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コロナ第2波と日本の命運

お疲れ様です。けいえすです。

昨夜放送のWEEKLY OCHIAIもすごかった。彼らの議論の深さと幅広さはすさまじい。相変わらず宮田先生は、他を超越した存在であった。

番組後半に濃厚な議論が展開されていた。特に最後のエンディングテーマが流れ始めたあたりが、番組としてのクライマックス。時間が無い人は、後半あたりから見てもいいかもしれない。

つぶやき1

宮田先生「シンガポールの外国人労働者、アメリカの黒人やヒスパニックを中心にした低所得者層、日本の夜の街・若者(マイノリティ)。社会が合理性の中で取り残されてきていたマイノリティから感染を広げてしまっている。今後は取り残してきてしまった人たちと新しい社会構造を変えていかなければならないし、誰も取り残されない社会である必要がある。」

殴り書きのメモなので、一言一句合ってはいないが、宮田先生のこのコメントが最も印象的であった。

資本主義あるいは民主主義の社会において、国も国民誰しもが、マイノリティに課題や問題があると認識しておきながら、彼らとの対話あるいは彼らの社会参加を促してこなかった、ということの問題提起しているのだろうか。

海外の情勢はニュースレベルでは認識しているつもりではあるが、正直実感がないので、彼らが社会からどのような取り扱われ方をされているのか、我々日本の一般ピープルには100%理解することが難しい。先日のBLMの運動についても、色々とニュースソースを漁ってみたが、根深過ぎて自分の中ではまだ完璧には腹落ちしていない。

BLM、、、アメリカ人も大変だなぁ、なんて軽く思っていたが、言われてみると日本にも多くのマイノリティが存在していることに改めて気づかされる。

むしろ自分は日本国において、マジョリティなのか、マイノリティなのか?ひょっとすると日本はマジョリティな母集団はなく、細かなマイノリティ集団が幾つも存在し、既に分断された社会になってしまっているのかもしれない

宮田先生の言う、夜の街の住人・若者がマイノリティとして、社会から対話されずに取り残されている、についてはなんとなく理解はできる。政府の向く先は常にホワイトカラーと老人だ。

これまで置き去りにしてきた結果、コロナで色々なことを自粛し我慢しなければならない状況を何故なのかを対話できないまま、経済と感染予防の両輪を回そうとしてしまった結果が今の状況にあるのではないだろうか。

コロナでも経済でも死なないために、どのような新しい生活様式ニューノーマルとは何かをマイノリティともっと対話すべきであった。ありもしない民度の高さであったり、同調圧力といった、神頼みに近い対応であったのだと今さらではあるが感じる。


対話とは何か。

対話とは手を取り合うことだ。お互いの言葉の意味や価値観を共有し、お互いに否定や論破することなく、お互いの価値観を尊敬しあい、お互いが納得のいく結論を導き出すことであると理解している。

番組の中で宮田先生もおっしゃっていたが、これからはこのように合理的に動かない人たち・対話不能な人たちとも対話していかなければならない。対話していて気持ちの良い人たちとだけ対話していればよい世の中ではなくなってきている。

つぶやき2

死生観

死ぬとは何か。生きるとは何か。

どう死にたいか。誰しもが必ず最後は通るであろう死というものをどうとらえるか。世界の他の国はわからないが、日本は無宗教国家であり、宗教観が他国と比べて圧倒的に薄いため、死生観へのアプローチは有効的なのかどうか。

スウェーデンはこのあたりの死生観というものが、国民全体で共有できているため、日本では考えられないような対策が打てる。各宗教の死生観についてまるで知識を持ち合わせていないため、ここではこれ以上言及できない。

少なくとも日本では、この死生観について語られる機会も少ないし、考える機会もない。

これを機会にどう死にたいか?すなわちどう生きたいかを、今一度考えてみたいと思った。

つぶやき3

終盤に宮田先生が、イギリスでのコレラ流行の際に宗教的規範が瓦解した、というエピソードをお話しされていましたが、その瞬間に落合さん竹中さん両氏より、「それペストじゃない?」と突っ込みが入る。

皆さんの異常なほどの教養の高さが垣間見えた瞬間だった。間違えていた宮田先生も、何の言い訳もせず、すぐさま訂正し議論を続ける。

このぐらいのレベルの高い議論ができるようになりたい。


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