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ショート【私の猫】

深夜2時、霞む目を擦りながらキャンバスに向かう。
淹れたてだったコーヒーはほとんど口を付けないままとっくに冷めているし、顔には絵具が付着していたがそれすら気にならない。


「…ねぇ、まだ寝ないの?」


寝室から出て来た彼女が寝惚けた声で訊ねる。


「ああごめん、起こした?」

「そうじゃないけど。来ないから」

「作業がなかなかキリにならなくてさ。そこまでは持っていきたいんだよね」

「そう」


短く返事をしてペタペタとこちらへ来る。

「どうしたの?寝ないの?」

「だって君が隣に居ない」

「終わったらそっちに行くから」

「やだ」

「やだって…」


作業に集中したい時に駄々をこねられると少々イラつくのだけれど。


「明日、帰ってくる?」

「なんで?」

「だって…」

「だってなに?」


つい口調が強くなる。


「君、野良じゃん」

「…あー」


そういう事か。


「私」は「彼女」に拾われ今は飼われている。

今は。


フラっと入ったバーでたまたま知り合い、たまに会うようになり、たまに彼女のマンションで手料理を振舞ってもらうようになり、そのまま彼女のベッドで共に夜を過ごす事が増えたある日の事。

「このマンションね、ペット禁止なの」

「ふーんそうなんだ」

「でもずっと猫飼いたいなって思ってて」

「猫好きだもんね」

「そう。だからね」

「うん」

「私に飼われてみない?」

「…なに?」

「君って猫みたいだなーってずっと思ってて。だからお試しで私の猫ちゃんになってみない?」


無邪気でイタズラな笑顔で何を言い出した?
頭の中を様々な可能性が駆け巡る。

「えーとそれは付き合うとか同棲とか」

「違うよー!君そういうの無理でしょ?だから猫ちゃんとして私に飼われるの。どう?」

「あーキミはペット的な」

「そう、キミは私のペットで猫ちゃん。でも元は野良の猫ちゃんだから気分で出て行ってもいいから。しかも3食飯付き!作業スペースあり!ね、悪くないでしょ?」

「…あー…。はは。なんか都会〜って感じ。まぁ、うん。いいよ、好条件は大歓迎」

「ほんと?決まり?」

「決まり決まり。私は貴方の猫ちゃん。にゃあ」


異性とか同性とか、付き合うとか付き合わないとか、飼うとか飼われるとか。
この世界では別になんの問題も無い気がした。

この話の最後のひと押しのつもりで用意したであろう、お揃いのNUXEのハンドクリームを満面の笑みでプレゼントされた。

それがひと月ほど前の話。


「…ねぇ。ちょっとだけワガママ言っていい?」

「今の私に聞ける事なら」

「ぎゅってしてほしい」

「寂しくなったの?いいよ。おいで」

立ち上がり手を広げる。
吸い込まれるように彼女は私の胸の中へ収まった。
彼女の方が少し身長が高い。
互いにハグの位置を調整する。

縋るように顔を埋める彼女の背中に腕を回し頭を撫でた。
優しく、優しく。

絵具が付かないよう手の甲で。


「ねぇ」

「うん」

「君の見てる世界を私も見てみたい」

「展示を見に行きたいって事?」

「そうじゃなくて。君の頭の中を見てみたい」

「あと数年したら見られるかもよ?そういう化学技術の進歩は凄まじいから」

「…ふふ」

「どうしたの?」

「わかってるクセに話を逸らした。ズルい猫ちゃん」

「んー?なんのことかにゃあ」

手の甲で前髪を掬い額にキスをする。

少し肌荒れをしている、無理をさせているのだろうか。


「ね、もっと」

「ちょっと待って絵具が乾いちゃ」

「お返事」

「…にゃ」


これじゃあまるで猫じゃなくて犬だ。

描き途中の絵が気になってくちづけにも集中出来ない。
視線を落とそうとすると無理矢理顎を引き上げられる。


この場合の

対処法は


一旦くちびるを離し、頬擦りしながら耳元で囁く。


「ハンバーグがいい」

「ハンバーグ?」

「明日のごはん、夜ごはん」

「急になんで」

「貴方の作るハンバーグ好きだから。知ってる?ハンバーグを美味しく作れる女性って意外に少ないんだよ。でも貴方のハンバーグはすごく美味しい。あとジャガイモのグラッセも食べたい」

「えぇ…うーん、時間あるかなぁ」

「明日、一緒に食べたいにゃあ」

「もー!しょうがない猫ちゃん!私の猫ちゃん!」


ギュッと強く抱き締められグエッと声が出た。
とりあえずご機嫌取りには成功したようだ。


「明日はちょっと気合い入れるよー!」

「私も明日のために絵を描き上げるよ」

「あした!」

「うん、あした」


明日、あした、アシタ。

直近の約束は守る。だから明日は帰ってくる。

約束、契約、誓約。

本当は好きじゃない言葉。鎖のようで息苦しい。


でも貴方は優しい。
『気分で出て行ってもいい』なんて。

だから貴方もズルい。
『明日帰ってくるか』なんて。

でも私もズルい。
『ハンバーグが食べたい』なんて。

だから私も優しい。
『明日のために』なんて。


本当は食事なんてエネルギーの補給だからなんでもいい。
プロテインバーが一番効率がいい。

やりたい事がある、だからやりたくない事は避ける。
避けられる限りは避ける。
能動的に活動するための効率化、すべてはそのために。


寝室に戻ろうとした彼女がピタッと立ち止まり振り返った。


「…胃袋掴めた?」

「ばっちり。がっちり」

「大成功ー!」


ご満悦な様子で部屋を出て行く。

出会った頃の強気な彼女はすっかり影を潜め、暗がりに消えて行く背中はまるで少女のよう。

悲しそうな笑顔も泣き顔も、見たくないなんて思ってしまう。


「…余計な感情」


ぽつりと独り言をぼやいて描きかけの絵に向かう。
筆を持ち次の色を…続きを…

描けない。
…ああやっぱり、興醒めしている。


重い嘆息。
仰ぐ天井は高く。
乾いた絵具に拒絶され。

私はヒトとしてヒトと寄り添えない。
確認と確信。
何度も、何度も繰り返した。



LINEを開き通話ボタンを押す。

「もしもし」

「もしもし、どしたの?」

「遅くにごめんね、前に話した『物件』の事なんだけど」

「あーやっぱり無理だった?」

「最短で無理。だから次を最速でお願い」

「OKだよー!条件まとめて明日打ち合わせしよう」

「謝謝」

「不用謝、流浪猫」



『絵具で部屋を汚さない事』
『私の居ない時に他人を入れない事』
『最後に。相談無く勝手に出て行かない事』


最後は守れそうもない。
いや、最初の条件は既に守れていない。


貴方は私が猫だからといつもお刺身を用意してくれたね。
でも本当はお刺身よりも赤身のお肉が好きなんだ。
貴方は私がジャガイモが好きだからといつもフライドポテトを作ってくれたね。
でも本当はジャンクのフライドポテトで充分なんだ。
貴方は私がつまらない顔をしない為に沢山お話をしてくれたね。
でも本当は貴方の話を聞くのが一番退屈だったんだ。


この短期間でお互いに何度「ごめんね」を言い合っただろう。

もう終わりにしよう。
早い方がいいだろう。


貴方は優しいから、きっとすぐに新しい猫を迎えられる。
広い部屋で独りきりの時間を、あの時のように埋められる。


ごめんね、一度も貴方を求めなくて。
ごめんね、一度も「好き」って言わなくて。



「明日は」ちゃんと帰るから、一緒にハンバーグを食べようね。

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