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「フレームの多重性」と「「この片隅」のポリフォニー」のあいだ([書評] 斎藤環『映画のまなざし転移』)

 神奈川大学外国語学部英語英文学科です。学科の先生によるコラムマガジン「Professors’ Showcase」。今回は、アメリカ文学が専門の冨塚亮平先生による斎藤環『映画のまなざし転移』(青土社、2023年2月)の書評「「フレームの多重性」と「「この片隅」のポリフォニー」のあいだ」です!

※『キネマ旬報』リニューアル号 に掲載された書評を編集部の許可を得て転載します。


 著者にとって『フレーム憑き』以来、約二〇年ぶり二冊目の映画評論本である。本書には、「読む、映画」として開始され、その後「映画のまなざし転移」のタイトルで現在に至るまで継続中の本誌での連載原稿を中心に、合計一三〇本もの映画評が収められている。限られた紙幅でその全体像をくまなく紹介することは不可能だ。そこでまず、「はじめに」で提示される要点を確認しよう。斎藤にとって映画とは「「デヴィッド・リンチと片渕須直のあいだ」に張り巡らされた表現のスペクトラムを意味している」のだという。いわゆるシネフィルが好むような「映画のための映画」よりも、「何かのための映画」、つまり「イデオロギー、倫理観、作家の無意識(あるいは「病理」)、大衆の欲望」のための映画を好むという明確なスタンスのもと、本書ではこの二人を両極として、何人かの固有名に特権的な重要性が与えられている。
 たとえば斎藤は、リンチの気質を「分裂病(統合失調症)なき分裂病」と「診断」し、「インランド・エンパイア」に「フレームの多重性」という特異性を見出す。劇中劇という手法によってフレームの操作を突き詰めたこと、極端な「顔のクローズアップ」を多用することでフレームの壊乱と顔のそれを地続きのものとして提示した点を新たな試みとして評価しつつも、その創造性をめぐる分析の中核は、あくまで前掲書の「マルホランド・ドライブ」論と連続している。同様の一貫性は、「中心気質」の北野武映画に語り合いと相互性の欠如、さらにはそこから帰結する「内面性」の欠如を指摘する手つきや、スティーヴン・スピルバーグ映画においてモンスターが常に「<女性=母>の位置」を占め続けてきたという指摘にも見られる。さらには、宮崎駿の「ロリコン」性、すなわち徹底して不能の、不在の少女へと向けられた性愛こそが、彼に倫理を担保し得たという達見、あるいは、是枝裕和作品に漂う繊細な「両義性の感覚」の背景に「大きな物語」を相対化する「小さな物語」を発信したいという監督の意志を看破し、それを正当にも彼の「政治的スタンス」と捉える鋭い視点もまた、いずれも特定の一本にはとどまらない射程を有する。斎藤は、繰り返し論じてきた彼らについては、症状として反復される無意識や病理として作品を捉える、病跡学的なアプローチを採用する。そこでは、彼がしばしば引く諺の通り、「変われば変わるほど変わらない」という精神分析の基本的発想のひとつでもある原則が、複数の監督作を跨いで確認され続ける。
 だが同時に本書には、この二〇年に著者や社会、そして精神医療のあり方が被ってきた変化もまた、はっきりと刻印されている。まず狂気の表現に近年見られる変容は、主に大作ハリウッド映画を通じて分析される。たとえば彼は、アスペルガー的な主人公を魅力的に描くデヴィッド・フィンチャー「ドラゴン・タトゥーの女」に「人格障害ヒーロー」から「発達障害ヒーロー」への移行を予見し、また『心理学化する社会』の議論を引き継ぎつつ、クリストファー・ノーランの「ダークナイト」三部作を、悪人やヒーローにはトラウマという「理由」があるという「科学的信仰」、すなわちハリウッドにおける「心理主義」を終焉させた点で高く評価する。さらに、トッド・フィリップスの「ジョーカー」を、悪を属人的にではなく、関係性の中で起きる「現象」として描くポスト「ダークナイト」を志向する作品として論じる。加えて、本誌連載のパートが実質的に「震災からコロナ禍まで」と要約できる世界の激変に並走したものである点も見逃せない。著者が初期から一貫して境界例の作家と「診断」してきた庵野秀明の「シン・ゴジラ」に見てとったこれまでにない「成熟」の主題は、明らかに震災後の空気感と無縁ではない。
 突出した個の症状としての映画から、集団的で「治療」や「ケア」へと接続し得る物語の共有へ。表現の創造性をめぐるこの変化を最も鋭敏に捉えているのが、近年の著者が日本への紹介に尽力しているオープンダイアローグの治療過程と類比的な作品群だ。その類縁性が直接言及されるのは坂上香「トークバック 沈黙を破る女たち」のみだが、完全版を含めれば本書で唯一、三度「反復的に」扱われる片渕須直「この世界の片隅に」は、実はこの点からこそ最も重要な一本なのではないか。斎藤は、劇中の出会いや出会いそこねの集積、のんの声やコトリンゴの音楽、緻密な時代考証がいずれも、すずという存在に捧げられることで、キャラクターをいっそうリアルなものにしているとする。そして、かつて彼が「単独性の手触り」と呼んだそのリアリティは、観客にとっても「治療」的意味をもつことが示唆される。戦後に欠如を縁として新たな人間と巡りあい、はじめて自らの意思で、決して取り替えのきかない世界の「この片隅」である呉で生きること、「普通の日常」を続けていくことを改めて選び取るすずの姿は、津波や原発事故、ロックダウンの衝撃からなんとか立ち上がろうとした私たちの生活、そしてウクライナやシリアの現在と地続きでもある。あたかもオープンダイアローグの治療実践を思わせる形で、虚構から著者が同作に見出す「この片隅」のポリフォニーを聴き取ることは、震災や疫病、戦争に立て続けに見舞われた世界の「この片隅」で、それでもわれわれが「普通の日常」を生き続けていくために、今後ますます必須の営みとなるだろう。

『キネマ旬報』創刊号 1919年
『キネマ旬報』リニューアル号

初出
『キネマ旬報』2023年8月号、170-171頁
キネマ旬報 

記:冨塚亮平


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