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『教示の不在』――「教え-教えられる関係」を問い直す

 「教示の不在」とは、学習者が自分で学びを達成するために、教示者が意図的に教えない態度や振舞いのことです。アフリカ中部の熱帯雨林に暮らすカメルーン狩猟採集社会バカBakaの大人たちは、子どもを「教えない」と言われます。ただ、教えているかいないかというのは、じつは簡単に決められることではありません。

むしろわたしたちが考えないといけないのは、「狩猟採集社会の大人たちが子どもに教えているかどうか」ではなく、「『教示者である大人』と『学習者である子ども』がどういう関係にあるのか」ということです。「教えられていないのにどうやって学ぶのか」と彼らに尋ねれば、それは「子ども達は観察して覚えるのだ」と答えます。「学ぶ」とか「教える」といったことは本来そういうものであり、これはなにも不思議なことではありません。しかし、実際の子どもの学習の中では、それよりももっと複雑で豊かなことが起きています。学習者の経験を描き出すために、学習者である子どもが、実際の活動の中でどのような経験をしているのか。また、学習者と教示者はどのような関係を築いているのか。彼らのやりとりが、なぜ「教えていない」と見えるのか。狩猟採集をする大人と子どもの実際の活動で起きた相互行為の分析からこうした問いに答えたのが本書『教示の不在』です。

 狩猟採集社会では「自律」が尊重されるといいます。自律とは、他者の支配を受けずに、自ら行為したり意思決定したりする能力のことですが、この自律が規範として存在しているので子どもたちは教えられないのだと考えられてきました。

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しかし、「自律」などという現地語(バカ語)が見当たりません。つまりわたしたちはいまだ、バカの大人による子どもの教育と、子どもの学びを当事者のまなざしから捉えきれていないということなのです。

そこで「「自律」という規範があるから子どもを教えない」を結論にするのではなく、むしろその自律が、協働的達成物としてどのように組織化されるのか(どのような行為と行為の連なりの中で組み立てられているのか)を見ていくことで、これまで言われてきた自律の内実を捉え直したい。教示者=大人と学習者=子どもは、ともにどのような活動をおこない、そこでどんなやりとりをし、またその活動の光景を子どもはどのように眺め、彼らはなにを経験しているのか、さらには熱帯雨林という自然環境が、彼らの社会関係にどのように作用しているのか、当事者の実践的な視点から眺めます。

地面にぽっかりと開いた巣穴、枯葉で隠された地面の裂け目、つるが巻き付いた枝々、葉のこすれる音、鳥のさえずり、動物の見慣れない行動…。森の異質で多様な環境物や出来事は、子どものさまざまな行為を引き出します。予見しない出来事が起こる環境の中で、大人は子どもの判断や固有の体験に耳を傾け、子どもはまた大人のサポートのもとで、狩猟採集活動に参加します。大人と子どもは、教え-教えられる関係性だけではなく、いち実践者同士の関係性を築いているのです。バカBakaの大人が子どもに「教えない」。そのような「見え」を形成していたのは、学習者自身の経験や知識を教示者が承認する関係性であり、さらには、予見しない出来事が起こる自然環境が、このような関係性の編み直しに作用していました。「一人ひとりの学びが異なる」という事態が、規範としてではなく、むしろ日常の生業活動の中で生起している様子を、本書では描き出しました。

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