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【感想】恋せぬふたり #後半

前半はこちらから↓

第6話

前話で咲子は、「異性愛者にとって愛の交換は至上の価値であり、自分はその主体にはどうしてもなれない」「分からないけど、分かるんだよ」と、異性愛者の愛に回答できない自己の限界を意識し、カズくんさんとの”解散”を選んだ。

さて、それでは残りの話で何を描くのかと考えたとき、一つには繁殖の問題があった。家”族”を考えるにあたって避けては通れないテーマなのだが、その描写には苦慮しているように見受けられた。

予告で不倫を示唆されていた妹みのりの夫、ダイスケだが、それはあくまでミスリードで、勘違い判明からの和解、みたいなヌルい展開を予測していたところ、しっかり不倫していた。

この展開は妹の人生ゲーム「結婚して、子どもを産んで、家を買って、そしたら二人目を産んで」というプロトタイプが対比的に表明され、咲子や高橋の目指す関係性とかけ離れているを示唆するのが表向きの役割だが、異性愛によって築かれた紐帯は、別の新しい異性愛によって上書きされ、切断に至るというモデルになっている。

・・・ロマンティック・ラブ・イデオロギーは近代社会に確立したものであり、恋愛と結婚と性を一体化させようとする。男女は恋愛という特別な関係性によって結合し、それは結婚へ昇華し、その中で子どもを産み育てることが「正しい人間のあり方」だとする。しかしそこには不平等なジェンダー役割が付随し、家庭生活は女性の無償労働によって担われることをフェミニズムは告発した。これを受けてギデンズは、女性の自立と解放を求める圧力のもとでロマンティック・ラブ・イデオロギーは消失する傾向にあるとした。代って生まれた「コンフルエント・ラブ(合流する愛)」は、対等な関係のもとで丁寧なコミュニケーションにより相手を理解することに重きをおく。地位や経済力などの外的条件よりもお互いに相手にどれだけ心を開けるかによって愛情を判断する。・・・
「逃げ恥」に観るポストフェミニズム 結婚/コンフルエント・ラブ/パートナーシップという幻想 菊池夏野(P120-121)現代思想2021 vol.49-10 <恋愛>の現在 -変わりゆく親密さのかたち
ドラマではふたりのハグの後、過去番組を模して二人の未来を占うルーレットの演出がある。二人の未来がどうなるかは不明で、ルーレットという偶然性に委ねられて視聴者は放り出される。
この偶然性こそがコンフルエント・ラブを特徴づけるものである。ロマンティック・ラブは二人の愛情が合致した後は結婚と子育てを行って生涯を共にすることを「運命」とする。・・・コンフルエント・ラブはそのような制度から自立して、あくまで相手の個性を理解し、対話によって共感を得て「純粋な関係性」を享受することを良しとするため、関係性は常に不安定である。ルーレットはそれを象徴している。
同(P126)

上記「逃げ恥」論考は現代思想の恋愛特集の中でも特に気に入って読み返しているのだが、ここではロマンティック・ラブ=静的で安定、コンフルエント・ラブ=動的で不安定、という構図で描写されている。

しかし実は、人生ゲームでも、コマの進行はルーレットによって決定されているのですよね。泥棒猫女との出会いという偶然に基づき、ダイスケの不倫というマスに停まったとき、ロマンティック・ラブの双六を安定して歩んでいたはずの妹夫婦はたちまち不可逆的に瓦解する。

不倫に対する社会的スティグマの大きさは、(個人的には現代の、不倫に対する社会的(=恋愛市場内価値観的)スティグマはいささか過大なのではないかと感じているが、それは本論とそれほど関係ないので措く)「典型的家族」を形成しているみのり個人にとっても、同じ大きさで理解・把握され、夫婦間の対話による関係調整は途は予め閉ざされている。

一方で、コンフルエント・ラブを実践し、対話を根幹とした「純粋な関係性」を企図する咲子と高橋は、人生における転機を迎えたときにむしろ安定的に「関係性の維持・調整」を図っていく。(その具体的態様は最終話へ。)「不安定さ」とは「柔軟さ」であり、「選択肢の広さ」でもある。

現代の若者は選択肢極大化欲求を持っていると思っているのだが、当該欲求を実現する方途として、異性愛者にとってもまた、恋愛を捨象した「家族」の形成にかかる奮闘物語は、関心を惹きつける対象となるのだと思う。

さて、病院の慌ただしい雰囲気の中で蟹両親と再会する。オカンはまだわだかまっていることと、オトンが適宜適切な言葉を置きに行く世間ずれぶりを見せてくれる。明記されていないが、オトンの職業は学者っぽい。

脚本が女性というのは関係ないと思うが、全般的にオトンやカズくんなど男は咲子の生き方に理解があって、オカンや妹など女は理解がないように造形され、女性同士の価値観のコンフリクトを中心にしているのがバイアスを感じる。

ただ、男とコンフリクトしてしまうと、「家父長制」や「企業内パワハラ」による抑圧へとテーマが変わるのは分かる。今は「ロマンティック・ラブ・イデオロギー」という規範への抵抗がテーマなので、NHKドラマに登場する男たちは、そうしたテーマのズレを避けるために、おしなべて去勢されている。(逆にオトンとダイスケは男-男関係なので、マスキュリンな暴行未遂を描写しても許容される。)

とはいえ、カズくんさんがサラッと登場して、物語から「退場していない」のは心憎い演出だと思う。恋愛関係を終えても人間関係は残るのだと、セリフではなく展開そのものが示しているし、むしろ彼は咲子のこの上なく良き相談相手ともなっている。前半の感想で私はカズくんの「納得」のための介入はマイノリティが「味方」を増やしていくプロセスなのではないかと書いたが、まさに彼は咲子の「味方」へと成長したのである。

ゴタゴタの中で、みのりは無事に出産する。(自分が子を成して初めて、新生児はこんなにデカくないことを体験として知ったのだが、新生児をドラマに使うことはまず無理だということも同時に理解したのでそれは良い。)赤ちゃんを「抱いてみてください」と言われて遠慮する高橋を「子ども嫌い」とまで断ずるのはまだ早い。(実際自分も、他人の新生児を抱くのは遠慮するだろうと思った。)

しかし、みのりとダイスケの大激突を「子どもの前ですよ」と窘める役割を果たすのが、咲子ではなく他者である高橋だったことから、高橋の幼少期における両親の不仲と、それに為す術がなかった自分、という過去が、具体的に何も語られていないにもかかわらず示唆されており、このシーンと合わせて観ることで、高橋が再生産に消極的だという造形に説得力が与えられる。

ここで気になったのは、産室における咲子とみのりのツーショットで、咲子がみのりに対して「なにを選んでも応援する」と声をかけることだった。もちろん、まさに出産という難事に直面している者への励ましであることは割り引くべきなのだが、「コンフルエント・ラブ」という対話による関係を模索する主体としては、ちょっとイージーすぎないか。

血の繋がりのある、(仮)のつかない家族であれば、対話を捨象して彼または彼女の選択を肯定することが無前提に容認される。脇が甘いと思うが、咲子もまた、長い時間をかけて信頼関係で結ばれてきた実家に対して、簡単には割り切れない呪いを抱えていると読むこともできる。

あとアロマアセクイベントはNHK再現ドラマっぽさが溢れていたが、あの演出だとオチの咲子はもっとファンキーな見た目でないといけないのでは(笑

第7話

最終話に向けた雌伏の章で、高橋とは『カルテット』以来の共演となる(『カルテット』でのカウンターパートは松田龍平だったが)菊池亜希子が中心となる過去回だった。その反射として全般的に咲子がカラ回っており、カズくんや千鶴に対し萌芽し、垣間見せた共感力「分からないけど分かるんだよ」は再び減衰しているように見える。

しかしそれは、アロマ/アセクのすべからく特徴であると解釈するのではなく、咲子の性格であると捉えるべきであろう。咲子と高橋というふたりのアロマ/アセクを導入することで、人間の性格は性自認によって固定的ではないと改めて主張している。そうした前提で、次に高橋の性格について掘り下げてゆく。

同僚が「所帯を持った」ことで変化を余儀なくされモヤる高橋。高橋は前話でも子どもを持つか持たないか「決めないという選択」を提案していたように、「決めるよう迫られる」「タイミングを選ばせてもらえない」ことに強いストレスがある。せっかくなので現代思想の恋愛特集から引用してみる。1話から繰り返されている通りである。

性愛規範のもとで、アセクシャルやアロマンティックの人々はしばしば自分自身のセクシャリティに対する「認識の権限」(epistemic authority)を否定される。たとえば周囲から「まだ良い人と出会えていないだけ」とか「性欲を抑圧しているだけ」といった言葉を投げかけられることによって、自分自身について自らが抱いている認識を否定されるということである。
アセクシャル/アロマンティックな多重見当識=複数的指向 仲谷鳰『やがて君になる』における「する」と「見る」の破れ目から 松浦優(P74)現代思想2021 vol.49-10 <恋愛>の現在 -変わりゆく親密さのかたち

高橋が祖母へ抱く愛着は、父母からの愛情の欠乏の裏返しでもある。彼は好きなお店に愛を注ぐことには慣れていても、他者から愛を注がれることに慣れていなかった。祖母(キャスト:null)が高橋に愛ではなくプラグマティックな庇護をひたすら与え続けた存在だったのか、祖母の愛を高橋が「庇護」や「恩義」という射程でしか把握できなかったのかは明らかでないが、少なくとも彼が祖母の「家」に拘るのは、祖母に曾孫を与えるという希望を叶えてあげられなかった罪悪感である。

「自分にできるのはこのくらい」という発言にもそれは現れているが、実は祖母の喜びそれ自体が彼の目的だったというよりは、祖母の喜びを自分の喜びに転化させ、人生の指針にしていたとも思える。だからこそ祖母の死は彼にとって、人生の指針そのものの喪失でもあったと。

そうであれば祖母の家は高橋にとって、指針であると共に呪いともなっており、家から出ることが親離れの儀式(解呪)でもある。咲子との間に新しい「家族」を形成することは、生まれ育った家族からの卒業でもある。この点は異性愛カップルと同じ構造である。冒頭から一貫して高橋は、異性愛は理解できないとしながら、他者からの”愛”を拒絶しているわけではなくむしろ求めていることが示されてきており、それは幼少期の家族の喪失・不全に起因しているように見える。

そうであるならば、これも異性愛カップルとのアナロジーとして、家族は「居心地」や「社会的地位」を与えてくれる存在であるとともに、自分から何かを分け与えようと意を注ぐことができる、人生の目的そのものでもある。高橋と咲子の結末は、高橋が野菜王国の夢を叶えることを通して、家族(仮)としての咲子に何かを与えようと積極的に捉える選択であるはずだと予想していた。

恋はあくまで自分が幸せになるためのもの、愛は相手に与えようとするもの、そういうことなのかも。

第8話(最終回)

予告を見た段階では「夢と家族どっちをとる」という異性愛に通有する古典的テーマに帰着するのかと心配しつつも、いや、そうではなく「家族のひとりに変化が訪れた時に、残りの構成員がどう振る舞うのか」という問いを追求する展開を描写してくれると期待もしていたのだが、いや、やってくれたなNHK、高橋との現在の関係性においては必ずしも要らないセリフを重ねてまで畳み掛けるポリコレ的伏線回収はいっそ清々しかった。すなわち、これまで論じてきた「居心地」「居場所」というテーマに最も適した解答が「実家」としての祖母の家だ、という結論にしたということである。

まず、家族から恋愛だけでなく同居要件まで捨象した。咲子が高橋に「ついていく」結論にしなかったのがこの上なくポリコレで、どれだけ「恋愛のコード」ではないと説明したところで、男の移動先に女がついていくという行動態様はこの上なく夫唱婦随の性別役割分業的ジェンダー不平等である。

ここに来て「理論武装でガチガチに鎧っているけれど「自分でもどうしたらいいか分からない」」フェーズにある高橋が与えた薫陶が、咲子の先入観のない発想へと流れ込み、高橋を戸惑わせながらも救済していく。俺はいつか自分が救済した者に救済されていた。こういう相互関係がたまらなく好きだ。このドラマがダブル主演であり、アロマ/アセクの当事者をふたり配役した真骨頂がここにある。

そして、「転機が訪れるたび、常に関係性をメンテナンスする」という「コンフルエント・ラブ」のキーワードも発せられる。

・・・「コンフルエント・ラブ(合流する愛)」は、対等な関係のもとで丁寧なコミュニケーションにより相手を理解することに重きをおく。地位や経済力などの外的条件よりもお互いに相手にどれだけ心を開けるかによって愛情を判断する。・・・・・・コンフルエント・ラブはそのような制度から自立して、あくまで相手の個性を理解し、対話によって共感を得て「純粋な関係性」を享受することを良しとするため、関係性は常に不安定である。ルーレットはそれを象徴している。・・・
(再掲)

さらに、家族の要件をこのように緩和することで、生まれた家族から離れたいけれど離れられない人に対しては、呪いが強化され、解除が困難になる隘路をもたらすことにもなる。これに対し咲子は、「合わなければ別れたっていい」と表明することで配慮している。熱の籠もった良いシーンでした。

もうまとめにかかっているのですが、「味方を増やす」テーマを貫徹し、ついに課長まで籠絡したのは良かったです。カズくんさんという最高のキャラが生まれたのもドラマの成果だった。

一方で、野菜王国のラストシーンは、アロマ/アセクに対する社会の偏見に対峙するというより、優雅なる無視を決め込む孤高の態度であるようにも感じられた。それでいてご近所さんとも良好な付き合いができるのはややご都合主義にも見える。彼の移住した片田舎の方が、一般的に嫁取り圧力が強いはずである。

本来社会的再生産労働を問うことは、社会全体の構造を問うことである。だが本作ではそれはありえない。そもそもみくりたちのとった「契約結婚」はなぜ家族や周囲に隠されたのだろうか。あるいはなぜ、みくりは住み込みの家事労働者ではいけなかったのだろうか。それはこの物語が、最初から最後まで個人的な閉ざされた実践として行われなければならないからである。
ふたりの挑戦は、あくまで二人に閉じた関係のなかで行われなければならない。恋愛や結婚、家庭という「個人的」「私的」な領域で。社会的再生産労働の問題を社会全体に向けて問い直すことはあらかじめ禁止されている。それは社会全体の構造に関わること、社会全体の変革を必要とするからである。
その代わりに規範化されたのがコンフルエント・ラブでありポスト/ネオリベラル・フェミニズムである。・・・
「逃げ恥」に観るポストフェミニズム 結婚/コンフルエント・ラブ/パートナーシップという幻想 菊池夏野(P128)現代思想2021 vol.49-10 <恋愛>の現在 -変わりゆく親密さのかたち

それはそうだし、ドラマであれば、フィクションとしての社会変革を描き出すことも可能だが、本作「恋せぬふたり」もまた、リアリティというか、等身大の選択をエンパワーメントすることに注力している。

最後の高橋のモノローグ、「諦めていた」「なぜ分かってもらえる努力をしなければいけないのかと思っていた」について。他の人がしていない努力を自分がしなければならないことへのコスト意識は、例えば整形・脱毛・歯列矯正にお金をかける人や、帰国子女に対抗して語学学習をする人なんかにも適用できるアナロジーだが、そのようにコストをかけてまで社会の側に歩み寄るのは、実は他人のためではなく自分のためだったりする。

やっぱり"分かってほしい"、"認めてほしい"という欲求は尽きせぬし、幸せとは”分かり合える”、”認め合える”人との信頼と関係性によって補給されるものだと、青空とキャベツのコントラストが語りかけてきました。

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