ポテトサラダ問題は貨幣経済と狩猟採集経済の対立構造だった

先日Twitterでポテトサラダの話がエラいバズっていた。これについて、高齢男性の主張をなるべく客観的に考察し、我々若者世代は何を考え、行動すべきなのかを考えてみた。

以下、みつばちさんの元のツイートの引用

引用終わり

この出来事は実に示唆に富んでいて、バズるのも肯ける。

まず、高齢男性が若い母親にこのような発言をすると、見る側は女性は育児や家事において楽をしてはいけないという男尊女卑、家父長制的思考を彷彿とさせ、女性差別を連想させる。差別とまでいかずとも昭和的家庭観と現役世代の家庭観では乖離があり、現役時代からすれば、前時代的概念は悪しき風習とも言えよう。

また、育児の問題。昨今の社会事情や、母親の様子からするに、母親はもしかするとワンオペ育児で疲れているのかもしれないと、つい想像をかきたてる。そうやってみると高齢男性はワンオペ育児母親の真逆の存在として読者に映る。これらは非常にセンシティブな話題だ。

実に興味深いのはポテサラという料理に多くの人が着目し、共感や各々の意見を述べているところである。ツイートの反応を少し見てみると多くの人が「ポテサラは実は作るのが大変」「ポテサラくらいと言うな」という前段から始まり、ポテサラを買うことは悪いことではなく、ポテサラを作ったことのないであろう高齢男性に指図される筋合いはないのだ!という意見が多くを占めているように思う。母親擁護派が圧倒的多数だ。

いや待て。この論理だとポテサラが「作るのが実は大変だけど、意外とそれを知らない人がいる料理」だから母親擁護が成り立つことになってしまう。もしポテサラじゃなくてカット野菜(レタスとパプリカだけのやつ)だったらどうなるのか。これは作るのは極めてイージーだ。明らかに作るのが大変ではないので、高齢男性と同じ意見になってしまわないだろうか?逆に、明らかに作るのが難しい部類に入るカニクリームコロッケだとどうなるのか?そもそも高齢男性もこれには文句をつけないかもしれない。なぜなら料理をろくに知らない高齢男性といえどもカニクリームコロッケを自宅で作るには一筋縄ではいかないと想像できるからだ。

その点ポテトサラダは非常に絶妙な線を行っている。じゃがいもは原価が安く、老人男性から見てもとても馴染みがあり、どちらかというと低級な野菜だろう。しかしポテトサラダを作るとなると意外と手間隙がかかるというのがミソだ。しかも美味しく作るにはそれなりに工夫が必要という。これは作る人しかなかなか理解しがたい。しかしポテトサラダ自体は見た目の単純さと身近さでじゃがいも同様に料理としての敷居は低い。どんな低級な居酒屋にもあるメニューである。そういうイメージからポテトサラダは舐められやすい料理なのだ。これが春雨サラダだったらどうだろう。これも簡単なのだが、いかんせん少し馴染みがない。高齢男性に馴染みがないし、Twitterの大衆から見てもポテトサラダほどの市民権が無いだろうからダメだ。この元ツイートがバズった一番の理由はポテトサラダだからなのだ。

ここから多くの人がポテトサラダの話に脱線していった。それほどに皆ポテトサラダが好きであり、ポテトサラダは奥が深いのだ。それはわかった。話を真面目に本題に戻そう。

皆、ポテトサラダは手間がかるという論点から母親の味方をしているが、実は、上記の通り、対象の惣菜がポテトサラダではなかったら母親の味方になれなくなってしまう可能性がある。ポテトサラダに限って手を抜いても良いという発想だと、根本的にはこの高齢男性とは同じ主張になってしまう。ポテトサラダという多くの人の共感を得やすい料理が故に曖昧になっているが、とても主観的な話になってしまう。

「ポテトサラダは楽ではない」という論は「ポテトサラダならば楽をしてよい(買って良い)」という論となり、「カット野菜であれば楽をしてはいけない(買ってはいけない)」となる可能性を孕む。

そうなると社会全体が潜在的に高齢男性と同じように「楽をする」「手を抜く」ということが悪という論調を抱え、それに対して自己の中に矛盾を抱える状態になり、「罪悪感」が生まれる。この母親が俯いてしまったのはそのためだろう。

本当にこの母親に味方するならポテトサラダであろうが、カット野菜であろうが母親を擁護できなくてはいけない。僕はどんな惣菜であろうと母親を擁護したいと思った。いかなる場合も「罪悪感」を無くしたい。そのためには客観的に考える必要がある。そもそもこの「罪悪感」は何なのだろう?と考えた結果、この「罪悪感」は共同的主観、つまり社会全体が持つ虚構であり、幻想なのだという結論に至った。つまり、「手抜き」が悪かそうでないかという議論そのものがナンセンスなのだ。

「手抜きをする」ということは悪ではないという視点で、「プログラミングやエンジニアの世界では、手を抜くことは工程を省くことなので、とても評価されること」というよう視点で擁護しているツイートも見かけた。しかしそれも当然ながら論点が違う。なぜならそもそもこの母親は手抜きをしていないからだ。このエンジニアの例え話だと罪悪感の軽減にしかならなず、罪悪感の存在は認めていることになる。僕の論では、そもそも母親の行為は全く罪悪性が無く、そもそも「楽」すらしていないということである。

またこのプログラミングエンジニア話で論点が違うなと思ったところは、「そもそもポテサラの購入は工程を省いてない」ということだ。あくまでポテサラの作成工程が家庭内から家庭外に移っただけで、じゃがいもを茹でる時間は変わっていない。僕はプログラミングは全くしないが、工程を省くことがより良いことなのは理解できる。しかし此度のツイートの惣菜としてのポテトサラダを買うという行為は、工程を省くというより、工程を外注した形になる。プログラミングで工程を省略する場合、短縮出来るようなコードを自ら考案する必要があると思うのだ。多分、もしプログラミングの例えをポテサラにあてはめるなら、じゃがいもを物凄い短時間で茹でるための鍋を自力で開発しないといけないことになる。

何が言いたいかというとはじめから誰も「手抜き」をしていない。お店すらも手を抜いてポテサラを作っていない。ならばなぜ「手抜き」という錯覚が生まれたのか?これはお金を使うことを手抜きだと思っている人がいるからである。これが根本的に間違いだ。そしてこの間違いこそが、この高齢男性の思考を端的に表している。

プログラミングじゃなくても、どんな仕事でも下請けに外注することはある。これは手抜きだろうか?いや、手抜きではない。「効率」というものを正当な対価を払って買っている。ではその元手となるお金はどこから生まれたのかというと、これまた正当な対価として誰かから貰ったものだ。つまり、そのお金は「手抜き」して手に入れたものではない。そのお金を「手抜き」して入手していない限り、お金でポテサラを買うことは「楽」や「手抜き」では一切ではない。これを理解するためには貨幣経済とは何なのかを考える必要がある。

お金があれば誰だってモノを買う権利があり、それらモノのなかには効率もあるし、ポテサラもある。そして二つを買う権利がある。これは貨幣経済の基本だ。貨幣経済では貨幣を有する者は最適効率という付加価値のついたポテサラを買う権利があり、そのポテサラを買うにはそれに見合う貨幣を持っていなければならない。

ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』によると一般的に貨幣と呼ばれる最古のものは紀元前3000年半ばに古代メソポタミアで生まれたシュケルである。しかしこれは銀塊であり、硬貨ではなかった。今日の貨幣のように使われた最古の硬貨は紀元前640年頃アナトリア西部のリディアで作られた。効果には権威付けがされており、その価値が保障されていた。貨幣とはこれまでで最も普遍的で最も効率の良い相互信頼制度だ。

貨幣の特徴はどんなもの同士でも時間と場所を超えて価値を交換できる。そのお金は多くの人は働いて得ている。働いて得たお金である以上、何を買おうが、楽をしているわけではない。等価を代償として得た当然の権利なのだ。

話が逸れてしまったが、つまり、貨幣の存在意義と役割を考慮すると、カット野菜であれなんであれ、売られている者はお金と交換することができる以上、買って「楽をしている」物は存在しないのだ。貨幣には常に何らかの代償が内在している。母親の持っているお金も、何らかの対価を払って得ており、「手抜き」をして手に入れたものではない。それを使って最適効率という付加価値のあるポテトサラダを買う行為に何も問題はなく、その過程で「手抜き」は全く存在しない。

ただし、「手を抜く」ということには例外があり、それは貨幣経済の外からモノを調達してくることだろう。誰かのモノを盗んだり、誰かから盗んだお金を使うことは対価を払ってないため、明らかな手抜きであり、「楽」なことである。今回の場合、そのような自体であることを見抜くことは一般的に難しい。

ここまで考えて見ると、もはやポテトサラダだろうが、なんだろうが関係ない。貨幣経済では母親の行動には一点の曇りもなく正しい。ではなぜ高齢男性はそれを咎めるような発言をしたのか?おそらく、この男性はお金を使うことが「悪」だと思っているのだろう。しかし、それだけなのだろうか?それだけならば、「ポテサラを貨幣を使用して手に入れることは罪悪だ」とだけ言えばいいはずだ。それになぜ「母親なら…」と言ったのか?わざわざ見知らぬ他人に声をかけるだろうか?実際はもっと根が深いのかもしれない。

これはおそらくだが、この男性が貨幣経済の外から来た人間なのかもしれないという仮説がある。お金の使用を「悪」と見なすということは、貨幣という、これまでで最も普遍的で最も効率の良い相互信頼制度に馴染まない社会から来た人間の可能性がある。この説だと、男性の発言の意図と、なぜわざわざ公衆の面前で強く他人である母親にそんなことを言ったのか、という理由が説明できるとしたら…。

そんなバカなことがあるか?と思うかもしれないが、今でこそ貨幣の信用は当たり前のようになっているが、実際にかつてのローマ帝国などが貨幣というものを世の中に浸透させるには並大抵のことではなかった。貨幣そのものに本質的な価値は無いからだ。お金を稼ぐことを「食べていく」と表現するが、実際に貨幣を食べて生きることは出来ない。貨幣の価値を信じない人からしたらレジで訳の分からない金属片を出すことをためらうだろう。とてもじゃないがそんな悪いことは出来ない。

この高齢男性は物々交換社会、もっと言えば、狩猟採集社会の住人かもしれない。狩猟採集社会では毎日その日暮らしに近い。わけのわからない金属や紙の貨幣より、食べ物を集めたり、日々生活していく生活力を極めて重要視する。さらに、集団のなかでは男女の役割は明確になっており、多くの場合、生物学的特性からみて、男は力仕事(主に狩猟)、女は家事と育児というようになっている。これは狩猟採集で生計を立てる以上、合理的かつそれ以上ない役割分担である。たがら男性は「母親ならば、ポテトサラダくらい」という母親は料理ができて当然だという発言をあっさり言ってのけたのだ。いや、狩猟採集社会では料理が出来て当然どころではない。出来ないと死ぬ。狩猟採集民は厳しい世界で生きている。そう考えるとこの高齢男性としてはめちゃくちゃ親切心で言っているのだ。彼は逆に「男ならポテサラを買え」と言うだろう。男は鹿を狩る能力はあれどもポテサラを作る能力は無いからだ。

とは言え、目の前に沢山の惣菜があるスーパーは狩猟採集民から見たらどう映るのだろうか?おそらくここは食糧がある場所であることは認識しているだろうが、女性が立ち入る場所ではないと思っているのかもしれない。ここは狩猟採集民の集団から離れた孤独な男が何とかして鹿と交換して手に入れた貨幣なるものを媒体に、狩猟では得られない食品を交換しにくる場所なのかもしれない。知らんけど。

しかし実際は皮肉なことに貨幣経済に基づく資本主義経済で成り立つスーパーマーケットは、お金を持っている人にモノを買って欲しくて販売をしているし、むしろターゲットは主婦層であり、孤独な男性、特にこのような高齢男性は残念ながら顧客のランク分けとしては最低レベルだろう。

この高齢老人の主張をよくよく読み解くと、我々と住む世界が違って、それ故に主張も全く異なることがわかってきた。しかし世の中は貨幣経済が圧倒的に優勢だ。残念ながらこの天然記念物のお爺さんには退場いただくよりほかに選択肢が無いのだ。せめてその遺志は尊重し、哀れみを込めてその最期を見守ってやるしかないのではなかろうか。

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