最後には母の不味い炒飯と父の油にまみれた炒飯を


アメリカの刑務所には死刑囚に対して「最後の食事」という習慣のようなものが存在する。
その詳細についてはご存知の方も多いと思うので割愛。

私がこの「最後の食事」というものを知った時、もしくははっきりと認識したのは大学生くらいの頃だった気がする。
当時は、すぐ自分だったら~という、もしもの話が大好きで、これについても考えてみた。

頭に浮かんだのは、母の味が薄く具材も少なく不味いチャーハンと、父が作るドーム型の油にまみれたチャーハンだった。
これは、あれから30年近く経ったいまでも変わらない。

私の家は経済的には裕福であるにも関わらず、ずっと貧しい食生活を送っていた。
思い返せば、一週間のうち五日は魚料理や刺身だったと記憶しているが、子供である私にとってはカレーライスの足下にも及ばない。
土地柄、魚が安かったせいもあるのだが、両親が魚好きだったこともあって、それに付き合う形の食事だった。
ひもじい思いなどしたことはないが、学校の給食を美味しく感じるくらいに舌は飢えていたのである。
とはいえ、母とて私の好みのことを考えていないわけではなく、前述したカレーライスやシチュー、オムレツなどを食卓に並べてくれた。
ちなみに、オムライスは本当に幼いころ、デパートの最上階のレストランで食べたものが吐き出したいほど、もしくは残したいほど不味く、チキンライスに苦手意識を持つようになった。ハンバーグについては、藍色と赤の文字やら線などで飾られた一枚入りの白い袋に入ったものを当家では食べていたのだが、あれはハンバーグの形をした別のものだった気がする。いわしバーグのような。好きな味ではなかった。

ともかく、味については美味しいかそうでないかという程度の認識しかなかった私は、小学校の五年生にもなってからやっと、特に好物というものが出来た。
チャーハンだ。
いま気付いたのだが、おそらく私がチャーハンを口にするきっかけになったのは競馬である。
地元には競馬場があるのだが、そこがにぎわう時期には、父は私を連れて競馬場に出かけるのだ。
競馬場に着くと、父はまず屋台で私にアメリカンドッグ(父はこれを私にフランクフルトと教え込んだ)を買い与え、一緒にパドックを眺めてから馬券を買い、レースを何回か眺めて帰る。
帰宅はいつも昼頃で、そんな時の食事当番は父になるのだ。
何故母が作らないのかというと、母は競馬の開催時期は馬券売り場のパートに出ていたからなのだと、これを書いているうちに理解した。
父はいつの頃からか、日曜に昼にチャーハンを作るようになった。

鉄鍋で調理を終えると父は、ご飯茶碗に鍋の中身を押し込み、逆さにした皿に押し付けひっくり返す。
これをふたつ用意する。
ドーム型のチャーハンがふたつ。このお子様ランチのような形状は外食など滅多にしなかった私にはとても嬉しく、そして特別だった。
茶の間の座卓にこれらを運び、父と向かい合って食べた。
味は悪くない。ただし炒めるのに使った油と具材になった丸大の魚肉ソーセージから染み出たものだ。
なにやら香ばしい匂いもした。やはり油だと思う。
食べ終わると皿には米と具の間から流れて落ちた油がたまっていた。
嫌悪感はない。
無知でまた内臓も敵を知らない私にとって、それはぬるぬるした味の付いたなにかだったのだ。
丸くて、いい匂いがして、明るい茶色のようなオレンジ色のような、そして最後によく分からないぬるぬるが残るあったかい食べ物。
それが父のチャーハンだ。

チャーハンの魅力に取りつかれた私は、母にもねだるようになった。
母のチャーハンは油っこくない代わりにドーム型ではない。ただ平皿に盛られる。
味は薄くもなく、濃くもなくちょうどいい。しかし、具材は玉子ときざんだ長ねぎだけだ。いや、父のものも魚肉ソーセージと玉ねぎだけなのだが。
だが、長ねぎの風味が素晴らしい。勿論、これより美味しいチャーハンなどどこででも食べられるのであるが、炒めている音とただよってくる匂い。
そして、何も気を遣う必要のない自宅の真ん中の茶の間で食べるチャーハンが最高であった。しかもお代わりまである。
いつか語る機会があるかもしれないが、カツカレーとあわせてチャーハンは私の大好物になった。
そんな時期から二十年ほど経ち、母が妙に料理に凝るようになった。
玉子とねぎだけでいいのに、必ずなにか余計な母の気遣いが加わるようになったのである。
前日の夕飯の残りだったり、白魚だったり。
白魚は料理番組で使っていたから、おかしくない、おかしいのはお前の頭だと、母は言ったが、私の口に合わないのだから勘弁して欲しかった。
カルシウムが摂れるようにとも言うのだが、それなら混ぜないでそのまま出してくれと反論した。しかし、この争いはさらに数年続いた。
だが、基本の味は変わらない。
玉子と長ねぎとほどより調味料。そして時々白魚。余計な主張はしないが、確実に私を満足させる味。たまに塩の塊が残っていたが。
私がこれまでも、そしてこれからも忘れられない、おふくろの味のひとつだ。

最後の食事というより、我が家の奇天烈な料理事情を披露しただけのものとなってしまったが、皆さまにはご容赦お願いしたい。

私は母にずっと料理を習いたかった。しかし、面倒なのか、私がキッチンを汚し散らかすからか、中々本格的に教えてもらう機会には恵まれなかった。
去年の夏には、もうひとつのおふくろの味、寒天のゼリーの作り方を教えてくれるようしつこく頼んだが、最後には、スーパーで買って食べればいいと一蹴されてしまった。
そして、秋。母は茶の間で横になりながらテレビを見ている最中に脳梗塞を発症した。
目覚めた母は、意識があり、会話もできるものの記憶が混濁していた。右足には麻痺が残った。元々痩せていたとはいえ、腕は骨と皮になっていた。
きっともう、母に料理を習うことなどできない。

先日、髪もほとんどなくなり、顔もしみだらけになった父に、食卓を挟んでここまでの話をしたところ、書き残しておくようにと強く言われた。
父は短歌、俳句、随筆などを嗜むのだが、近頃よく過去の作品を眺めては過去を振り返っている。
記録は情報ではなく想い出で、いつかそれが自分をなぐさめる助けになると言いたいのだろう。
それに従い、こうやって久しぶりに筆を執り、ずっと放っておいたnoteに再ログインすることにした。


最後には母の不味い炒飯と父の油にまみれた炒飯を。
そして、貴女の得意料理を。

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