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2021年に読んだ本ベスト10

今年は全165冊、去年は174冊なのでちょいと少ないが、多読をする者の責務として今年も報告を行う。昨年同様ジャンルは問わずのランキングなので小説が多くなった。もったいぶらず一位から。

2021年に読んだ本ランキングベスト10
1位 『最初の悪い男』ミランダ・ジュライ(岸本佐知子訳)

【長編小説】新潮社、2018年、原題 "THE FIRST BAD MAN"

あらすじ(引用)
43歳独身のシェリルは職場の歳上男に片想いしながら、孤独な箱庭的小宇宙からなる快適生活を謳歌。9歳のときに出会い生き別れとなった運命の赤ん坊、クベルコ・ボンディとの再会を夢みる妄想がちな日々は、上司の娘が転がり込んできたことにより一変。衛生観念ゼロ、美人で巨乳で足の臭い20歳のクリーだ。水と油のふたりの共同生活が臨界点をむかえたとき――。幾重にもからみあった人々の網の目がこの世に紡ぎだした奇跡。ミランダ・ジュライ、待望の初長編。

クリーの牛みたいな無知蒙昧さは、もう以前ほどには気にならなくなった。そもそも問題にもならなかった。彼女の人格は、もはや小麦色のお尻に添えられた飾り物のパセリにすぎなかった。毎日毎日、日に何度でも、クリーはフィリップのコチコチの一物にまたがって上下に弾んだ。そしてはじめのうちはフィリップも、暗い金髪の両翼をもつ彼女のプッシーの中に何度でもイって飽きることを知らなった。けれども十日ほど経つと問題が生じた。彼はあいかわらず旺盛だったし、性欲は衰えるどころかますます盛んだったが、達するまでにだんだん時間がかかるようになった。三十分ちかくかかることもあったし、結局イけずに終わることもあった。わたしはアクロバティックな体位や変わったシチュエーションを試みた。そのうちの一つは、ルース=アンが横に立って二人の交合の様子を見守り、医者の立場から客観的な称賛の声を送る、というものだった。これはあまりに荒唐無稽すぎて、逆に効いた。でもそれも長続きはしなかった。ごく些細なことがフィリップの射精の障害になった。
クリーの足の臭いだった。最初のうちは気にもとめなかったが、今や完全に興醒めだった。フィリップはクリーの両足にビニール袋をかぶせ、臭いがもれないように輪ゴムで留めてもみた。そうしないと勃たなかった。
お願い、ちょうだい、クリーはすがるように言う。中に出して! 中に出して! 濡れそぼった唇をよじらせて、彼女のプッシーがすすり泣く。
だったらまずその足を何とかするんだな、フィリップは傲然と言い放つ。こういうことを専門にやるカラードクターがいる。西側じゃ一番だ。私からの紹介だと言うといい。

この引用はひとまずは主人公シェリルの妄想で、自分がフィリップ(シェリルが片想いしている職場の歳上男)になりきって、クリー(同居している巨乳で美人だが足の臭い上司の娘)を犯しているという設定の妄想ポルノ。それを見守っているルース=アンはシェリルの主治医でもある。性欲の凄まじい43歳独身のおばさんの奇想天外な妄想が続く。こんな話、他に読んだことあるはずがない。

4月に4月に読んだのだけど読みながらすでに今年一番かもしれないと思っていた。クッソ面白い。「クッソ」と書くのが適切な面白さだと思う。
自分の箱庭的妄想の世界から、理不尽、不条理に塗れた暴力的な現実へ。現実は妄想より奇なり。もう立ち直れないかもしれないのに傷つくこと覚悟で飛び込む愛の美しさ。綺麗事や誤魔化しまやかしを排した赤裸々な表現に唸らされた。最高。
「二人はこのまま永遠に寄り添って、ずっとさよならを言いながら、いつまでも別れない」

2位 『千年の祈り』イーユン・リー(篠森ゆりこ訳)

【小説・短編集】新潮社、2007年

「わたしは、ロケットこうがくしゃではなかったです」
マダムが、深くうなずく。石氏はマダムに目をとめ、それから、そらす。〈ロケット工学者でなくなったのは、ある女性が原因です。でもわたしたちは話をしただけなんです。話して何が悪いと思うでしょうが、既婚男性と未婚女性が話すのは許されないことでした。あの頃は、そんな哀しい時代でした〉そう。あの時代にふさわしい言葉は、哀しい、であって、若い人たちがよく言う、狂った、ではない。〈黙っていることが養成訓練の一部になっていても、人はいつだって話をしたいもんです〉そしてこの、話すという何の変哲もないことに、人がどれだけとりつかれてしまうことか! 二人の会話はまず職場の五分の休憩時間からはじまった。それから食堂に座って昼休みの間じゅう語りあうようになった。自分たちが参加している大いなる歴史に希望がわき胸躍るということや、われらが若い共産主義の母国のために、第一号のロケットを建造することについて話した。

もっと引用したいけれどあんまり長くなってもあれなので短めに。
上の引用は表題作「千年の祈り」より。アメリカにいる離婚した娘を慰めるために中国からやってきた石氏。彼はロケット工学者だった。いや、なかった。家族に何十年と本当のことを言えなかった男が、公園で出会ったイラン人のマダムとたどたどしい英語で打ち明ける自分の一生。月日の重さとくるしみが素朴な言葉で静かに語られる。

ありていな人生のありていではない瞬間とその後。中国の大きな歴史のうねりに飲まれ生きる市井の人々の人生、その機微を、叙事的で坦々と無駄がなく、静謐でたしかな筆致で、見事に救い取っていく。完璧すぎて恐ろしい短編集。中国で生まれ育ち大学進学時に渡米、英語で中国のことを書き、母国語に訳され親に読まれることを拒否するこの作家の作品を、これからも読んでいきたいと願う。

3 『ギリシャ語の時間』ハン・ガン(斎藤真理子訳)

【長編小説】晶文社、2017年

あらすじ(引用)
ある日突然言葉を話せなくなった女。すこしずつ視力を失っていく男。
女は失われた言葉を取り戻すため古典ギリシャ語を習い始める。ギリシャ語講師の男は彼女の”沈黙”に関心をよせていく。ふたりの出会いと対話を通じて、人間が失った本質とは何かを問いかける。

彼女の顔のいちばんやわらかいところを探すために彼は目を閉じて、頬を手探りする。冷え冷えとした唇に、彼の頬が触れる。ずっと前、ヨアヒムの部屋で見た太陽の写真が彼の閉じたまぶたの中で燃え上がる。燃えている巨大な火花の表面で黒点が動く。爆発しながら移動する摂氏数千度の黒い点々。それらを間近に見たら、どんなに厚いフィルムを目に当てても虹彩が焼けてしまうだろう。
目を閉じたまま、彼は唇をつける。しっとりした耳のきわの後れ毛に、まつ毛に、遠くから聞こえるかすかな答えのように、彼女の冷たい指先が彼の眉をかすめて消える。彼の冷えきった耳殻に、目元から口元にかけて残った傷跡に、触れたと思うと消える。音もなく、遠いところで、黒点が爆発する。触れ合う心臓、触れ合う唇は、永遠にすれ違う。

私はカルチャースクールで出会う中年男女の恋が大好き。何でこんなに老いかけ傷ついた者同士の不器用で遅延な恋は胸を打つのだろうか。川上未映子の『すべて真夜中の恋人たち』が好きな人は読むべし。詩的な文章に漂う、息を詰めるほどの静寂。燃ゆるたましい。互いの孤独におそるおそる手を伸ばす、人は傷つけば傷つくほど美しくなっていく。

4 『ファットガールをめぐる13の物語』モナ・アワド(加藤有佳織・日野原慶訳)

【小説・短編集】書肆侃侃房、2021年

どこに行くんだろうって思うんだ、と昔メルに言われた。
何が?
うちらの脂肪。脂肪を落とすっていうけど、そのあとは? 汗かくけど、でも、それ全部が脂肪じゃないっしょ。水分と塩分になるだけじゃないはずじゃん。ただ消えるなんてあり得ないし。あたしたち溶けんのかな?
こっちを見て、笑いながら椅子の上で軽く揺れていた。ごきげんだったのは、ダイエットがしばらく続いていて、体重が落ちていたからだった。思慮深い雰囲気を漂わせ、身体のラインを生かしたベルベットのワンピースを着て、山ほどシュガーツインを入れたペパーミントティーをかき混ぜている。
溶けるんじゃない、ほんとに、わたしは答えた。前に科学雑誌でそういう記事読んだことあるし。なんて書いてあったかちゃんと覚えてないんだけど、でも、溶けたのが息とかにも混ざって出てくるんだよ。
メルは聞いていなかった。窓に映った自分を見て、満足そうにしていた。
たぶんあたしたちのまわりにあるんじゃん? とようやく返事した。ほこりっぽいカフェの空気を指して片手を動かしながら、不気味な声色を作って目を大きく見開いていた。まだ10代のつもりで、わたしを怖がらせようとしているみたいだった。たぶん昔のあたしたちはのまわりにいるんだよ。そういうので宇宙はできているのかも。あたしたちが落とした脂肪で。メルは笑った。けっこう笑えない?
真っ赤な朝焼けが、ふたりの顔と水面を照らす。市街にあるガラス張りのビルは、太陽が昇り切った瞬間には陰気な灰色に戻るけれど、遠くから見るときらきらと光を放ち、かがやいている。ここからだと、湖もうつくしい。でも、実際には、気晴らしにときどき出かけたウォーキングの最中にこの目で見たから、あの水面の下には世界のゴミと酸に冒された目のない魚しかいないこともわたしは知っている。マシンを変えてもいいかなと思う。傾斜をいろいろ変えて、2分のインターバルをとろうか。モードを小まめに変更して、ランダムから脂肪燃焼や坂道にして、そうすると何かに向かっているような気分になれるかもしれない。サイレンが近づいてきて、腕の中でシャールのネコが警戒する。マリブクラブのガラスの密室の中にいてもサイレンは聞こえているはずなのに、あの人は漕ぎ続けている。ガラスの向こうの彼女を見つめながら、シャールのタバコの煙を吸い込むと、わたしたちは向き合ってみてもいいかもしれないような気がしてきてしまう。たぶんお互い同じように感じていて、そうすると何もかも変わるのかもしれない。

ごめん、引用長すぎるな。けど最後の段落みたいな文体すごい好きで、自分の詩でももっとやりたいくらい好きなのだよね。
で、とにかく面白かった。ひとりのファットガールをめぐる13の短編集。連続した話でかつクロニクルに並べられているので長編としても読めるが、一つ一つの話は独立しているので短編としても読める。
この物語では全体を通して、とにかく体型をめぐるこもごもがとても丁寧かつ的確に描かれている。私がこの本で一番好きなところは、主人公であるファットガール・エリザベスが痩せても幸せにならないし、また太っても幸せにならないところ。この13の物語は、ありのままを肯定すればいいなんて簡単に言うことはできないくらい「自分の身体は自分に一番近い他者なのだ」ということを改めて突きつけてくる。体形の話以外にも、同族嫌悪を抱きながらも愛してやまない母親や、長い付き合いで同じくファットガールである女友達との関係、自己肯定感の低かった学生時代から結婚、離婚を含む男遍歴など、一人の女性の半生としても非常に読み応えがある。私も思春期をデブを拗らせたひとりの同志として非常にエンパワメントされた。自分にとって本当の本当に自分らしく生きるって本当に難しい。

5 『十二月の十日』ジョージ・ソーンダーズ(岸本佐知子訳)

【小説・短編集】河出書房新社、2019年

家に帰ると子どもたちを集めた。いいか、みんな今ここでパパと約束してほしい。人生は短い、だから一瞬一瞬を大事にして、毎日を最後の一日のつもりで生きるんだ。もしお前たちに夢があるんなら、それをやれ。何かやりたいと思ってることがあるなら、すぐにやるんだ。約束してくれるな? もしパパに人生で一つだけ悔いがあるとすれば、それは今までずっとエンリョしすぎたっていうことだ。お前たちには同じ失敗をしてほしくない。挑戦しろ、努力しろ、勇気を出せ。何か悪いことが起こったって、タカが知れている。そうすれば、お前たちきっと発明者か、ヒーローか、救世主か(!)、とにかくきっとひとかどの者になれる。ポール・リビアが引っ込み思案だったか? エジソンが石橋を叩いたか? イエス・キリストが気配り上手だったか? 人生の終わりに後悔するのは何をやったかじゃない、何をやらなかったかなんだ。
さて寝る時間になった。就寝タイムはときに戦場になる。一日じゅう子どもたちに顔つきあわせて疲れはてたパムが、子どもたちにちょっと生意気を言っただけでブチ切れる。子どもたちも学校で疲れはて、パムがブチ切れそうな気配を見せたとたん口答えをはじめる。結果、おやすみのあいさつ=子どもたちが階段の上でキーキーわめき散らし、パムも階段の下からガミガミどなり散らす、なんてことになる。本とかクツの片方がパムめがけて飛んでくることもある。
ところが今夜はじつに平和だった。死についてのおれの説話が心にひびいたんだろう、子どもたちは一列になってしずしずと二階に上がっていった。トーマスは途中でかけおりてきて、おれにハグしてくれた。エバも踊り場のところでふりかえり、おれのことをじっと(尊敬のまなざしで?)見つめかえした。

引用は一番長い短編「センプリカ・ガール日記」より。アメリカの労働者階級のおっさんが主人公の話が多い。帯の「ダメ人間たちの優しさや尊厳を笑いとともに描く傑作短編集」というコピーどおり。面白い。笑える。登場人物たちのダメさが時折切ないのもよい。アメリカの小説は伝統や歴史の重みがない分、個人が自己責任でアメリカンドリームを夢見てやらかしがちな気がする。言葉遣いが汚ねえのもいい。

6 『狂女たちの舞踏会』ヴィクトリア・マス(永田千奈訳)

【長編小説】早川書房、2021年

「患者の脱走を手伝うなんて、看護婦のくせに頭がおかしくなったんじゃないの?」
ジュヌヴィエーヴは腕をつかまれたまま、いっさい抵抗しようとはしなかった。四肢から力が抜ける。ほっとしたのだ。
「連れていけ」
病院に連れていかれる間も彼女は決してうつむかなかった。もう空に雲はなかった。礼拝堂のドームのうえ、濃紺の空には星が輝いていた。ジュヌヴィエーヴは穏やかに微笑んでいた。さきほどから彼女を監視していた若い看護婦が眉をひそめ、厳しい顔で問いただす。
「何で、笑っているのよ」
もはや患者扱いされるようになったジュヌヴィエーヴは応える。
「人間って面白いわね」

19世紀末パリの精神病院が舞台の小説ということで、フーコーの『狂気の歴史』で卒論を書いた私としては読まないわけにはいかない。患者と医師・看護師に明確な線引きなどあるわけもなく、主に服装で分けられているだけであること、パリ中でここ以上に最悪な場所はないと言われているような精神病院でもここから出たくない人もいること、マイノリティの中のマイノリティの声も拾いながらさまざまな角度から丁寧に書かれた面白い小説だった。人間って面白いわね。これがデビュー作とのこと。早く新作が読みたいこれからが楽しみな作家である。

7 『シブヤで目覚めて』アンナ・ツィマ(阿部賢一・須藤輝彦訳)

【長編小説】河出書房新社、2021年

あらすじ(引用)
こちら渋谷、こちら渋谷。
プラハ、聞こえますか?
プラハの大学で日本文学を専攻するヤナは、ゴスロリと忍者が闊歩する学部で謎の作家・川下清丸の小説にのめりこんでいる。そのとき渋谷では「分裂」した17歳のヤナが単語帳片手に幽霊となって街に閉じこめられていた。鍵を握る謎の作家の秘密とは?日本文学フリークたちの恋と冒険の行方とは。チェコ文学新人賞を総なめにした作家による、ふたつの街が重なりあう次世代ジャパネスク小説。

「で、クリーマはそういうのぜんぶ理解できてるの?」
「たぶんね」
「さすがじゃない?」
「まあね」私は肩をすくめて言う。クリスティーナはコーヒーをすする。「そのクリーマってやつのこと、何だかんだできっと好きになってくるよ」クリスティーナは笑う。
「バカなこと言わないで。好きになんかならない。たとえ目尻をあげるためにあいつが目の端と耳をテープで貼ってもね」
クリスティーナはしばらく私を見つめる。
「お願いだから、そういうの試したことあるなんて言わないでよ」
「ギムナジウムの時にやったことがある。ものすごく日本人になりたくて。でもうまくいかなかった」
クリスティーナは信じられないという顔で私を見つめる。
「あんたってほんと、どうしようもないわね。本物のバカ。ギムナジウムで毎朝、昨日より自分が日本人っぽくなってるって訊いてきた時もおかしいとは思ってたけど、テープはマジでやりすぎでしょ」
「誰にも言わないで! 誰かに知られたら、大学から追い出されて、精神病院送りになるから」
「だろうね。あんたは入院して当然だけど! でもほかの……よくできた同級生たちは何をしてるのやら」
「そのうちの一人は、自分のことをマンガの〈犬夜叉〉だって思ってる」
「そいつが例のクリーマじゃなければいいけど」クリスティーナはストローでテーブルに化学反応式を書きながら言った。
「違う。あいつは、生まれつきの化け物」

まず主人公が分裂していて実質2人いる。あらすじからも分かるようにいわゆるトンデモ本の一種であると思うのだが、これが面白い。絶対アイツだけはない!という相手と恋に落ちるのも、フィクションだとあるあるでしかないのだが、フリが効いていて面白い。一級のエンターテインメント小説だと思う。
外国人が書いた日本というのも、海外の日本語学科の様子というのも我々日本人にとっては珍しいもので非常に興味深い。梅雨明け前に夏休みが始まったりちょっと日本の実情とズレている部分があったりするのを見つけるのも楽しい。割と分厚いがガツガツ読めてしまう。

8 『中澤系歌集 uta0001.txt』

【歌集】皓星社、2018年

3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって

いや死だよぼくたちの手に渡されたものはたしかに癒しではなく

生体解剖されるだれもが手の中に小さなメスをもつ雑踏で

かすかなるもののまひるまゆるゆるとまわる扇風機のまんまえの

かみくだくこと解釈はゆっくりと唾液まみれにされていくんだ

難病により夭折した作者の再版歌集。上記引用は歌集冒頭の5首。非常によい。今まで読んだ歌集の中でも間違いなく片手に入ってくるくらいよい。好きだ。針のような光で一筋に刺される、そんな歌だと思った。

9 『鳥がぼくらは祈り、』島口大樹

【小説】講談社、2021年

「絶対の楽しさが正しいのは、それは今を生きた俺らだ」
山吉はそう叫ぶ。それは肉声だ。文字でも情報でもない、声帯が震えて波として飛び出る肉声だ。叫んだ瞬間にぼくは聞いている。群衆が聞く前にぼくは聞いている。そしてその後に群衆に届く。その声が届く。が彼らに意味は分からない。文法の破綻した叫びは、彼らの一部には乱酔した人間の出鱈目にしか聞こえない。彼らの一部には狂人の出まかせにしか聞こえない。
が、それもひとつの捉え方でしかないということに群衆は気づかない。いや気づかなくていい。気づく必要もない。吐き出されたその言葉はぼくに向けられた言葉であり、今の山吉、ふんどし姿で公衆の面前、それも銅像の上に立った今の山吉が伝えようと試みたことを切り取った断面でしかない。緊張からくる震えもあってかその断面は文法という模範的な切り方からは少し外れたものになったが、それがかえって言外を提示する。ぼくと山吉が何度も顔を合わせては別れ交わっては離れ、互いの人生が絡みあった五年間六年間、いやそれこそひとつの見方に過ぎず、特定の物差しでは測ることのできない長いとも短いとも言えないぼくと山吉の歴史が、その言葉を紐解く、再編する。

家庭に問題のある男子高校生4人の友情の話。と言ってしまえるかどうか。私は文法が破綻している文章に迸る激情が大好きなのだ。文法の破綻は言語を超え出ようとする叫びだから。一人称「ぼく」は語り手が変わっても「ぼく」のまま、視点が移動していく一人称内多元視点も珍しくて面白い。年明けに新しい単行本が出るようなので楽しみである。もう歳下からどんどん面白い作家が出てきている。

10 『偶然の聖地』宮内悠介

【小説】2019年、講談社

あらすじ(引用)
地図になく、検索でも見つからないイシュクト山。時空がかかった疾患により説明不能なバグが相次ぐ世界で、「偶然の聖地」を目指す理由わけありの4組の旅人たち。秋のあとに訪れる短い春「|旅春りょしゅん」、世界を|修復デバック|する「世界医」。国、ジェンダー、SNS――ボーダーなき時代に鬼才・宮内悠介が描く物語という旅。

見えるじゃないか、ほら。イシュクトとやらの問題が、あちらこちらに。
「しかし、こいつはかなり厄介だな……」
コードがあちこちで絡まり、干渉しあうような状況になっている。
あちらを直せばこちらが誤作動を起こすといった、典型的な”美しくない”コード。
いわゆる、スパゲッティ・コードというやつだ。上手いプログラマが書いたものであれば、デバックするのも一瞬だが、こうなると迂闊に手が出せない。
加えて、過去にデバックを試みて失敗した世界医のコメントが、あちらこちらに書き加えられている。ほとんどは、修正を試みたが思わぬ悪影響が出るため断念したというものだ。
いわば世界医の残した墓標。
これも、スパゲッティ・コードによくある特徴だと言える。

//ここを消すとなぜかインド亜大陸が消える  A・H・Z・カー

いきなりでかいのが来た。
この際だから細かな悪影響はすべて放置して、まず北緯三十五度問題のみを直す方針で臨んだのは確かだ。しかし、この影響によるインド十三億人の行く末を思うと胸が痛む。ましてや、理由が「なぜか」では彼らも浮かばれない。

//この箇所の修正は月を破壊する  チャーリー・パーカー

今度は月か。
月がなくなるといったいどうなる? たぶん、潮汐力とかがなくなるよな。すると潮汐発電とかが止まることになる。逆に、狼男とかにとっては朗報なのだろうか。
その前に破壊するとはどういうことか。爆発でもするのか。
ちょっと見てみたい気もするが、さすがに自重しないわけにはいかない。

本文中に注釈がたくさん入っている珍しい形態の小説。世界はバグでできており、大きなバグはあちらを直せば今度はこちらがバグるようにできている、という設定自体面白い。著者本に旅行とプログラミングの知識と経験があることがよく分かる。頭の中だけで拵えた物語でないことがこの物語に血肉を与えていると思う。

今年のベスト10は10作中3作が翻訳者・岸本佐知子さん関連の書籍だった。来年も継続して彼女の情報を追っていく。そうすれば間違いない。
今年もベスト10すべて新刊書店で手に入るよ。来年もよろしく。

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