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「ほめる教育」は本当に良いのか?

介護施設の運営する立場として、介護職員を教育する機会は多々ある。
新人もベテランも定期的な基礎研修は必要だし、間違っていることは立場や年齢問わずに伝える。

しかし、教育する立場の私だって学ぶ姿勢は必要である。教育する立場だからこそ伝える内容に不確実な要素は減らしたいし、できる限り最新の考え方や情報は伝える責務はあると考えている。

そのため、介護も含めた色々な分野のテーマを日々学ぶようにしているし、介護の基礎知識については既に知っている内容であっても、その年に発行された書籍を購入して目を通すようにしている。

また、指導する立場だからと言って教えるだけではない。教えられることだって多々ある。本当に多々ある。
それはスキルとしての話だけでない。介護現場での出来事、現場経験を通じての職員個人としての考察や視点だって、私にとっては全部が学びである。

ときには間違いを指摘されることもある。私も人間なのだから間違う。
だから、言い訳せずに素直に間違いを受け入れて、適切な考え方や最近のやり方などを教えてもらう。

また、他者から学ぶときは、相手の年齢や立場は関係ないとも考えている。分かった気にならず、見栄も張らず、分からないことは「分かりません」と素直に言う。教えて貰うときは少し大袈裟に「へー」と反応する。

お互いに敬意をもって楽しく学び合う――― それが教育であり学ぶということだと思う。




さて、周囲から学ぶ機会は多いとはいえ、そこそこの年齢の大人たちに教育する立場にあることから、教育そのものについて学ぶこともある。

つまり、「どのように教えるのが良いか?」「どうしたら興味を持ってもらえるか?」「自ら学習する意欲を引き出すには?」といった感じだ。

別に教育論を推奨することはないが、管理職や現場リーダーなどでこのような教育に関する考え方に手を伸ばす方は少ないようだ。

そのため、今まで自分が先輩や上司などから受けた教育を、そのままトレースするように相手に伝える人たちは少なくない。

面白いもので、教育を受けていた当時は「この上司はムカつく」「この先輩の教え方は変だ」とか思っていたのに、いざ自分が教える立場になった途端に同じことを繰り返す。

自分が怒りや疑問に思ったことを改善しないまま、同じ教育をする。そして、その教えを受けた人もまた、教える立場になったときに同様のことをする。そんな教育が負の連鎖として引き継がれていく。

まるで、自分が受けた嫌な思いを、後輩などの教育する相手にぶつけることで発散しているかのようだ。もしそうならば、それは一種の虐待である。

教育と言う名の虐待 ―― それはどこかで鎖を砕かなければいけない。




ここで昨今よく耳にするのが「ほめる教育」というものだ。
個人的に、この教育法に疑問を抱いている。

それは「ほめることは間違っている」とか「厳しく言ったほうが良い」といった意味ではない。

相手を「ほめる」こと自体は問題ない。何が問題かと言えば「ほめることに教育効果がある」と考えていることである。

そもそも、ただ闇雲に相手をほめたところでスキルは身につかない。

例えば仕事でミスをしたときに「ミスをしたと言うことは挑戦した証拠だ! それは素晴らしいことだ!!」なんて言ったとしても、根本的な解決になっていない。気持ちは楽になるかもしれないが、大切なことは何を間違って、次に同じミスをしないように対策を講じることだ。

学習の意義は「何を学ぶか」であって「気分を良くすること」ではない。

また、「ほめる教育」によって自己肯定感が得られることが期待されているらしいが、しかるべきテーマや目的がある教育においては自己肯定感は必要ない。粛々と学ぶことに邁進するだけだ。




「ほめる教育」とやらを見ていると、仕事における「やりがい」とか「充実感」と呼ばれるものと類似している思えてくる。

労働者にとって仕事はお金を稼ぐ手段であるはずなのに、いつ頃からか「やりがい」「充実感」といったものがトッピングされている。

そうして、やりがいや自己肯定感、心理的安心といったものが優先されるようになり、その一環として「ほめる教育」が生まれたと推察される。

実際のところ「ほめる教育」に効果があるのかは分からない。しかし、過度に相手をほめたところでスキル修得や成果に結びつくとは思えない。

これは反対に言えば、「否定する教育」「怒鳴る教育」といったネガティブ教育も同様だと思う。”麦は踏まれて強くなる”と言うが、過剰に否定したり怒鳴ったりすると現代人はメンタルを病んでしまう。

それは現代人が弱くなったわけではなく、もともと人間は否定されたり怒鳴られたりすると記憶も思考もパフォーマンスが低下する仕様になっているだけの話だ。

つまり教育とは、過度に「ほめる」ことをしても、過度に「否定する」「怒鳴る」ことをしても、教育の本質的な目的からかけ離れてしまうということである。




では、どのように教育すればいいのかと言えば、結局のところに人間関係のあり方に回帰すると思う。

そもそも、「ほめる教育」をするにしても、それはお互いに信頼関係があってこそ成立するのではないだろうか?

ムカつく上司に急にほめられたら「うわっ、こいつ急にどうしたの!?」と思われるだろう。また、いつも反発ばかりの部下が「貴重な教え、ありがとうございました!!」としても困惑するだろう。

手法にばかりこだわってしまうと、本質が損なわれていうのは教育に限った話ではないだろう。

そのため、もしも「ほめる教育」の効果を出したいならば、その前に教育する側も教育を受ける側も、お互いに日常で歩み寄りをする取り組みが必要である。

それはつまり、コミュニケーションというやつだ。そしてそれは、大袈裟に考える必要はない。

朝に顔を合わせたら、笑顔で「おはようござまいます」と言えばいい。
何か手伝ってもらったら「ありがとうございます」と言えばいい。
困ったときには「相談があるのですが」と言えばいい。
仕事終わりには「今日もお疲れ様でした」と言えばいい。

「ほめる教育」の前に、このようなちょっとした積み重ねによる関係性をつくることが先決であると思う。

ときには教育するほうだって「これは私も自信がないのだけれどね」とか「あ、ごめん。間違っていた」とかいう隙があってもいいだろう。すると教育を受ける側だって「この人も間違うんだな」と親近感を抱ける。


――― 教えるということは難しい。しかし、相手にとってプラスを与えたいということは誰でも同じである。そのためにはまずは、「こう教えればいい」というよりも、時間をかけて耳を傾け合える信頼関係の構築をすることも大切ではないだろうか。


最後まで読んでいただき、感謝。
途中で読むのをやめた方も、感謝。

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