「他人に助けを求めること」に慣れる
歳を重ねるほどに他人の支援は必要
医療や食品、安全管理が向上している時代において80歳以上になってもお元気な高齢者は珍しくない。
しかし、当然ながら身体機能は低下しているわけで、どんなに健康管理をしたとしても生物として肉体の衰えは自然に起こる。
肉体が衰えると、これまで自分でできていたことが難しくなったり、それどころか何かしらの事故に発展することもある。
「事故」と一言に言っても様々であり、当人の肉体を損傷する事故もあれば、当人の不手際によって身の回りの環境に何かしらの悪影響をもたらすこともある。
いずれにせよ年を重ねるということは、できることが減り・できないことが増えていくことである。
また、大なり小なり周囲に迷惑をかけたり、他人の手を借りる場面は出てくることも確実でだろう。
このように思うのは、介護の仕事を通じて高齢者の身体変化や、それにともなう周囲の支援の必要性を目の当たりにしているからだ。
そして、このような事象は他人事とは思っていない。
私もまた、順当に年を重ねれば確実に他人の手を借りなくてはいけない事態になると想定している。
どのような想定かと言うと、私はよくテーブルやデスクや壁に足や肩をぶつけるため、ある程度の年齢になったら足をぶつけて骨折し、自力でトイレにいけなくなると踏んでいる。
そうなると、移動や排泄において一部介助または全介助を要するため、周囲に介護というヘルプを求めざるを得なくなると考えている。
もちろんこれは、高齢になってからだけの話ではなく、ちょっとした事故や病気により入院したとしても同様である。
「他人に助けを求めること」に慣れる
別に早い段階から自身が介護を受けることを想定しておく必要を説きたいわけではない。
どちらかと言えば、「他人に助けを求めること」に慣れておくことのほうが
必要だと思っている。
現代人の気質なのか日本人の感覚なのか分からないが、「他人に助けを求めること」が苦手な人たちが少なくないように伺える。
例えば、分からないことがあると時間をかけていつまでも自分で調べて答えが見つからない人がいる。
すぐ隣のデスクに座っている同僚にちょっと質問すれば済む話なのに、「忙しそうだから」「こんなことを聞いて馬鹿にされないか」と気にしているらしい。
気持ちは分からないまでもないし、その同僚との関係性もあるだろうが、案外そこまで気にするほどではないことが多い。
実際、思い切って「ちょっとこれについて教えてほしいんだけど」と質問すると「ん? ああ、これはね・・・」とあっさり教えてくれるものだ。
あまりにあっさりしているので、相手を気にしていたり時間をかけて調べていたこと自体がバカバカしく思えることもある。
何が言いたいのかと言えば、「他人に助けを求めること」とはこの程度の話であるという話だ。
助け合い・迷惑のかけ合い
もちろん、助けてもらって当たり前といった不遜な態度ではいけない。
しかし、「他人に助けを求めること」は恥ずかしいことではないことだけはご理解いただきたいと思う。
助けを求めることによって迷惑をかけることはあろうが、そこで助けてくれた相手だってどこかで迷惑をかけているはず。
助け合いや迷惑のかけ合うという大きな循環の中に自分がいると思えば、そこまで気兼ねすることはないと思えないか。
それでも迷惑をかけるのに及び腰なのであれば、それはおそらく「他人に迷惑をかけちゃいけない」と教えられてきた可能性がある。
しかし、そんなことを守っていては特に変化の激しい世の中を生き抜くことは困難になる。
ちょっとした助け合いや迷惑のかけ合いによってこそ、個々が生かされる(活かされる)という考えにシフトチェンジしたほうが良いだろう。
「他人に助けを求めること」に耐性をつけるためには、何かしてもらったら明るい顔で「ありがとうございます」「助かりました」とだけ言えばいい。
そこで「迷惑をかけた」と思っても、助けた側は何とも気にしてない。
そこで気にするならば、助けてくれた相手に「今度困っていることがあったら声を掛けてくださいね」と言おう。
そうして、その人からどこかのタイミングで「手伝ってもらっていい?」「困っているんだけれど」と声を掛けられたら素直に応じればいい。
それだけでいい。
たぶん、「他人に助けを求めること」って、単純な話なのだから。
ここまで読んでいただき、感謝。
途中で読むのをやめた方へも、感謝。
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