見出し画像

【感想】恋せぬふたり #前半

岸井ゆきの×高橋一生 W主演
―――恋愛しないと幸せじゃないの?
人を好きになったことが無い、なぜキスをするのか分からない、恋愛もセックスも分からずとまどってきた女性に訪れた、恋愛もセックスもしたくない男性との出会い。 恋人でも…夫婦でも…家族でもない? アロマンティック・アセクシュアルの2人が始めた同居生活は、両親、上司、元カレ、ご近所さんたちに波紋を広げていく…。 恋もセックスもしない2人の関係の行方は!?
※アロマンティックとは、恋愛的指向の一つで他者に恋愛感情を抱かないこと。アセクシュアルとは、性的指向の一つで他者に性的に惹かれないこと。どちらの面でも他者に惹かれない人を、アロマンティック・アセクシュアルと呼ぶ。
【放送予定】 2022年1月10日(月)スタート <全8回> 総合 よる10時45分 【作】吉田恵里香 【音楽】阿部海太郎 【主題歌】CHAI「まるごと」 【アロマンティック・アセクシュアル考証】中村健 三宅大二郎 今徳はる香 【制作統括】尾崎裕和 【プロデューサー】大橋守 上田明子 【演出】野口雄大 押田友太 土井祥平

友人に勧められて、先週末の一挙放送(1~4話)を録画し、おととい月曜日の5話まで観た。(人から薦められないとテレビを観ないおじさん。)

咲子を演じる岸井ゆきのは『愛がなんだ』でも雰囲気に流される女子を好演していたので、本作も似た役どころで、コンフリクトを恐れる現代女子の典型として造形されやすい役者なのだろうなと。

しかし、本作で咲子は高橋一生の演じる高橋に導かれ、アロマ/アセクを自認するようになり、「これまで「自分には欠けたところがある」と思ってきたし、それを周囲に相談し「あなたもいつか恋愛をすれば分かる」と言われ続けてきたけれど、恋愛のことが分からない私は、そうやってナメられていたのだ」とモヤモヤの正体を知り、怒りへと変換するようになる。そしてついに、家族とのカニパーティに際して、怒りが爆発する。母や妹夫婦が繰り返し投げかける”普通”という言葉がそのスイッチとなる。

私も、"普通"という言葉が嫌いすぎて、”普通”と聞くたびに「”普通”って何?」「”常識”とはその者が人生において集めた偏見のカタログである」と反応してしまうので、妻も「"普通"はあんたの嫌いな言葉」「私も職場で”普通”って使わないようになった」と認識してくれており大変ありがたいのだが(笑)このシーンも観ながら思わず「”普通”ってなんやねん」と呟いてしまったので、まさにそこで咲子がキレてくれて快哉でした。(1~2話)

次に、回が進むたびに評価爆上がりストップ高の陽キャ、カズくんを中心に話が展開する。カニ家族もかなりデフォルメされていたが、カズくんも相当デフォルメされている。彼のように「知りたい」「納得したい」と対話を呼びかけてくるマジョリティを造形することで、対話を重ねて「味方」を増やしていくのがマイノリティの生きづらさ解消に向けた今後のアプローチの方向性だと示したいのかもしれない。

彼は咲子と高橋が共同生活の中で発する「朝は手打ちうどん、それがふたりのルール」や、「緊急連絡先に相手の連絡先を指定する」といった「親密性のコード」を、ことごとく「恋愛のコード」であると解釈する。

私たちは人と人との間にある関係の性質をさまざまに区別している。たとえば、親しい間柄とそうでない間柄を、明確に線引きはできないにせよ違う関係と見なし、親密な関係性もいくつかの種類に分類している。ルーマンは『情熱としての愛』の中で、親密性の種類を規定する概念として、「恋愛」とともに「友愛」をあげている。私たちは親密な関係にある相手を「恋人」と呼ぶこともあれば「友人」と呼ぶこともあるのは、それぞれと結んでいる関係性を異なるものとして認識しているからである。そして、ある親しい間柄が恋愛と見なされるのか友情と見なされるのかを定めるのが親密性のコードである。親密性のコードには恋愛のコードと友愛のコードがあり、親密な関係性が恋愛のコードが規定する特徴にあてはまれば恋愛とされ、友愛のコードが規定する特徴にあてはまれば友情と認識される。

『宝塚・やおい、愛の読み替え 女性とポピュラーカルチャーの社会学』東園子(2015)P9-10

アロマ/アセクは「恋愛感情が分からない」だけなので、「他人と親密になりたくない」訳ではない。しかし彼らの発する親密性のコードは、友愛を企図しているにもかかわらず恋愛と解釈されて、周囲とコンフリクトする、ということが物語の冒頭から何度も示される。高橋はそのコンフリクトが面倒で、対人関係を最小限に絞っているが、「人間嫌い」という訳ではない。だから彼らは、決して「家族」を忌避しているのではないし、むしろ理解し合える関係を希求してもいる。

では、彼らが結ぶべき「恋愛を捨象した家族」とは何なのかということを、視聴者たちはカズくんの視点を通して、考えるよう促される。ここで参考になるのは、高橋の「身体接触恐怖」設定である。話の行きがかり上、カズくんの介護描写によって吹っ飛んでいるが、これはアロマ/アセクの論理的帰結でも何でもなく単なる彼の性格である。物語の進行に不都合を来してまで当該設定を盛り込んだ理由は、(私の読み方だが)おそらく「介入への恐れ」の変形(比喩)である。高橋は5話でも、「あまり介入しすぎない方が良いと思って・・・」と咲子への介入を抑制するのだが、しかし家族とは突き詰めれば「介入の承認」であると感じる。

今日では他者の自己決定権へのパターナリスティックな介入は概ね「ハラスメント」というフレームで排除することに成功しつつあるのだが、「家族」の領域だけは限定的に、介入が許容されるフィールドとして残されている。(そして、それゆえに上位下達のピラミッドを維持したい権力者にとって「親学」や「徳育」といったお題目を用いて、家族を介入に都合のいい中間団体として温存しようとする動きにも繋がる。)

例えば性行為は、身体的自己決定権に対する「介入」と「承認」というプロセスを踏んでいる。「家族」は大きな契約として相互の「介入」の意図表明を前提として認めながら、個々の局面で表示された「介入」を「承認」するというダイナミズムによって成立している。そうであるならば、相手方から「介入」が指向されないのであれば「承認」を行う必要もない。そして4話ラストではカズくんから「今後、性的な介入を企図しない」ことが表明されることで、ここでようやく高橋とカズくんは同じスタート台に立ち、三角関係(恋愛的な意味ではなく、いずれのプレイヤーが新しい「家族」の在り方を説得力ある形で示すことができるかの闘争)の号砲が鳴る。(3~4話)

では咲子が求めているのは「恋愛概念を強要せず」「性的介入を企図しない」ことのみが表明された外形的家族なのかどうか。高橋は再三にわたって家族を装うことの「メリット」を説く。価値効用によって家族を捉えること自体の問題点はさておき、カズくんが「嬉しいことは2人分、悲しいことは半分」のパートナーを志向するのに対し、高橋が呟くのは社会との軋轢の抑止であり、ベクトルが真逆になっている。

4話までの時点では、しかし、私なら、どちらかと一緒に暮らすなら高橋を選ぶだろうと思っていた。カズくんが提供する価値は、趣味の友達であって、家族じゃないのではないかと。趣味嗜好が合うというのは合うように"見えている"だけであって、全く同じ人間でない以上はむしろ違いがあったときにそれが際立ってしまう。むしろ"合わせていく"プロセス、ダイナミズムこそが家族なのだと。

しかし5話では、連絡の取れなくなった親友・千鶴に強いて会いに行くかどうか悩む咲子に、放っておいてやがて気持ちに整理をつけることを薦める高橋と、「会って傷ついたとしても、俺が慰める」と鼓舞するカズくんの態度が対照されている。お前は週刊少年ジャンプかよと。でも、高橋のアドバイスは、友人や同僚でもできる内容であるのに対し、カズくんのアドバイスはまさに「家族」でないとできないものであると、すごく説得力を感じてしまった。

実は高橋が怪我の介助を通じてカズくんとの接触恐怖を解消しているのはヒントで、相互ケアを通じて身体・生活領域への「介入」を徐々に浸潤させていくダイナミズムこそが「家族」なのかも知れない、とも思っていたのだが、咲子の精神的危機に対して、常にまっすぐな解答を提供しようと試みるカズくんは眩しかった。

現代のコミュニケーションは"合う"人とだけ行われているし、職場では職場の人格、趣味サークルでは趣味人の人格を分割的に相手に対面させることで個々の場面におけるコミュニケーションは成り立っている。しかし、家族はこの方向性と全く逆で、「全人格をもって」「合わないところを調整する」ことで成り立つという不慣れな実践を余儀なくされる関係でもある。

実は、"合わせていく"というのは咲子が性的指向の自認以前に行っていた実践そのものなのですよね。上辺の笑顔で納得できない気持ちに蓋をする。それと「家族」の実践の何が違うのかというと、カズくんのキーワードである「納得」がある。納得し腑に落ちるまで対話を重ねることができる相手が「家族」であると。(そしてその「納得」は片方だけのものではなく、お互いのものであることが前提である。)

カズくんの出した「家族」の答えは「帰る場所」だった。「チル」な「居心地の良い場所」を追求するのが今後の世代の思考様式の中核になると思っているのだが、「居心地」とは何かを考えると、よく「私が私らしく居られる場所」とか言うのだけれど、「私らしさ」も人間関係の中で相対的可変なものなので、要するに「承認される場所」の言い換えになっている。

現状では、社会に「承認」されるためには「家族」というグループを形成しその一員となっていることが不可欠で、そういう社会の”普通”こそを問い直そうというテーマから言えば、高橋が「家族」を擬制して社会からの承認を獲得しようと(価値効用を引き出そうと)試みるのは、まさに彼自身も「ぼくもどうしたらいいか分かりません」という悩みの過渡期に居るということなのだが、最終的なゴールにはならず、やっぱり擬制した「家族」の傘から出て、生身の個人として社会の偏見に対峙していく、というのが咲子の追求するクライマックスである気がする。

それでこそNHK。(自分の願望をNHKに転嫁するな。)

さて、「家族」問題と併走して、千鶴の同性愛が提示される。咲子おまえモテモテやんけ展開で、ある種最近のドラマの雛形に即してすらいるのだが、恋愛を捨象した家族について議論するにあたっては、当該つがいは男女である必要すらないことを気づかせる展開にもなっている。

また、千鶴の同性愛者としての社会とのコンフリクトは特に描かれていないのだが、アロマ/アセクの咲子には"恋愛がわからない"ゆえに共感ができない(二重に"分からない")というのも興味深い。異性愛者にとっては性的マイノリティ同士を勝手に隣接領域と思い込み、少なくとも少数者としての迫害の体験などを通して相互に共感できると錯覚していたのをガツンとやられた感じ。

それにしても高橋も咲子も、共感力がない訳ではなく、関係性を閉ざしているわけでもない、つまり親密さへの希求はあるのだが、ここでも親密性の表現が恋愛のコードに独占されており、それを駆使できない主体が立ち竦まざるを得ないという実情がよく分かる。

この時に混乱を招くのが"好き"というワードの多義性である。千鶴が「好きって言わないで」と訴えるように、多くの人が恋愛のコードとしてこの言葉を受け止める。しかし、咲子はあくまでも友愛の(あるいは「家族」の)コードとして"好き"を使う。"好き"を使わずにこの咲子の感情を過不足なく表現する語彙は何があるのだろう。

カズくんの「帰る場所になる」は「居心地」論なのだが、千鶴は「笑顔になれる」という関係性についても述べていて、まあ家族の在り方は多種多様だよねという話なのだが、このあたりは"好き"を使わずに家族になるためのセリフを色々と模索しているように見えた。(5話)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?