見出し画像

「ピンピンコロリ」を目指すよりも、「今をどう生きるか?」が大切

理想の死に方として「ピンピンコロリ」というものがある。

病気や怪我に苦しむことなく、健康で元気な肉体で長生きして、あるときコロッと息を引き取っている状態を指す。

このピンピンコロリを目指して、食事や運動を意識したり、なるべくストレスレスな生活を心がけている人たちもいる。

それは非常に良いことだと思う。何事も健康あっての人生だ。

しかし、ピンピンコロリを目標にしすぎないほうが良いと思う。

それは介護という仕事を通じて色々な高齢者の最期と、その直前までの生き方を見てきて思うことだ。

どんなにピンピンコロリを目指してきた人でも、歳を重ねるごとに肉体は衰えていく。肉体が衰えるのは自然の摂理だし、食事や運動では限界はある。

100歳近くまで介助を要せず歩いてきた方が、ちょっと転んで車椅子生活になることだってある。

高齢でもご飯をもりもり食べていた方が、たった1度の大きなくしゃみをしただけで状態が一気に落ちてしまうこともある。

このようなちょっとした出来事により、ピンピンコロリが果たせなくなる。
そしてそれは、誰でも起こりえる話である。

また、ピンピンコロリを目指して肉体維持ができたとしても、人間は会話や理解といった運動行為以外の活動もある。

このようなコミュニケーションや知的活動も要素に入れてこその、ピンピンコロリと言えまいか。

しかし、このような知的活動も範囲に入れると、余計にピンピンコロリのハードルは高くなる。

実際、少し物忘れはあっても会話が成立していた高齢者が、たった3日間の検査入院をしただけで戻ってきたら意思疎通が落ちていることもある。

別にピンピンコロリを否定するわけではないが、このようなケースを目の当たりにすると、人間は脆いのだということを痛感する。

そして、このように考えていくとピンピンコロリで天寿を全うするということは、非常にハードルが高いことなのだ。


そもそも、ピンピンコロリを目標にするのは奇妙な話だと思う。

確かに、死ぬときに苦しむのは誰もが嫌だと思う。
しかし、苦しむのが嫌なのは生きているときだって同様だ。

人間はいつ死ぬかなんて誰にも分からない。
明日も生きられる保証なんてない。
もしかしたら、家を出た瞬間にすべって頭を打って死ぬかもしれない。
健康診断の結果、余命宣告されるかもしれない。

そう考えたら、ピンピンコロリを生きる目標に据えるのは変である。

もちろん、健康であることは大切だ。
しかし、いつ失われるか予測不明な自分の命をして「何をするか?」「どのように生きるか?」を前提と考えたほうがピンピンコロリを目指すより意義があると思う。

いつ死ぬかわからない未来にばかり目を向けるよりも、「今をどう生きるか?」に目を向けたほうが楽しいと思う。

その視点のほうが自分の肉体にも心にも耳を傾けられるし、もっと有意義かつストレスレスな生活が送れるようになれる。

将来なんてどうなるか分からないのに、今をないがしろにしていいはずがない。私たちはもっと「今」に目を向けるべきではないだろうか。


ここまで読んでいただき、感謝。
途中で読むのをやめた方へも、感謝。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?