祈りのシンクロは、海を越えて。(導かれた旅の道) その11
ところがロレッタは。
日本に来たこともなければ、もしかして私が初めて触れ合う日本人だったのかもしれないのだ。震源地と私の住む東京がどれくらい離れているのかも、感覚的にはわからないだろう。それなのに心配しメールをくれたことが本当に嬉しかった。
海を越えて繋がっている感じが、なんとも心強かった。
それから数年後、もっと心震えることが起きた。
長い長い間求道者だった私が、ついに洗礼を受け、ロレッタにも知らせた時のこと。まるで自分のことのように喜んでくれて、お祝いに英語の新約聖書を贈ってくれた。
ロレッタにお礼の手紙を書いた。
「思えば旅行中の身であるのにもかかわらず、あの日バイブルクラスのドアを叩いたこと自体が、確かに導かれていたのだと思います」
「そして、そこで出会ったロレッタとの思いやりあふれるふれあいと、いつも気にかけてくれるやさしさに、私はある意味大きな川を渡る決心ができたのでは? と思います」
多少大袈裟な表現も使ったけれど、ロレッタがいてくれたからこそ前に進めたのは、まぎれもない真実。洗礼後、しばらくはいつものようにメールやカードのやり取りが続いた。
ある日、ロレッタがパーキンソン病を発症して字が書きにくくなったと言う手紙を受け取った。最初のうちは返事など期待せず近況報告などをしたためていたけれど、もしかしたらそれも負担に感じているとしたら申し訳ないな、と思い、フェイドアウトするように私も書くことを止めてしまった。
だから、ここ数年のロレッタの様子はわからない。もしかしたら天に召されてしまったかもしれない。そう考えると、とても悲しい。
ただ、この「繋がっている」感じは強固で、たとえ地上にいなくても、どこかで何かで通じ合えるという確信もある。
何より私の人生の一時期を確実に支えてくれたことには違いなく、その思い、感謝の気持ちは、そう簡単には消えないのだ。
大丈夫。
私はあの日教会のドアをためらわずに開いたように、これからももっともっと新しいことに向っていける。
ドアのむこうでは、ロレッタのような愛に満ちた人がきっと待っていてくれるだろうから。
ロレッタ、本当にどうもありがとう。 完