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眞藤さん、明治のジャーナリズム創世記ってどうだったんですか?

この回、そもそもは別のことを書こうと考えていました。
よく考えたらいままで何やってきたかとか、ほとんど書いていませんでした。
マーケとブランディングの事業を「開業しました」とか「マーケティングって何ですか」とか書いている、その眞藤というのはいったい何者なのか。
自己紹介を「アレオレ詐欺」にならない程度に書いておこうと。

ですが、対応すべき事案が持ち上がりました。

2022年9月27日に故・安倍首相の国葬が行われました。
この日まで国葬への反対報道が凄まじく、報道を信じた人々が「国葬反対」の気持ちに傾いていくという社会情勢がありました。

さまざまな調査データをもとにプランニングする機会が多い僕のような職種の者は、新聞社の「世論調査」の記事の後ろにちょこっと書いてある「このようにして調査しました」を見るだけで、調査設計自体が偏向を招くよう企図されていることを読み取るのですが、一般の人々はそこまで見ないもの。

そこでFacebookに文字だらけのコメントをアップしたわけです。

僭越ながら、思ったわけです。

すると、先日「友達」になったばかりの高校生の方からさっそくコメント欄に質問が参りました。

真面目な質問です。

これにはきちんと答えないといけないですよね。
このコメントを見た日は「話すと長くなるから改めて答えますね」とコメント入れました。
そしてこの原稿を急遽書いてアップすることにしたわけです。


明治のジャーナリズム創世記って、どうだったのか。
前回の「マーケティングって何なんですか?」と同じくらい大きな、大雑把な質問です。
しかし高校生のキラキラした瞳にはきちんと返さないとです。


まずは僕が住む熊本県のことから話を始めます。
ジャーナリズムと熊本?と不思議に思われるかもしれませんが、まあ聞いてください。

熊本県の人口は現在1,738,301人です。(令和2年度国勢調査より)
ウィキペディア「熊本県の有名人」欄には「ジャーナリスト」という項目があり、明治から現在まで中央で活躍したと思われるジャーナリストが20名、挙がっています。

近い規模の県の有名人欄を見てみましょう。
岡山県  人口=1,846,068人 ジャーナリストという項目自体なし
福島県  人口=1,833,152人 ジャーナリスト:4名
三重県  人口=1,770,254人 ジャーナリストという項目自体なし
鹿児島県 人口=1,588,256人 ジャーナリスト:7名

同規模の都道府県の中で熊本が突出していることがわかります。
鹿児島県の7名も多いのですが、挙げられているのは比較的現代の方。明治期のジャーナリストは見えません。
ウィキペディアの熊本のジャーナリストには池辺三山、鳥居素川、徳富蘇峰など明治期にジャーナリストとして活躍した人が入っています。

もちろんウィキペディアは素人が項目ごとに書いていくもので、書いている人はバラバラですから正確な統計的数字ではありません。
しかし特徴は出ていますね。


僕は熊本が明治期から多くのジャーナリストを輩出した理由として2つ、考えています。

ひとつは西南戦争という事件を体験したこと。
もうひとつは第五高等学校があったこと。

その2つについて、実例を挙げながら書いていきます。


西南戦争に先立つ明治維新は、それまでの封建国家から近代国民国家へ政権を力ずくで居抜き的に入れ換えした「革命」でした。
少し詳しくいうと、君主をサポートする「軍事的統治権力体制」として機能していた幕藩体制を、下級武士中心の勢力が「寂れていた権威的君主」を担ぎひっくり返したという革命です。

すでに江戸期末期の幕府は開国・近代国家建設への舵を切っていたので、実は倒幕派とそんなに違う政策を志向していたのではありません。僕としては倒幕派の「オレにやらせろ」という力と時の運が、倒幕派を勝たせたという感じで捉えています。

いずれにせよ当時の武士の人々は結構勉強していて、アヘン戦争の様子、さらにクリミア戦争の様子まで見て、幕藩体制による従来型の統治ではダメだと考えたわけです。

アヘン戦争の様子は学校でも習うのでわかりやすいと思います。
戦争自体は1840年に始まり1842年の南京条約で幕を閉じました。
東洋の眠れる獅子といわれた中国(清)が、貿易の不均衡、内部組織の腐敗、近代兵器の威力によって、経済戦争と実際の会戦で大敗退し、戦後処理の中で大変な不平等条約を結ぶことになって国家衰退につながっていく流れです。
西洋近代国家の力の論理をモロに見せられた中国、そしてそれを少し離れているところから「明日は我が身」として見ている日本の多くの士族の皆さん。

クリミア戦争は1853年から1856年にわたってクリミア半島で行われた戦争です。
早々に「国民国家」を樹立したフランスとイギリスと改革を急ぐオスマン帝国を中心とした同盟軍と、帝政ロシアとの戦い。
経緯はウィキペディアやいろんな書物でおさえてください。
結論から言えば近代国家化を果たした、あるいは志向している同盟軍側の勝利となり、封建制の帝政ロシアはその後進性を露わにして大敗しました。

例えば、この戦争の様子を極東の熊本の街の端っこでしっかりと把握していたのが明治5年まで明治政府に奉職した横井小楠です。
いま僕らもウクライナとロシアの戦争を固唾を飲んで見ていますが、そういうことです。

なお、ここで勝利側となった近代国民国家フランスは数年後のプロシア戦争(フランス対プロシア≒ドイツ)で敗退し、日本が立憲君主制民主主義の見本としてドイツを見習うことにつながります。いま熊本の街を走る路面電車「ハイデルベルク号」の遠因が、これです。

ウィキペディア「熊本市交通局9200形電車」より

そういう、ひたひたとやってくる時代の流れを海外事例から捉え、倒幕派も佐幕派(幕府温存側)も立憲君主制民主主義の近代国民国家を(とりあえず)目指しました。

そして明治維新がやってきました。

さあ、明治元年初日(1868年12月25日)、「今日から御一新だ!」…
というふうに、とつぜん私たちの国が近代国民国家になったわけではありません。

12月25日、たとえば熊本の町では昨日と同じ、昨年の師走と同じ空気の中で日々が過ぎていくわけです。
みんな気づかないうちに変わった国家体制。
封建的幕藩体制から立憲君主制国民国家へ。

でも。
そもそも「国民」とは何でしょう。

それは幕藩体制という封建制との違いを見るとよくわかります。
日本に限らないのですが、封建制下の社会は「政治行政を行うもの」と「庶民」の間に明確な断裂があります。

逆に言えば、お上(おかみ)として上に誰が来ようと、庶民には庶民の暮らしがあるという社会。庶民は政治行政にはタッチしない、そんな社会です。
このあたりの事情は熊本在住の歴史家の渡辺京二さんが書かれた『近代の呪い』(平凡社新書)を読むとよくわかります。

熊大で行われた講演採録集。文章が口語体なので実に読みやすいです。

ほんと、大学時代「近代の超克」という言葉に悩まされた僕が早くこの本に出会いたかったと思うくらい、わかりやいのでオススメです。


維新で何が御一新されたのか。
地域的な経済発展を企画するのも、軍事的な地域の独立を維持するのも、社会の運営をしっかり進めるのも全て王様とか将軍とか殿様とその周りの人々がやる社会が封建社会で、庶民は「領民」としてそれらの義務から解放されて暮らす。
それが江戸期までの日本社会でした。
ですが、この「領民」を「国民」へ変身させることで、経済、独立を維持する活動、政治行政諸々もみんなでやっていこうというのが国民国家です。

それまで日本では読み書き算盤までは寺子屋で多くの人がやっていて文盲率が非常に低く海外からも称賛されるほどでした。
そんな生活の知恵はありますが、政治行政のための知識がないのが領民です。政治倫理、行政倫理とかも全く知りません。
それらについては藩校という、いわゆるビジネススクールが担当し士族が学んでいました。

例えば漢文という素養があります。
藩校では朱子学などを中心に学びますが、ここで漢文は公用文書用語として使われます。
漢文書き下し文といえば、奈良期後半から昭和前期まで続いた日本の政治行政の公用文書用語です。

行政や政治は不公平があるとうまくいきません。
ですから同時代性の「横」、同分野性の「縦」の時間軸で、判断の公平性・整合性を取る必要があります。
前例主義、事例主義は公平性のためには重要なのです。
そこで、江戸期のみならずこれまでどのような評定を行ったのか、政策を行ったのかを過去文書を引いて調べる必要があるのです。
ここで生きるのが奈良期以降の「共通公用語」である漢文書き下し文です。
漢文書き下し文は奈良期に若い僧侶がカンニングスキルとして発明したという話がありますが、一方で1000年以上も同じ文章がリアルな共通語として流通したのは他国に類例を見ません。
ちなみに、現在の高等学校の国語分野で「漢文」の習得を求められるのも同じ理由です。

そのような教養を持った下級士族が、つまり政治行政のスキルをビジネススクールで修めた若手が中心になって、できたばかりの明治政府、まあ、大久保利通がブリブリ回していた政府に「別のやり方があるんじゃないか?それを訊き質しにいく」と立ち上がったのが西南戦争です。
鹿児島(一部宮崎まで)の若者が立ち上がったのは西郷隆盛を担がなくてはという男気も多分にあったように思います。
熊本で立ち上がった若者たちはその意義について侃侃諤諤議論を重ねました。
肥後の議論好きを絵に描いたような状況ですが、それだけ決起するには理由が必要だったということです。
熊本で薩軍に参加した者は、主に旧藩校・時習館の学校党(熊本隊)と実学党(協同隊)の有志で構成されました。

ですが結果は薩軍大敗退。
熊本隊も参謀以上は処刑され、惨憺たる有様で熊本へ帰ってきます。

有志の彼らとは別の人たちもいます。熊本の大多数の旧士族は西郷軍に合流しませんでした。
旧藩の幕末の公式な情勢判断は「公武合体」であり、幕府支持で穏健派でした。だから新政府については興味がなかったか、あるいは新政府仕官の道を探るかのいずれかだったのでしょう。

さてと。
ここまでが西南戦争の説明です。
一つ目の理由の本論はここからです。

西南戦争の戦場で書き綴られた日記を読みました。
佐々友房の『戦袍日記』です。
明治維新から、領民を国民にするぞと国が始まって10年目。

彼が参加していた熊本隊は田原坂(吉次峠)で負け、熊本城東会戦で負け、人吉や宮崎を敗走するなかで現地の人と接触します。
そのシーンで著者は現地の人を「土人」と記しています。
当時の土人ということばには侮蔑的な意味はありません。
土着の人、という意味です。

ですが農民、猟師、女子、子供などの書き方ではなく「土民」という表現。そこには自分達とは関係のない人という意味が含まれます。

もし、同じ国民というイメージを持っていたならば単に「民」と書いたでしょう。

佐々友房著『戦袍日記』 青潮社刊

士族として立ち上がった佐々友房の中には、このとき「国民」という語彙イメージはあったかもしれませんが、実態として「同胞としての国民」の認識はありませんでした。
彼が見た人吉や宮崎の人は「他国(藩)の領民」のままだったのでしょう。
だから「土民」と記すしかなかった。

しかしそのような彼らは「国民=平民」で構成された近代的軍隊にコテンパンにやられてしまうわけです。
明治政府は電報通信を駆使してロジスティクスを展開し、薩軍人に対して体力に劣る「国民=平民」による官軍人に武器を絶えず供給し、援軍を送り続けて薩軍を最終的に鹿児島の城山に押し込めます。
「封建主義に準拠した社会意識と行動」の完全なる敗退です。


熊本には西南戦争が来て、初めて明治の御一新が始まったという話があります。実際にそれまで口ばかりでブイブイ言っていた下級士族団が大きく変わりました。

領民を、国民にする。

そのような意識に目覚めて、西欧列強の横暴に負けない国にするために経済、社会政治、そして独立を守るための軍事などを応援する側に従事する人が増えていきます。

まず教育を充実させることが必須ということに考え至った人がいます。
先述の佐々友房です。
西南戦争後に設立された官営の旧熊本中学がスノッブな学風で、貧乏人(≒平民)が行けないようなものであったのに異を唱え、学費なし・分け隔てなく学ぶという私立中学校を作りました。

その初期の学生の中から、大阪朝日新聞のジャーナリズムの基礎を作った鳥居素川が出ました。

また佐々を育てた、西南戦争の熊本隊の隊長だった池辺吉十郎の息子である池辺三山もまた朝日新聞ジャーナリズムの基盤を作り上げた人間です。
池辺三山は父・池辺吉十郎が西南戦争後に長崎で処刑され大きな挫折を味わった人ですが、その悲劇を糧として、鳥居素川と同様に近代国民国家としてこの国の領民を国民にするためにどのような啓発や情報の提供をするべきかという意識に燃えた人だったと考えています。


一方、当時佐々友房が作った私立の学校と対抗していた学校がありました。
その有力なものの一つが大江義塾です。
大江義塾は徳富蘇峰が中心となった私塾。
横井小楠の実学派を継いでいます。
蘇峰は早々に熊本から東京へ進出し、ジャーナリストとして名を上げていきます。
彼もまた西南戦争によって目を開かれた一人であったと思います。

また明治中後期から日本の海外進出に従って、京城日報社(朝鮮)、天津日報社(中国・天津)など日本租界等に居る現地日本人向けの新聞社が多く設立されましたが、それらの主筆やジャーナリスト、経営者に熊本出身者が多く進出していきました。


そんななか、明治期の西南戦争によって目を開かされたジャーナリストに光永星郎(みつながほしお)がいます。
宮原村、いまの氷川町の出身ですから秋山幸二選手と同郷ですね。
後年の彼への評価は実業家としての成功者というものなのですが、まず彼はフリージャーナリストとして活躍します。
朝鮮半島などの海外の取材活動による彼の送信記事は日本の新聞にいくつも掲載されました。

一方で彼は日本の新聞記事のレベルの低さを嘆いていました。
当時の新聞の多くは政党の機関紙です。
政治向きのことを書くときは威勢がいいのですが、毎号そんな記事で埋められるはずもなく、どうでもいいような記事(普通そんな記事をゴシップと言います)で埋めるのです。

これは少し古い明治10年の新聞。熊本県南の日奈久に鍋を抱えて駆け落ちしたとかを報じる新聞。ちなみに私の高祖父である上田休が西南戦争後に処刑されたという記事が右上にチラリと。   熊本新聞 明治10年10月2日(火)第2面より抜粋

つまらないですよね。
そんな新聞だから広告枠も埋まらず新聞社の経営が傾く。
すると記者への執筆料が払えなくて、更に紙面がつまらなくなる。

本来なら海外通信社の記事を入れて、民衆がそれまであまり知らなかった海外情勢や社会のあり方を知り、領民的意識から国民としての意識へ変わっていく、そんな紙面にならないといけないわけです。

彼はそう考えて通信社を創ろうとします。
しかし出資者が渋る。
そこでまず広告会社を創り、地方紙の広告枠を買い上げて、そこに広告を入れる傍らで、地方紙に有料の海外記事・国内記事を送信するビジネスを始めます。
これにより、全国の多くの地域へ民衆が社会情勢を把握するために必要な新聞記事が行き渡るようになりました。

当時、同様の通信社は国内にいくつかありました。
その通信社も新聞社同様、政党に近いものが多く、配信記事は政治思想的に偏ったものが多かったといいます。
光永の通信社が優れていたのは、同じ記事でも複数の立場からの記事を送信したこと。
つまり新聞社の独自性を活かして最終的に地域に必要な情報が行き届くように配慮したということです。

そもそも地方新聞社は基本的にそれほど儲かる事業ではありません。だから彼は配信する記事の代金よりも購入する広告枠の代金が必ず多くなるように配慮していました。

これらの話は多くの地方紙の過去記録を探せばどこでも出てくるのではないでしょうか。
僕は熊本日日新聞社創成期のことを綴った伊豆富人氏(熊日初代社長)の『新聞人生』(熊本日日新聞社刊)などで読みました。

伊豆富人著『新聞人生』(熊本日日新聞社刊)

光永が西南戦争の頃に過ごした宮原は、薩軍が行軍し、そのあと薩軍追討の官軍が攻め上がった地域です。10歳そこそこの光永には強烈な経験だったと思います。
また西南戦争で電報通信がロジスティクスのために活躍したことは光永の脳裏にその後強く残ることになり、後年の通信社設立につながるわけです。

彼は新聞社の海外特派員などジャーナリストとしても業績を残しましたが、そのあと広告人として世間の大きな評価を得るに至ります。ですが、本来は近代国民を育てるジャーナリズムを日本全地方に根付かせる事業を行ったと評価されるべきです。


忘れるところでした。
熊本出身のジャーナリストが多い理由。
西南戦争と、もうひとつの要素が「第五高等学校」があったこと。

これはもう、教育のレベルが高くてそれなりの人を輩出したという話です。

のちに政治評論家となって日曜の朝のテレビを賑わせた細川隆元さんは(僕より古い人々には)有名です。
また僕がお会いした経験があるところでは、内田健三さん。
共同通信社時代から政治ジャーナリズムを担い、会社卒業後は法政大学の政治学の教授などをされておりました。

また大阪毎日新聞編集主幹の平川清風さん、大阪朝日新聞主筆の高原操さん、朝日新聞社代表取締役にもなった増田豊彦さん、さらに地方紙や創世記のテレビ局など五高出身者のジャーナリストは枚挙にいとまがありません。


最後に。
熊本人は相互扶助が非常に厚いと聞いたことがあります。
もちろん古い人たちの話ですがいまでも一部に残っているかもしれません。

ジャーナリズムで熊本人の相互扶助といえば。
徳富蘇峰さんの『近世日本国民史』にまつわるエピソードがあります。
『近世日本国民史』は全100巻の膨大な歴史書です。

蘇峰さんは途中、太平洋戦争で一時筆を折り、戦後書き始めたものの戦前毎巻を発行していた明治書院はGHQの検閲を恐れて出版断念。その後平凡社が手を挙げるも社内事情が許さず手を下ろし、どうしようもありません。

蘇峰氏は書き終えたのち、未刊の24巻の原稿を抱いて1957(昭和32)年11月2日に亡くなります。

この状況を見るに見かねたのが第五高等学校出身の新聞人、熊本日日新聞社長(当時)の小崎邦彌氏。
彼が相談したのが、先述の光永星郎に育てられ当時広告会社で気を吐いていた吉田秀雄氏(吉田氏は小倉出身)。

紆余曲折はありましたが、小崎氏がいくつもの出版社に打診して時事通信社に可能性を見出したこと、また吉田氏とともに信用保障し契約に名を連ねることと、蘇峰氏の嫡孫敬太郎氏が徳富家側の意見を取りまとめることに奔走したことで、ついに契約に至ります。

その契約が行われたのは銀座7丁目。外堀通りと交詢社通りが交わる交差点の角にあるタイルが美しい広告会社のビルの5階。時は1960(昭和35)年1月25日お昼の12時半。
応接室で岩崎邦彌氏、出版する時事通信社の長谷川会長、そして徳富敬太郎氏、三者立会のもとで契約が交わされました。
もう一人の署名者・吉田氏は事前に署名、所用があり出席できませんでした。
そうして織田信長時代から書き起こされた徳富蘇峰翁の『近世日本国民史』全100巻が完成することになったのです。

小崎邦彌著『沖縄に思う』日本談義社 昭和37年5月20日発行
銀座7丁目の美しい広告会社のビル

このビルが近々壊されることになりました。

またひとつ歴史の痕跡が、ジャーナリズム魂を守ろうとした男たちの魂の痕跡が消えていきます。
ですがこういう明治のジャーナリズムがあったということを、いい機会ですから簡単に書き記してみました。
きっかけを作ってくれた高校生の君、どうもありがとう。

最後までお目通しいただきました皆さまも、長文お読みいただきありがとうございました。

もし、もしもですよ、もしも記事に投げ銭いただける場合は、若い後進の方々のために使わせていただきますね。