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『雪』商店街シリーズ番外編1

本屋で手に取ったのは、ふと目に付いた植物図鑑。パラパラとめくると繊細なイラストが僕の好みだったので、そのまま購入を決めた。

ネットで何でも情報が手に入り、電子書籍が勢力を増す時代。
でも、僕はやはり手で触れて紙をめくる物理的な書籍が好きだった。仕事帰りに本屋へ立ち寄るのは楽しみの一つでもある。

なにか小説も一冊、と新刊の並ぶレジ前コーナーを眺めていると、レジ横にある文具売り場からダンボールを抱えた若い店員が出てきた。
その進路を避けながら、前がちゃんと見えてるかなと心配した矢先に、店員の持つダンボールは新刊の山に接触した。
“話題作!”と書かれたポップと共に、不安定に積まれた新刊が崩れ落ちた。
「あっ」と焦った声を出して、若い店員はダンボールを横に置くと崩れた本を拾い始めた。僕も一緒に崩れた本を拾い集める。
少し離れた場所にいた小太りのサラリーマンも駆け寄ってきて手を貸してくれた。
一番遠くに飛んだ本を手にすると、落下の衝撃で帯が縦に破れていた。

気になっていた本だ。中身に変わりはない。

新刊コーナーが元通りになったのを確認して、僕はその本を植物図鑑と共にレジに出した。
レジ担当の店員は、目の前で起きたことがなかったかのように事務的に対応をし、帯が縦に破れた小説に言及もせず、植物図鑑と共に紙袋に入れた。

手提げのビジネスバッグには入り切らない書店の紙袋を腕に抱えて、外に出る。
扉が開いた瞬間にキンと冷えた空気を浴びた。
たった一つの本屋の中でも、大きな温度差がある。
散らばった本を一緒に集めてくれた無関係の小太りサラリーマン。
目の前で起きたことにまるで無関心のレジ店員。

重みのある紙袋を持ち直そうと姿勢を変えると、手元にひらりと白いものが落ちてきた。
空を見上げる。
雪か。
このところ冷え込む日が続いていたから不思議ではない。
ふわり、ふわりと次々舞い降りてくる雪に、なぜか暖かい気持ちになった。冬の象徴が心を暖めるって、おかしいな。

雪の出所を追って空を向いて歩いていたら、歩道に浮いてたブロックに足を取られた。
おっと。
道沿いのバス停に並ぶ人の目線が一瞬自分に向いたのを感じながら、今度は足元に気を付けて帰路を急ぐことにした。

ーーーーーー

あらゆる種類の鍋の中でも、水炊きは特に家族が喜ぶメニューだ。
高騰していた白菜の価格が下がって落ち着いたのはありがたい。糸こんにゃくと長ネギもカゴに入れた。
あと足りないものは何だったかな。冷蔵庫の中身を思い出しながら、鶏肉で肉団子を作ろうと思い立ち、つなぎの片栗粉を探しに向かう。
会計を済ませると、買い物袋に重いものから形を整えてパズルのように詰めていく。

「誕生日は何が欲しい?」って妻から聞かれたとき、自分が家事を担おうと決めていたから買い物用のエコバッグをリクエストした。
その時のプレゼントに家族への荷物を詰め込み、肩に背負って、店の外に出た。
頑丈な袋は重くて時に食い込むけれど、その存在感は自分にとって大切なものだ。
転ばないように、慎重に、足元を見て歩く。

黒い靴の先に白い塊が落ちて消えた。
雪か。
立ち止まって空を見上げる。
降り始めだった雪はみるみる増えていき、白い塊が視界を埋め尽くしていく。
あまりの美しさに、誰かに共有せずにはいられなかった。

歩道の通行の邪魔にならないように、建物のそばに身を寄せて「雪が降っているよ」と妻にメッセージを送った。
しばらくしても既読はつかない。まだ仕事中かもしれない。
「今夜は鍋だよ。雪が降る前に決めていたんだよ」
ちょっと手柄を主張したくて、暖かい夕飯を伝えた。

もう一度、空を見る。
数多く降る雪も、一つ一つに注目するとふわり、ふわりと舞っている。
書店の紙袋を抱えた男性が、目の前を足早に通り過ぎた。
家の暖かさが恋しくなって、自宅に向かう足を進めた。

ーーーーーーー

半年前から取り組んでいた新商品のプロジェクトは、先月、突然の変更を命じられた。
大わらわで対応したけれど、今日、延期という名の中断を言い渡されてしまった。
あんまりにも悔しすぎて「ぱーっと飲んで嫌なこと忘れましょう」という同僚たちの誘いにもとても乗ることができなくて、早々に退社した。

今日は特別に冷え込む。

バス停に並ぶ人の最後尾、屋根からも外れた場所に私は立った。
誰かに愚痴れば気が晴れるだろうか。友人リストを見ても、今の私の気持ちに寄り添ってくれると確信できる人が見当たらない。

ふと、空を見た。
雪国出身だからか、理屈ではなく感覚で、雪の匂いを感じた。

ふわり、と白い塊が空から降りてきた。

まだ誰も気が付いていない。
周囲の人影はみな一様に下を向いている。
ふたつ、みっつ、そのうち数えきれないほどの雪が次々と舞い降りてくる。

近くにある書店から出てきた男性が、寒さに身を縮めながら空を見上げて雪に気付いた。
腕に抱えた紙袋は分厚く、何を買ったんだろうと興味をそそられる。
何となく目を離せず眺めていると、男性は上を見たまま歩いて足元の縁石につまずいた。
おっと。
視界に特殊な動きが入ると誰でも見てしまうようだ。
下を向いていたバス停の行列が、つまずいた男性に一瞬目をやり、そして雪に気付いて一斉に空を見上げた。

本を抱えて去っていく男性の背中とすれ違って、肩に買い物袋を背負った男性が前を見据えて歩いてきた。
雪に気付いていても、自宅に帰ることを優先している意思が感じられた。袋に収まりきれていない長ネギ は、鍋の材料かなと思った。
私の乗るバスの進行方向に去っていく彼の背中を見送る間に、バスが到着した。

左側の一人用の席に座り、疲れた体を壁側にもたれさせた。
バスが発進する。
さっきの買い物袋を背負った男性が歩道に立ち止まってスマホを取り出しているのが見えた。
バスを降りたら、最寄りのスーパーで鍋の食材を買おう。
そして家に帰ったらまだ読み終えてない本を開こう。

窓に頭を預けて目をつむる。
さっきまであんなに頭いっぱいだったプロジェクトのことは、明日考えようと思えた。

ーーーーーー

バス停を通り越したあたりで、メッセージの着信音が鳴った。
立ち止まってスマホを確認する。
笑顔で手をハートマークにしたイラストは妻からのものだ。
彼女が帰宅する前に、部屋を暖めて鍋の支度を整えよう。

手前のバス停を出たばかりの路線バスが横を通り過ぎ、その風で雪が不規則に舞い巡った。

終(2542文字)

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