見出し画像

『広告屋こそ、ジャーナリスティックであれ』

その集まりを紹介してくれたのはテレビ局記者職志望の鈴木くんだった。

渡されたメモに記された時間に早稲田のアバコホールのドアを開ける。
うっすらと開けただけなのに熱気が僕にバーンとぶつかってきた。

暑いわけじゃない。
ずらりと並んで座っている学生の熱気だ。
20mほど奥行きがあるホールの中には、マスコミ、とりわけジャーナリストを志望する学生がぎっしりと座っていた。

促されるままに端っこに座る。
しばらくすると薄い髪を油でなでつけた、小柄なのにやたらエネルギッシュな50代に見える紺色三揃スーツの男性が壇上に立った。
それが山﨑宗次さんとの出会い。
1987年春のことだった。


その少し前、僕は紹介してくれる人があって株式会社共同通信社の浜田寛さんに就職のための作文を教わることになった。
その浜田さんのもとで一緒に教わることになったのが鈴木くん。
彼は早稲田大学。
いかにも早稲田的で、豪放な感じなのに緻密なところも持ち合わせる不思議な男。
池袋の小ぶりな大学で過ごしていたせいか、何にしても自分が小さくまとまっていることを彼と話すたびに僕は自覚させられた。


浜田さんのもとに通って作文の書き方を教わる。
最初、僕の作文はボロクソ。
就職のための作文など一度も書いたことがなかったから当たり前なのだが、気づいていなかった青臭い自尊心のくだらなさが添削を受けるたびに突きつけられる。

辛い。

そのぶん、浜田さんから示された作文のルールを真っ直ぐ飲み込み、なんとか自分のものにしようともがく毎日。
呻吟しながら、次の、また次の作文を書き続ける。


3回目か4回目のとき、浜田さんから「これはいいぞ?」という言葉がでた。
その作文は高校生時代に甲子園へ応援に行ったことを書いたもの。
切り口も構成もまずまずだったのだが、もちろん浜田さんの目にはまだ不十分だった。
用語の間違いを直し構成を一部変えて浜田さんがリライトした作文は、その年の夏に行われた通信社の大学生向けマスコミ就職セミナーでお手本作文として紹介された。

向田邦子さんのエッセイ集は至高の文章集であると浜田さんは常々言われていた

褒められたことで浅はかにも得意ヅラしていた僕を、鈴木くんは「こいつこのままだとダメになる」と思ったのだろう。
浜田さんの最後の作文教室のとき、彼は僕を早稲田で開かれていた山﨑塾に誘ってくれた。


初めて見た山﨑宗次さん。
熱気に満ちた学生を前にアバコホールの壇上で滔々と話し続けている。
遠目に見ながら僕は「半魚人に似てるなー」などと思っていた。
罰当たりもんである。
前に鈴木くんが山﨑塾の話をしたとき「山﨑さんはものすごい人なのだ」と何度も言っていた。だが遠目で見るだけではよくわからない。

1958年から1966年まで放送されたNHKドラマ『事件記者』にヤマさんという記者が登場する。
その記者のモデルになったのが山﨑さんだという。
毎日新聞の社会部にあって何人ものスター記者を育てた人だともいう。
塾にとんでもない人を連れてきて学生に普段聞けない話を聞かせてくれることもよくあるらしかった。


その山﨑さんが就職作文を書く学生のために書き下ろした本がある。
『カンカラ作文術』(光文社ブックス刊)。
「カンカラコモデケア」という呪文のようなヤツが、就職作文を書くキモである。
そういう内容だ。
その「カンカラコモデケア」が凄いんだよ、山﨑塾に誘う鈴木くんは力説していた。
「ただし、口は悪い」そうも付け加えた。


就職作文のための本。ただしこの技を極めると人生の色々なところに役にたつ。指標になる。

誘われるままにアバコホールのドアを開けたその春、僕はジャーナリスト志望だった。
社会正義に燃えていたわけではない。
僕にとってのジャーナリズムは、ふだんの暮らしの中にあった。


小学生のころの記憶。
父の帰宅はいつも僕が寝た後だった。
たまに夕食を一緒に食べることができたときは、タバコを燻らせながらビールと米焼酎を飲み、母が作った鳥肝と玉ねぎの炒め物を摘んでいる。

そんなときに「あのニュースはどういうことなの?」と尋ねると「あれはこうだよ」と教えてくれる、それが僕にとってのジャーナリズムに浸る時間。

あるとき青年による子殺しがニュースになったことがあった。
手口が残忍だった。
ニュースは「このような子供を対象とした残忍な殺人が増えている」と伝えていた。

ふと、「増えてるの?」と尋ねてみた。
すると「昔からある。増えちゃおらん」と返ってくる。
加えて「昔は社会への影響を考えて出さないという判断を、報道する側も考えていた」と重ねて言葉がやってきた。

子殺しの話題はニュースからワイドショーへと広がり、世間の憎悪が犯人に向けられ、さらに風体の怪しい若者(大抵の若者はそうなんだが)を忌避する雰囲気が街のあちこちで見られるようになった。
視聴率獲得競争とエキセントリシティーが報道をショー化し、不安と不満の大量消費が始まっていた。


田中角栄内閣時代、日中国交正常化(それまでの中華民国〔台湾〕との国交をやめ、中華人民共和国を「中国」本体として認め国交を回復したこと)の際に「台湾と国交を持続すべき」と論説を出した新聞が全国に二紙だけあった。
河北新報と地元の地方紙だ。

その地元紙の論説を書いたのが、父である。
国民党政権の中華民国(台湾)に肩入れしていたわけではない。
彼は中国大陸からの復員の途中、物資を管理する主計少尉として相当な苦労をした。
当時を記した手記によれば、武装解除した無抵抗の隊にやってきて狼藉を働き物品を奪っていくのは国民党軍が多かったという。
共産軍はむしろ統率が取れていた。
理想に燃えている軍隊はそういうものだと父は語っていた。
いま思えば共産中国に肩入れしてもおかしくない経験だったと思う。
情や利で考えればそうなる。

だが。
理と義で考えれば日中国交「正常化」の相手が共産中国のはずはなかった。
日本が太平洋戦争で敗れたのはあくまでも国民党の中国だったからだ。
国共合作があったとはいえ主は国民党中国であった。

戦後日本には共産主義への拒否感はあったが、経済発展するうちに共産中国は資本主義化するという楽観論が当時の社会に蔓延していった。
決め手は「経済交流」という切り札だった。
理と義で中華民国との国交を継続するか、情と欲とで中華人民共和国をとるか。
この件については社内で殴り合いの対立も起きたと聞いている。
社内や国内だけではない。
世界中が中華人民共和国推しだったのだから、それはそれでそれぞれの新聞社の選択ではあった。

そういえば地元紙と河北新報は今でもなぜか仲がいい。このことが理由ではあるまいが。


そんな父との会話によって、我が家においてジャーナリズムとは「情やエキセントリシティーによって部数や視聴率を稼ぐよりも、自ら社会を読み取り、理と義によって視座を固め人々を良導する」ものという意識が知らず根付いていった。


山﨑さんも父も同じように編集局(記者)から広告局(業務局・営業)への社内異動を経験した人だ。
僕が出会った当時の山崎さんは52歳、父は60代半ばで歳の差はあったし、どうみてもタイプが違ったが少し同じ匂いを感じていた。

そんな山﨑さんとの出会いから3、4ヶ月たった夏。
山﨑さんはゴルフ場で急逝された。
ちょうど山﨑塾の皆に内定が出始めたころだった。


本の見返しの写真。モノクロだから遺影っぽく見えたりもして、切ない。


僕はといえば、その年の就職活動はうまくいかず。
あいかわらず山﨑塾の先輩方による作文添削では毎回ボロクソに言われ。

卒業単位は3年生の時に全部取っていたにもかかわらず親に泣きつき大学に願いを出し、留年できることになった。

当時は「新卒」のラベルが有効な時代だった。



翌年。
思うところあってジャーナリスト志望をやめ広告会社志望で就職活動に臨んだ。山﨑塾には少し前から広告会社を目指す人が入る「アドリブ」という分科会ができていた。
こちらも作文指導の厳しさは変わらない。
だが空気が少し違っていた。


山﨑塾は記者職を目指すゆえのマッチョでピリピリした雰囲気。
BSフジで21時から始まる『プライムニュース』を仕切っている反町キャスターみたいな先輩方が指導するといえば雰囲気がわかってもらえるだろう。

対してアドリブは何となくしなやかな雰囲気。
早稲田のシーガルという貸しスペースで作文を中心とした指導が行われる。
講師としてやってくるのは主に広告会社や出版社、テレビ局で働いている先輩がた。
もちろん厳しさは山﨑塾と変わらない。

ここでは作文の表現のほか、頼るのは自分の身一つということと、先輩や仲間とともに困難を乗り越えることの大切さを教えていただいた。


そうして就職活動2年目でようやく第一志望の広告会社に採用となった。

以来、ずっと守っているスタンスがある。
それは山﨑宗次さんから聞いた言葉である。

「広告屋こそ、ジャーナリスティックであれ」。


亡くなる前に伺った言葉だから、僕がジャーナリストを目指していた頃の発言だ。
ふだんは「士農工商うんたらかんたら」という言葉をもじって「士農工商、犬猫サーファー代理店」とアドマンのことを口悪く言っていた山﨑さん。
だが。
「広告屋こそ、ジャーナリスティックであれ」と言う言葉は、僕とは関係ないと思って聞いていながらも、ズシンときた。


大学のころ同じクラブの先輩にジャーナリスト志望の人がいた。
彼は「ジャーナリズムは常に弱いものの味方なのだ」と力説していた。
そして「大企業や政府は悪なんだよ」とも言っていた。

「仮に弱いものが間違っていて政府が言うことが正しいときはどうするんですか?」と尋ねると、
「それでも弱いものの立場で報道するべきなのだ」と彼は語気荒く言っていた。

もちろんそんなものは間違っている。
その「立場」論は、戦前に戦争翼賛だった記者やメディアが、戦後に自分たちが常に正義側に立つ言い訳として身につけたものだ。


情やエキセントリシティーや欲は誰にもある。
けれどそれを冷静に見つめ、理と義を前提に考えてみる。

そうすると自分の中の情やエキセントリシティーや欲が行きすぎたものであることに気づくことがある。
自分の身の中の悪は、(程度はあるが)誰しもが持っている悪だ。
その悪を変えないことには世の中を良くしていくことはできない。
できなければ筆を折る。手を引く。

戦後の公害問題が喧しい地方ジャーナリズムの真っ只中にいた父や、戦前の軍部情報統制を対し筆を折った(主筆の地位を降りた)祖父の在り方から学んだのはそういうこと。


祖父・眞藤棄生が社主と主筆を務めていた日本人居留民向け日本語新聞『天津日報』。
軍部が情報統制を行うようになって、主筆の座を降りた。
「その後の私生活は褒められたモノではない」(by 今は亡き伯母たち)


広告のジャーナリズムとはどういうことだろうか。

新聞記者の人たちと話をすることが多いのだが、彼らは「広告業とジャーナリズムは対立軸」という話をしたがる。

だが。
ジャーナリズムはイズムなのだからジャーナル主義、技法、職能である。
職業を指す言葉ではない。
まして特定の思想に則った何かでもない。

広告業とジャーナリズムが対立軸だという新聞記者の人々は、自分が日本のジャーナリズムを背負っているという矜持があるからそのような言葉が出てくるのだと思うけれど、ズレている。


山﨑さんに僕がお会いしたのは彼の最晩年。
記者畑から営業畑に移ってからも、その身のうちにあるジャーナリズムを発揮されていた真っ最中だったのだと思う。
ジャーナリズムに記者職も営業職も関係ない。
もちろん広告業の営業職もプランナー職も、いやどんな職業であっても同じだ。


山﨑さんが亡くなった翌々年、僕は広告会社I&Sに入社。
新聞部でいくつかの新聞社を担当したのちマーケティング局にプランナーとして異動した。

当時その局では様々な企業や商品の販促企画、大型商業施設の開設の仕事のほか、ブランドに関するプランニングや得意企業の経営課題の解決などの業務があった。


なかでもブランドに関するしごとには悩まされた。
入社したての若モンである。
子どもの頃からブランド品などとは縁のない暮らしをしてきた。
日用のブランドは、わかる。
「ザブ」「ビーズ」「金鳥」「ツノダ自転車」ならわかる。

だが。

ちょっと高いもの、たとえばジャガーとかヴァンクリーフアンドアーペルとかになると「ええなあ」「欲しいなあ」くらいしかわからない。
場合によっては高すぎて欲しいとも思えない。

しばらく悩んでいたが、悩んでいるばかりでは先に進めない。
そこでブランドの成立要因と、それが維持されているポイントを抽出する作業をこっそりやってみた。

一覧したブランドは1500ほど。
そのうち観察に足る情報がある300を選んだ。
3ヶ月ほどかけて要素を抽出して整理。
そうして35年ほど前に作った「ブランド成立8つのキーポイント」は、苦労した甲斐あって今でもブランド分析手法として有用だ。
僕はよく使っている。


その指標のひとつに「ブランドは社会と対峙する」がある。
ブランドを貫くのは根源的な価値。

一方、社会は常に軽佻浮薄に動いている。
揺れ動く社会に対してブランドの根源価値は対峙することになる。
さて。その「ブランド」には対峙する力があるのか、ないのか。

対峙する大義・姿勢・戦略・戦術・フィールド設定については都度考える。
そして企てる。

自分を含め社会の人びとに向けて、対象とするモノやコト、組織などの価値、つまりどのような倫理であり便利であり美学であり大義なのかを提示、伝え、共感を得ていくということ。
「今の社会になら、このブランドは何をいえるだろう?」と常に考える。
これは「広告人がクライアントとともにカタチにするジャーナリズム」のひとつだ。

そのようにして僕はこれまでいくつかのブランドのお手伝いをしてきた。
なお、この分野で有名なものにはベネトンの広告がある。


サイト:Ginza 「有名アートディレクターたちが選ぶ、心に刻まれたファッション広告。〈UNITED COLORS OF BENETTON.〉オリンビエーロ・トスカーニによる社会情勢をテーマにしたアートワーク」


有名どころを引用したのには、2つ理由がある。
ひとつは守秘義務的なこと。
あとひとつは、手伝った側がことさらにいうのはカッコ悪いと思っているからだ。

ベネトンは「おばあちゃんが孫に編むセーター」が端緒のブランド。イタリアの片隅で編まれるセーター。
おばあちゃんの孫を思う気持ちは世界共通だ。
いろんな気持ちに包まれるべき「孫」は肌の色や人種によって差別されるべきではない。
そういう諍いで起きる戦争が正しいはずがない。
これがベネトンの世界観の根幹。
ベネトンが表現する「反差別」「反戦」などの主張にはそのような筋が一本通っている。
ベネトンは本気で現実社会と対峙している。


で、だ。
「広告人こそ、ジャーナリスティックであれ」。
山﨑さんがそう話したとき、残念なことにその具体的な話はなかった。
だが僕にはスッと入った。
そうして今がある。


僕の理解と成果はこんなところなのだけれど、
どうでしょう、天国の山﨑さん。


(一番上の写真は父が好きだった庭にある木蓮。鮮やかな色が美しい)

もし、もしもですよ、もしも記事に投げ銭いただける場合は、若い後進の方々のために使わせていただきますね。