【読書感想】大学は誰のものか――国際卓越研究大学・教職員労働問題・就活のリアル…(現代思想2022.10)

すべてのひとに開かれた学びのために
本年5月にいわゆる国際卓越研究大学支援法が成立したことにより、大学をめぐる金と政治の問題はますます混迷を極めている。大学において教育や研究はいかにあるべきか。この問題は大学に所属しているかどうかにかかわらず、広く問われる必要があるだろう。本特集では、いま一度〈大学は誰のものか〉という問いに立ち返り、多様な観点から大学の課題と可能性を検討する。

【討議】

研究と教育のゆくえを問う / 石原俊+隠岐さや香

国際卓越研究大学支援法の成立による10兆円規模の大学ファンド設置を切り口に、独裁政権が横行する大学ガバナンスに更に外部の横槍が入る予測が示される。また大学政策全体を見ても、帝国大学への傾斜配分や理系偏重、あるいは地方大学の地域貢献分野への特化によって格差の拡大が進むことを懸念する。
経済安全保障の観点からデュアルユース(軍民両用)技術の開発のために大学と手を結ぶことが急がれていることと、大学ランキングを上げることで海外からの優秀な人材を集めることが政策目標に据えられていると推測されるが、それよりも足元の研究者雇用を安定させないと人材育成のサイクルが崩壊する危機があるのだから、ファンドはそのために使えばよいのではないかとの指摘。
全般的に「おそらく・・・だろう」「・・・ではないかと思う」などの推論にもとづく主張の多い対談になっており(あまり現代思想っぽくなく、週刊誌テイストと言うべきか)キワモノ感が醸し出されるのが残念だが、それゆえに読みやすくもあるのでそれなりに楽しく読めた

【揺らぐ大学自治】

国際卓越研究大学が招くガバナンス問題 / 光本滋

英語名すら確定していない国際卓越研究大学制度は、大学の創設ではなくあくまで補助金制度であり、ガバナンスと称して政府統制を強めるもくろみである。「事実上別カテゴリーの「大学」を創出し、政府支配体制を確立し、大学の活動に対する経済的な視点からの価値付けをオーソライズした」制度のとがは、いまはごく一部の採択大学のみを対象とするが、いずれ評価制度等を通して全ての大学に行き渡るのではと警鐘を鳴らす。

大学ファンドの代償――わたしたちは何を犠牲にしようとしているのか? / 駒込武

京都大学における二つの全学施設、保健診療所と高等教育研究開発推進センターの廃止が、国際卓越研究大学への採択を求める優先順位の変動によってなされた人権軽視、現場の知の蓄積軽視の施策であると批判的に分析。
利益相反的な関係の中で経済的支援の対象とすべき研究者を選び、専門性に基づいた公正な評価ではなく情実や縁故の介在するネポティズムを引き起こす構造は「イノベーション」を阻害こそすれ推進は決してしないと鋭い。
背景に経営者たちが「いかに政府から流れてくるお金を手に入れるか」に最適化してしまった、政府事業の中抜きその他便宜供与に活路を見出すようになってしまったことがあるともいう。

グローバル化時代の大学のガバナンス――フィンランドの事例から考える大学の自律性 / 渡邊あや

スウェーデン支配時代、ロシア支配時代を経て、独立後にヘルシンキ大学が成立。その後地方・民間に量的拡大をしたが、00年代には統合再編が進む。進学率はまだ低め。
大学法の改正によって、ガバナンスへの学外委員参与率は向上したが、日本よりは低め。「学生消費主義」として学費徴収が批判されるが、経済支援とセットで段階的に導入。予算配分は学生数ではなく学位数で、アウトプットを評価。
フィンランドの方が、より緩やかなところに着地点を見出し、大学機関全体としての裁量を確保している。大学の自治、研究教育の自由が大切にされている。

大学失格――「評価疲れ」と大学 / 渋井進

無機質な内容かと思ったら、大真面目に評価というものを分析しており面白かった。
事務作成の負担、結果の活用の不十分、評価不安、研究時間の減少などの要因整理あとに、評価が本質的に持つ自己目的化してしまう性質や、キャンベルの法則(社会指標が行動を歪める)を指摘。
自己評価が責任までも評価される側に押し付けてしまい、評価する側が免責される構造、外発的動機付けと内発的動機付けをうまく使い分けることなど、評価制度を使いこなすためのヒントに富む。

【大学の羅針盤】

三〇〇年後を見据える大学 / 植木朝子

同志社大学は150周年を迎えたが、設立時に新島襄が人を育てるに必要と考えた時間軸は300年だったのでまだちょうど半分を迎えたところに過ぎないとか。短期的な成果を重視し自然科学を偏重する政策路線に対し、人文科学や基礎研究の価値を震災時に「歌」を求めた人々の例などを引きながら訴える短めのエッセイ。

【学生の今】

学生の自殺対策における大学人の役割 / 髙橋あすみ

自殺からの保護因子であったやりがいのある学びや活動、学生間交流、教職員の見守り、自由な居場所としての大学内施設の利用などは、新型コロナによって一斉に減退もしくは消失し、若年層の自殺率は全年齢で減少しているにもかかわらず増加した。
対策として保健管理施設や学生相談機関の負担が加重となっているが、各教員の取組や授業プログラムの設定など、大学を「個」の集合として有機的に理解し、対策を講じていくべきとの提言。わりかし行政文書っぽい語りだったが、筆者自身が実践者ということもあり、インターネットゲートキーパーなど具体的な取り組みなどにも言及があった。

ニューロダイバーシティ時代の大学教育――カナダにおける事例と課題 / 世古有佳里 

ニューロダイバーシティ(神経多様性)とは、自閉症アクティビズムに端を発し、様々な「脳の個性」を包括し、「定型発達」を基準にして作られたシステムに内在するバリアを可視化する用語とのこと。identity-first language(アイデンティティを優先する言語)としてのautistic persons(自閉的な人々)とperso-first language(人を優先する言語)としてのpersons with autistic(自閉症を持つ人々)を比較し、前者を優先するアクティビストと、後者を優先する医療従事者の緊張関係が見える。属性への理解を求める当事者と、本質主義の陥穽に注意する非当事者の違いと言うべきか。
第二節では大学教育現場における「リーズナブル・アコモデーション」(合理的な配慮)の事例として、様々なアコモデーションサービスの状況が描写されるが、自らアドボケイトできなければならないこと、開示しなければならないこと、偏見や差別的待遇に却って晒されることなどの限界もまた分析される。教員や大学にとっての「合理的」の線引きも問題視される。
最終節で学びのユニバーサルデザイン(UDL)のフレームとして、表現方法(representation)、行動と表現手段(action&expression)、取り組み方(engagement)が示され、コロナ禍のオンライン授業によって字幕動画や動画プレゼンテーションなどが怪我の功名で進んだとされる。後半はニューロに留まらずインペアメント-ディスアビリティ関係全般に話題が拡がっていった。

確立風社会 / 高部大問

軽いエッセイかと思ったら気合いの入ったアジビラだった。コロナ禍によって大人たちの「確立」していたと思っていた社会が実は「確立風」に過ぎなかったと分かったことで、若者たちが「大学に行く意味とは何か」を再考しているという問い立てから、大学とは「教育の国家による独占」に対抗するための対立軸としてあるべきだという結論を導き、社会を「変えられる」ものと捉えて押し付けられた教育の外にあるやりたいことを模索すべきと鼓舞している。

正規就職せずに夢を追うというキャリアの実相――キャリア教育を問い直す / 野村駿 

バンドマン2人のインタビューを中心に、大学外の人間関係に埋め込まれること、ロールモデルの発見、ベルトコンベアー式就職活動への違和感など、正規就職以外のルートを模索する人々と、そうして人々にこそキャリア教育が必要ではないか、と問うている。

ポストコロナにおける学生をめぐる労働と貧困の諸論点 / 今野晴貴

学生の貧困について、コロナ前からの奨学金借金漬けとブラックバイト問題の構造を確認し、コロナによってブラックバイトが「辞めたいのに辞められない」から「シフト削減により実質的に辞めさせられる」へと転換していると、多様な実例を引きながら分析している。最後に「人的資本イデオロギー」が自己投資による自己責任の論理と結びつき、やりがい搾取と共に学生たちを追い詰めていると指摘。みなの漠然とした不安が端的に描写されており読み甲斐がある。

【明日を照らす灯台】

大学の未来のために今できること――非常勤講師の労働問題から / 小野森都子

こちらは学生ではなく非常勤講師の貧困構造について、短いながらも論点を整理してまとまった論考となっている。
授業回数に応じた支払い、掛け持ちのため社会保険・厚生年金に加入できず、雇い止めの危機に絶えず晒され、福利厚生は享受できず、無給のシャドーワークに追われ、オンライン授業のフォーマットを自学自習し、「悔しかったらいい論文を書いてみろ」と自己責任に転嫁される。
「稼げる大学」への方針転換はこうした人への投資削減をますます加速させ、研究の質が低下することとなる危機感を抱く。「日本では教育をより高い社会的地位とそれに見合う報酬を得るための手段とする価値観が優勢で、教育の成果を社会全体に還元すべきだという意見はむしろ少数派」であるから、自己責任論が横行するのだという指摘に納得する。

【入学の前に/後に何を学ぶか】

大学入試の多様化、その終着点はどこに? / 倉元直樹

前半では、推薦型選抜が私立大学において一般選抜の比率を上回り、さらに総合型選抜を含めると全大学合計でも一般選抜の比率は半分を下回っている衝撃のデータが示される。(もはや「一般」選抜とは呼べなくなっている。)
AO入試導入時点での「過度の受験競争の解消」という政策課題は、既に当時から、どの大学も定員を埋めることに汲々とする中で、募集要件の緩和とみなされて「多様化」へと舵が切られた。しかしその結果は、一夜漬けが合理的行動となり、日常生活全てが評価に晒され、テクニカルな対策が強くなることで本当に優秀な高校生に敬遠されるようになり、大人のサポートこそが重要になり、本人の学力を測っているのか判然としなくなり、高校教員の負担を増し、受験産業の展開を呼び込むに至った。いまでは適切な「学力把握措置」を盛り込むように求められる始末であると。
後半では東北大学の入試設計が推薦と一般を分断しないことで第一志望の学生を呼び込んでいる事例、コロナに見舞われた各国での受験政策の変化にそれぞれ特徴が観られたことなどが紹介される。

大学入試国語のゆくえ / 重田園江

早稲田大学教育学部の入試における奇問悪問に対し、題材とされた著者として疑義を呈し質問状を送った(が塩対応しか得られなかった)著者によるその後の過去問公開にかかるゴタゴタの紹介と、高校国語から小説が消えつつある現状に対して、評論文と小説のそれぞれを学ぶことで涵養される能力について論じたエッセイでした。

大学生の英語――テストが商品として売り込まれることの弊害 / 阿部公彦

英語力を伸ばすために必要なものは?と問われて「英語のテストを受ける予定です」と返すナンセンスさから論を起こす。そのようなテスト万能主義は、テスト教材を売りつける商業主義によるものだが、英語の消費財としての商品化はすでに英会話教室の時代からあった。それがテスト対策に取って代わられたのは、「世界で突出して低いスコア」という嘆きに牽引された都分析する。しかし、受検者層が違えば単純な国同士の比較は無意味である。
そして、下村博文の入試改革の迷走が「入試さえ変われば英語ができるようになる」「テストと私たちが現実に行う言語行為が似せることができる」という信仰によって成り立っており、作問者、採点者、実施者の都合を無視しているために、リスニングが疑似リーディングとなるなど齟齬を来たし、また「実際のコミュニケーション」を過度に強調することで「事務処理トラブル」や具体的すぎるシーンの演出に作問のリソースが割かれ、消費財としての魅力を競うようになっていると鋭く指摘している。ただし、どの社員を海外赴任・留学させるか選考するためにTOEICスコアを求めてくる企業の姿勢などを問わないと、テスト産業だけに責任を帰するのは片手落ちのようにも感じた。
最後に、むしろ言語とは何か、日本語と英語はどう違うのか、英語はどのようにできているのかといった、古びることのない芯の部分の知識の方が実用に直面した時に助けとなるのではないか、とまとめる。

新しい「サイエンス(魔法)」の時代へ、ようこそ――大学におけるMDASH の意味と「科学の三条件」 / 柴田邦臣

データサイエンスが「手続きの正当性」「成果への依存性」「人への訣別」という3点で「合理性」「根拠の妥当性」「反証可能性」という従来の科学と一線を画し対抗する”魔法”の時代の到来をもたらしているとする文明分析で面白かった。要約するよりも全文を折に触れて読み返したい。

【学び舎のかたち】

大学の施設を作るのは誰なのか? / 田中東子

メディア文化論からガチガチの分析をくれると思ったら、大学の女子トイレが少ないことと、立派な男の学長彫像と対比した裸婦像のエピソードを交えながら、多様な視点で施設整備すべきであると主張する、わりとあっさりしたコラムだった。

大学図書館の書架機能を展望する――コロナ禍における教育・研究の実例から / 小野永貴+髙野和彰

デジタル化がコロナ禍によって加速したが、紙である必要がある文書として、書物のデザインのための教材という側面と、文芸同人誌(なぜ”文芸”に限定するのか分からないが・・・)などの紙でしか刊行が一般的にされない研究素材の存在、分厚すぎるので貸与するテキストなどの事例がいくつか挙げられている。

大学キャンパスが果たす役割を再考する / 小篠隆生

大学は都市に設置されなければならないという主張は郊外型のキャンパスを展開する大学を殴りそうだが・・・イタリアの複数大学のオープンスペース整備事例や、北海道大学が90年代~00年代にかけて札幌市の水源再開発と軌を一にしながらキャンパス内の小川を再生した事例が挙げられている。

大学のキャンパスと鉄道 / 鈴木勇一郎

明治期の武家屋敷跡地を活用したキャンパス整備が、徐々に山手線沿線に拡大し、1918年の大学令以降は、大学昇格の資金調達のために都心部の敷地を売却し、鉄道会社から寄付を受けて郊外の敷地を取得するスキームで移転が進んだという流れが整理して振り返られる。とりたてて主張がある訳ではないが知識補給としては楽しいテキストだった。
鉄道会社にとっても、沿線イメージアップになり、遊園地のように営業努力をしなくても固定客が見込める沿線施設としての大学はうまみのある存在であり、資本家たちの主導で次々に誘致が進んだという。改めて大学名を列挙されてみるとなるほどと思えた。また、青山学院大学のようにこの時期の郊外移転に乗り遅れた大学は、80年代頃に更にもっと郊外への移転を余儀なくされ、学生募集にも影響を与えたとされる。

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