無力さで立ち尽くしたり……。
これもまた、努力だけではどうしようもなく避けられない「谷」の時期が、またやって来てしまうんです。

でも、山も谷もずっとは続かないし、私たちの目ではそれが本当にどうしようもない谷なのか、越えられない山なのかなんて見極められないんですよね。ただ、自分らしく歩むのみ。
ヒドの友人、全校一位のスンワンが学校を退学になり、問題児扱いされていたジウンが将来的には商売に大成功していく……というのも象徴的でした。スンワンも、その後大学はトップ校に入学しましたけどね。

ラストの方で、ヒドが選手引退の相談に行った時の、ヤンコーチの言葉が印象的でした。
手のひらの中のコインの数が奇数か偶数かで「引退か、選手を続けるか」を決めようと言って拳を突き出すコーチ。でもヒドが答えようとすると、「やめた」と言って手を引っ込めてしまいます。実はこの賭けは、ヒドとコーチの出会いの折にも行われたもの。その時ヒドは賭けに負け続けましたが、結局コーチはヒドを受け入れたのでした。
それを思い起こさせ、「奇数が出ようが偶数が出ようが、あの時私はあなたを受け入れた。大事なのは、意志。意志が決めるのだ」と、ヒドの引退についての自覚的な決意を促しました。

世の中の流れは非情で、個人の事情なんか顧みてくれない。良いものも決して永遠ではなく、やがては古びて綻びていくし、希望に満ちた出会いもあれば心痛む別れもある。
人の心や置かれた立場もまた移り変わるもので、言いたいこと、言えなかったこと、言うべきでは無かったことを大きく飲み込みながら、人生は流れていく。

でも、「だからどうにでもなれ」ではないんですよね。
「だからこそ、自分はどうしたいか、どうなりたいかを考えよう」ってことなんだと思います。
自分を大事にするとはどういうことか。自分の心は今何を見ているのか。
仮に「かつて大切に思っていたもの」が、「今大切なもの」でなくなってしまったとしても、「だから無意味だった」ではなく、「その時、私が大切にしていたという事実」が人生の軌跡として残る。
人生の流れに呑まれながら、それでも意志によって抗いながら、辿ってきた道のり、掴み取ってきた方向性が、全部「その人」を作っているのだと思います。

だから、ヒドとイジンが別れを選んだことも「悲劇」ではなくて、「かつてあんなに眩しく共に過ごした日々があった」ということがちゃんと残った、ある種の「ハッピーエンド」だったんだと思いました。

ドラマの最後の最後に、ずっと年を重ねたペク・イジンの、パソコンに向かう後ろ姿が現れます。ログインPWを忘れてしまったあるサイトで、PWの再発行をしようとして「秘密の質問」に答えるイジン。「初恋の人の名前は?」「ナ・ヒド」。
たとえ別れてしまっても、あの美しかった、前を向く力をもらった、互いを希望としていた日々は、ちゃんと残っているんだなと思えました。

改めて冒頭の聖句を思い出しました。
良い時も悪い時も、それは私たちの目で見た一時的な判断に過ぎなくて、すべてはもっともっと大きな流れの中にある。
「すべては流れていくのだから」と投げやりになるのでもなく、「すべてを思い通りにしなければ」と躍起になるのでもなく、「私が向かいたい岸辺はどちらか」を見定めながら、流れの中をしっかり腕を振って脚をばたつかせて泳いでいくしかない。
そんな、甘酸っぱいような眩しいような「人生賛歌」だな、と思った作品でした。
次は何を見ようかな。


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