2021年12月に読んだ本
2021年12月に読んだ本
去年の12月に読んだ本です。
1 レイモンド・カーヴァ―『頼むから静かにしてくれⅡ』
新宿紀伊国屋で購入。
初期の短編集。たしかに以前読んだ『大聖堂』より全体的に話がそっけなく、終わり方もぶつ切れ感がある。私もレイモンド・カーヴァ―のように、大掛かりな話よりは日常のしょうもない話をおかしみを交えて語りたい。
2 鳥飼茜『サターンリターン6』
西荻今野書店で購入。
サターンリターン、面白いねえ。イタい女がどんどん出てくる。男含めどいつもこいつもクズと言えばクズなのだが、誰にもそんなにムカつかないのはそれぞれが一人でいるときの時間が描かれているからか。シリアスな場面とコミカルな場面のバランスがだんだん巻数を重ねるごとにコミカルに傾いてきているのが珍しい気がする。大体こういう漫画って漫画に限らずどんどんシリアスになっていくのが常だから。次の巻が2022年夏頃とか遅い! 待てない!
3 稲川方人『アミとわたし』
荻窪・古書ワルツにあると日本の古本屋で見たので出向き店頭で購入。
中尾太一の第一詩集『数式に物語を代入しながら何も言わなくなったFに、捧げる詩集』に収録されている「夜明けのアーミン」という詩がとても好きなのだが、稲川方人の『アミとわたし』のオマージュだったりするのかな、少なくとも念頭くらいにはあるのではないかと思い探していた。アミとは少女の名前であり、ami、つまり友達である。私もこの星の系譜を継ぐ詩を書きたい。かなり昔から温めている詩で、草稿はある。
4 宮内悠介『偶然の聖地』
2021年の年間ベスト10にも選ばれたこの本は、岸本佐知子さんが紹介していたので読んだ。彼女は私の読書の道標である。外れない。新宿紀伊国屋で購入。
世界はバグでできている、かつ何がバグであるかを決めるのは人間である。というのは一つ真理だなと思う。発達障害だから自分はクズみたいなこと言う人がいるがそれはシンプルに嘘だと思うよ。人間なんてみんなバグだらけなのだから。だからこそ、何がバグかを仮想敵に決めさせてはならない。バグとバグが掛け合わさり奇跡的に抗いがたい魅力を放つ、そんなことも現実にはままある。
5 小林坩堝『小松川叙景』
――おれを歴史にしてくれるなよ
誰にも会わない為めに
誰にも発見されない為めに
風吹く野ざらしの密室
わたしたちはここに来たのではなかったか
愛に似た血まみれのさよなら
あらかじめ生き倒れているあした目掛けて
進む無数の足音に
おのが歩みを重ねながら
徹底的に孤立しろ
あとのまつりでひとり踊れ
手遅れであることを希望として
その身ひとつで
ただ踊れ
わたくしからわれわれを回復する為めに
「HOMEBODY」より
西荻は今野書店で購入。
なかなか好きだった。引用は冒頭の詩の末尾。この調子でもっと長い詩を書いてほしいなと思うが、この感じで長く書くのは予想以上に大変だということは私も知っている。
この本は装丁の面白い本でもある。ページの上と下、そして左が赤く血を塗りつけたかのように染まっている。そしてこの加工によるものだと思うのだが、開くときに若干引っ付いた紙がぺりぺりと音がする。ページを剥がして読み進めていく感覚が快感。思潮社から出ている第一詩集が再版されたという情報をTwitterで見たのでとりあえず書店で探してみようと思う。
6 稲川方人『君の時代の貴重な作家が死んだ朝に君が書いた幼い詩の復習』
悲歌を歌うことに
気後れしてはいけない
エレジーの星、星の国の悲歌を
君はノートに記して、
それが美しいと思い切るまでの永遠を
幾度となく捕捉する
書くことと消すこととの間に
君の月日の息吹きがあるから、
汚い言葉もきれいな言葉も
君の意志がうなずいた永遠なんだ
今まで読んだ稲川方人の詩集のなかでは明らかに一番良いし、今まで読んだ詩集トップ10にも食い込んでくるかもしれない。
一人称が「ぼく」でないと書けない詩。ぼくのノスタルジーとファンタジーのあいだで揺れる自意識がきみに向けて書く詩。
稲川方人のまだ読めていない詩集は引き続き集めたい。
7 根本敬『因果鉄道の旅』
雑誌で見た、角田光代の愛読書とのこと。角田光代もこんな本を読むのだね。
同作者の『人生解毒波止場』を読んでから『因果鉄道の旅』はずっと探していて、かつ、所有するにあたって文庫の方がよかろうということで、ずっと文庫の方を探していたのだが、やっと西荻窪のにわとり文庫で偶然発見。購入。
何ていうかクズしか出て来ない。特に「内田」の話は普通に市井の罪なき人(本当に真っ白かはともかく)の人生がぶっ壊されているのでううぇあーと思うのだが、そんなえぐみを上回る面白さはある。ほんと中途半端なクズや出来損ないはこれを読んで「ほんまもん」を垣間見るとよいよ。中途半端が一番おもんないし罪。
以下に一つ本文を引用をしておこう。根本敬が何だかんだいって常識人、つまり「あっち」側の人間ではないからこそ、このルポルタージュが作品として、読むに堪えうるものとして、成り立っているのだと思う。
今、世間には超能力者とか霊能力者とかチャネラーとかいった人達がいっぱいいて、まあそういう事を云う以上は100%否定はできないと思うんですよね。でも本当は例えば、確信犯かどうかは別にして、10%しか能力がない場合は90%尾ひれをつけたり大袈裟な事を云って、欠落している部分をとりつくろう傾向があるんですよね。だから、それは正直に云ってくれりゃあいいんだよ。俺は本当は時々ひらめいて、そういう超常的な力が働いたりするんだけれど、普段は全然そういう力は働かないってことをね。そういう事を正直に云ってる人っていうのは俺はなんか信用出来るんだよね。さっき病院に入院してて、同僚が見舞いに来た幻影を見た娘、その娘が云うのはやっぱりほんとだと思う。それはやっぱり信じられるわけ。世の超能力者も霊能者もそういう事を云えばいいのに、それが商売になっちゃうとやっぱりそうは云えないわけ。そこが問題なんだよ。要するに欠落している部分を、嘘や妄想でふくらましたり、詭弁でかわしたり。
とにかくそういう人間がすり寄ってきたり、祟りとか霊的な現象に悩まされた時に、それに打ち勝つにはどうすればいいかっていったら、やっぱり最終的には超能力でも霊能力でもなくて、常識が勝つと思うんですけどね。大方は。
だから常識ですよ一番強いのは。サバヒゲのいう、シャリホーツが朝散歩に行った後に出てきた原因不明のアザ、お母さんの形のアザが出て来たっていうけどね。あれだって必ずしも原因不明じゃなくて、常識レベルで考えれば、あれはやっぱり蚊とか虫に食われたんだって。しかし、超能力レベルで考えるとまた別の次元の話になって分かんなくなっちゃう。そりゃ、そのレベルでもしかして本当は正しいのかも知れないよ。でも、常識レベルで考えれば、お地蔵さん拝むより、ムヒやキンカンを塗った方が治るんだよ。
だから、最後に頼れるのは超能力じゃなくて、常識ですよ。
まあ私も精神科に入院する前、友達が今日映画に私を誘ってくれる、かつそのタイトルも予知し、先回りして誘った、ということがあったりしたが、そのときはたしかに分かっていた。見えていた。しかし、そんなことが分かって何になるのだろう。ナジャが予知したことだって数秒後に向かいの建物の電気が消えるということ、それだけ。だから何? って感じだ。精神の安定を犠牲にしても分かることは基本そんなもんなのだ。予知などしなくても数秒後、もしくは数分後に知覚される情報を予知する必要などそれが地震でもない限りはっきり言ってない。最初は多少エキサイティングかもしれないが、もっとエキサイティングなことがこの世にはたくさんある。しかし根本敬に「結局最後に勝つのは常識だ」と言われると重みがあるな。デカルトと同じ答えを導き出しているところも侮れない。
8 乗代雄介『皆のあらばしり』
大好き! 乗代雄介氏の新刊! その日渋谷に用があったので渋谷の紀伊國屋で購入。いつの間にか1階にあった紀伊国屋が7階まで押しやられていて切なかった。渋谷駅直通で地下2フロアあったブックファーストが潰れて今やヴィレヴァンだし紀伊国屋も7階に追いやられて縮小して、もう渋谷のまともな本屋は東急の上の丸善ジュンク堂くらいだろう。デカい新刊書店がどんどんなくなってきている現状にはかなり危機感を持っている。おそろしい。
氏の小説では、博覧強記だがその知を見せびらかさない年長の読書家が年少の読書家を知へと導くというキャラクター設定とストーリーが何度も何度も形を変えて繰り返し描かれている。今回の小説もその例に漏れない。しかしそれでもまったく別の作品として成立しているのは、氏が舞台となる場所を実際に訪れ血肉の乗った経験として叙事的にことを描こうとたゆまぬ努力をしているからなのだろう。前作『旅する練習』同様下調べの量がえぐい、脱帽せざるを得ない。胡散臭い饒舌な関西弁は過去作『本物の読書家』を彷彿とさせる。しかしそれでもこれほどほとんど同じテーマの小説を何度も何度も書く小説家というのは稀だと思う。でも結局、書くということ、そして何より書き続けていくということは、もうすでに書いた言いたいことをより適切な形にリライトし続けていくこと、その繰り返しなのかもしれないと、私は最近自分で書きながらそう思っている。
「この世はな、知らんことには、自分が知らんという理由だけで興味を持たれへん、それを開き直るような間抜けで埋め尽くされとんねん。せやから、自分の知っとる過去しか知らずに死んでいきよる。八十でくたばる時に考えるんは八十年間のこと、つまり頭からケツまで己のことや。己のことを考えるから苦しむっちゅうことに気付かず、今に通用する身の振り方だけを考えて、それを賢いと合点して生きとんねん。情けない話やのー。青年が、そんな退屈な奴らを歯牙にもかけんと生きていけるよう、わしは願うばかりやで」
「書いたもんはすぐに読んでもらわなもったいないと思うんが大勢の世の中や。ひょろひょろ育った似たり寄ったりの軟弱な花が、自分を切り花にして見せ回って、誰にも貰われんと嘆きながら、いとも簡単に枯れて種も残さんのや。アホやのー。そんな態度で書かれとる時点であかんこともわからず、そんな態度を隠そうっちゅう頭もないわけや」
上記の意図のことは過去作でも書かれていたが、こんなに分かりやすく書いてくれたことは今までなかったように思う。知や学というものは一に時間のかかるものでコスパやタイパとは無縁のもの。時間をかけてその人に染み付いたものだからこそ知は仄かに香り、学は静かに囁く。こういう流行りすたりとは関係ないところに矜持を持って書いている同時代の書き手がいることはとても喜ばしい。乗代雄介は信頼できる書き手だと思う。
9 千葉雅也・二村ヒトシ・柴田英里『欲望会議 性とポリコレの哲学』
文庫で出たので購入。渋谷の紀伊國屋。
おそらくマイノリティのなかでもマイノリティにあたる考え方なんだと思うが私は基本的に同意できる。現代の主体性の問題は否定なき肯定であり、否定性を何らかの形で肯定する必要がある、とか、傷つきから回復するためには自らが変わらなければならない、とか、同世代の周りの人に欠けてる視点だと思った。
橋本治は、外れクジを引いてしまった人間が、外れた部分を挽回することこそが人生なのだと書いています。これは「貧乏人に生まれても一発逆転を狙え」みたいな単純な話ではありません。金持ちに生まれたけれども人には理解してもらえないかたちで虐待されて育つことも、男に生まれても性的なことで傷ついて育つ人も少なくない。挽回するとは、なかったことにするとか見返してやるとか敵認定した相手を憎み続けることではなくて、傷を自分の傷として引き受けて、傷の意味を考えることだと思います。
(発言は二村ヒトシ)
自分が傷ついていることをそれとして認め、それと向き合うことは、まずその傷が瘡蓋くらいにはなっていないと難しい、つまり生傷のうちは厳しいし、とっくにケロイドとして寛解していても「そのとき」が来る前にはなかなか向き合えるものも向き合えなかったりする。けれどその一方で、「そのとき」が訪れないまま、なかったことにしたり敵認定した相手を憎み続けることで一生を終える人もいる。私は橋本治の言い方で言うならば、外れクジを挽回しようとすることで人生をちゃんと人生にしたいし、周りの人間にもそういう風に、私の言葉で言えば「まるで生きているみたいに生きて」ほしいと思うのは強欲だろうか。
10 奥間埜乃『黯らかな静寂、すべて一滴の光』
第二詩集。新宿紀伊国屋で購入。
第一詩集より若干読みやすくなったなと思った。これは善し悪しの問題ではない。ひとつひとつのことばを丁寧に時間をかけて推敲し、選びに選び抜いてことばが慎重に、しかるべき場所に配置されている、という印象。前作の続編のよう。これを機会にまた第一詩集も読み直した。
さざめき
鼓膜の微震
届くのはただ、闇のしずけさ、その気配
11 乗代雄介『掠れうる星たちの実験』
新宿紀伊国屋で購入。
今月は乗代雄介の新刊が2冊出た。『ミック・エイヴォリーのアンダーパンツ』に続き国書刊行会から2冊目の本。今回は書評と短編が収められている。氏は短編だと割とはっちゃけた、木下古栗を連想するようなナンセンスなものも書くので、それもまた長編とは違い面白い。
この本は装丁を山本浩貴+h(いぬのせなか座)が担当しており、非常に美しい。が、基本的には氏のファンが読めばいい本だと思う。しかしもう一度言うが本当に装丁が美しい。私もいつかこんな装丁の本を出したい。いぬのせなか座に装丁をやってもらいたい。いいなー。
12 奥間埜乃『さよなら、ほう、アウルわたしの水』
第二詩集が出たタイミングなので第一詩集も読み返した。
やはり非常にいい詩集だと思う。このどもりのような、書き言葉の吃音的表現が、常識的な読みの流れを遮ることで生まれる独特のリズム。音楽と闘う詩のダイナリズムのようなものが、静かに、しかし力強く、詩集全体を通底している。なかなか難しい詩集なのだが読んでみてほしい。硬派な詩集である。
詩集で冊数を稼いだがあまりたくさんは読めなかった12月だった。2022年は読むから書くに重心をシフトしていきたいとは思っているが、ある程度の読書量は確保し続けたいと思っている、ので、2022年もぜひ、この読書月報をご高覧いただければ幸いである。
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