非言語による共通言語のつくりかた
この記事はGoodpatch UI Design Advent Calendar 2019の14日目の記事です。
私はGoodpatchという会社で、クライアントワークを通じて、様々な企業や事業にUXデザインやサービスデザインの専門性を持って携わってきました。
それらの携わった企業の中で、変化に強くスピード感を持って世の中に価値提供できている組織や事業に共通していたのが「共通言語」の存在です。
本記事では、UXデザインやサービスデザインの観点から、「共通言語」はなんのためにあり、どのようなものであるべきなのかを考察していきたいと思います。
「言語」の曖昧さと解像度
ビジネスシーンにおいて、共通認識を取るために一番多く用いられるのは「言語」によるコミュニケーションです。
私たちが行っている日常的なコミュニケーションは、基本的に言語を用いて行われます。ビジネスシーンにおいても多くの場合、チャットツールやメール、各種資料や仕様書等にも言語(text)を主体とするコミュニケーションが用いられています。
ただ、この「言語」というものは非常に曖昧で、実は解像度が低く不確実性の高いコミュニケーションのアプローチだと私は考えています。
なぜなら、「言語」というツールは人によって扱い方や習熟度に差があったり、同じ言葉でも違う捉え方をしてしまうことが往往にしてあるからです。
私たちは言葉からその背景を想像し、多くのものを妄想して補いながらコミュニケーションをとっています。
そして、その言葉の背景を誰しもがブレが少ない形で、正しく捉えるために必要なものこそが「共通言語」なのです。
では、我々が共通言語を持つためには、どのような種類のコミュニケーションのアプローチがあるのでしょうか?
コミュニケーションアプローチの種類と段階
下図は、複数人におけるコミュニケーションアプローチの分類です。解像度の高低に応じて「リアル〜言語」まで段階的に振り分けた一例となります。
この図では、中心にある「リアル」での体験から離れれば離れるほど、人の五感すべてを利用しなくても理解や把握が可能なものになっていきます。
「リアル」は実際にその場で起こっている事実を五感を通して体験しているため、同時に複数人が同じ場で同じ体験をした場合、そこで起こったことに関する認識はブレが少ないものになります。一方で、それが「VR(疑似体験)→映像→画像→言語」と変遷するごとに、内包される情報量が著しく削られていきます。
このことからも「言語」の曖昧さや不確実性がわかるのではないでしょうか。
更に、人は情報量が削られている情報に触れる時、それぞれの脳内で自然と想像や妄想をしてその情報の差分を補おうとします。これが、個々に認識がブレる原因です。
このように、非言語でのコミュニケーションアプローチの方が世の中には多く存在しているにも関わらず、私たちが日常的に認識を合わせるために使っているのは「言語」でのコミュニケーションアプローチだということがわかるかと思います。
共通の認識を得るためにはどのような共通言語を用いることが必要なのでしょうか。
「共通言語」とは何か
結論からいうと、「共通言語」とは複数人でブレの少ない共通の認識を形作るために必要なコミュニケーションツールです。
そして、このコミュニケーションツールとは複数人が同じ観点で議論や対話ができる依代となるものを指します。
繰り返しになりますが、複数人での共創をする場合、それぞれの脳内イメージを前提に会話をしてしまうと、会話に参加する人の背景や専門性・経験に差があればあるほど、思いがけず認識がブレてしまうことがあります。
これは、コミュニケーションアプローチの選択方法とは別に、人間が多くの共通言語の上に「認識」というものを獲得しているがゆえに起こるものだと私は考えます。
・種としての共通言語
・環境としての共通言語
・文化としての共通言語
・経験としての共通言語
・個としての共通言語
人間という種として、
国や地域・コミュニティなどの環境として、
古来からの固有または共通の文化として、
過去に学習した経験として、
積み上げてきた理解や知識を保有する個として、
様々な認識を形作る言語化されていない非言語による共通言語が我々の周りには多く存在します。
そして、私たちは自身が思っている以上に主観的な生き物です。
その主観の裏には、上記のような様々な共通の認識が一様にあるという思い込みが隠されています。
「他者もAをAだと思うはずだ」
こういった無意識的な主観に基づいた認識を調整し、共通の観点を主観と分離して持つためのコミュニケーションツールが本来の「共通言語」なのです。
同じモノを見て、同じコトに向き合う
共通言語とは、無意識的な主観による認識を他者との共通の認識にするためにあり、そのために同じモノを見ながら同じ観点で議論や対話を行うことが重要です。
そしてこの「同じモノを見る」というのは、言語(text)だけでのコミュニケーションをすることでも、何か目に見える成果物や資料を渡すことでもありません。
この言葉の真意は、前述のコミュニケーションアプローチの中心にある「体験」を一緒にして同じモノを同じ場所で見たり聞いたり経験したりすることや、同じ観点を持つために思考のプロセスや判断に必要になったインプットを追体験できるような機会を作ることなどの、言語だけに頼らない非言語を活用した「共通言語」を作ることに他なりません。
前述のコミュニケーションアプローチを複数組み合わせながら、非言語での認識合わせができる環境を用意することによって、より強固な共通言語が醸成されるでしょう。
さいごに
この記事では、共通「言語」という書き方をしていますが、これは共通「認識」と同じ意味を指しています。
あえて「言語」という書き方を選択したのは、共通言語を人と人の中間にある独立したオブジェクトとして捉えてほしいためです。
人の脳の中に、共通言語は存在しませんし、共通の体験も存在しません。
存在するとしてもそれは無意識的な主観に紐づいた共通言語らしきものです。
自分の理解も他者の理解も非常に不確かなため、出来るだけ多くの体験を共にする機会を設計し、同じ認識で一貫した判断ができるように「共通言語」を組織やチームの環境や文化にしていくことが、変化に強くスピード感を持って世の中に価値提供する近道だと私は確信しています。
記事を最後まで読んでくださってありがとうございます。とても嬉しいです!