『ジェンダー・アイデンティティ・ポリティクス あるいは Applied Therapy Research(オートエスノグラフィックな何か 35)(博論構想2024/04/17)』
私は自分のジェンダーアイデンティティを、TransMascGenderQueerに変えました。つまり、ノンバイナリーからジェンダークイアに変更しました。アイデンティティの政治に参画しているため、です。
私は研究者として、カミングアウトせず、アイデンティティ・ポリティクスに、別の言い方をするなら、アイデンティティ・ゲームに、参画するのを避けてきました。それは、自分がイアン・ハッキングの言うところの、ループ効果のピースになるのを、なるべく避けるため、でした。
しかし、自分のジェンダー・アイデンティティをカミングアウトし、そのアイデンティティとしての主張を行っている今、私はそのやり方を捨てます。アイデンティティの政治のコマとして、やっていきます。
そもそも、トランスジェンダーは、ジェンダーバイナリーのアウトローでした。つまり、二元的な性別に則らない存在であり、そのことを主張するために、トランスジェンダーだと名乗る存在でした。蔦森樹の『女でも男でもない私』もケイト・ボーンスタインの『ジェンダー・アウトロー』もそれを示すために書かれた本だと言うことができます。
しかし、トランスジェンダーは、ジェンダーバイナリーに組み込まれていきました。これは、三橋順子の『女装と日本人』に示されています。女らしく、男らしくすることで、ジェンダーバイナリーな社会に馴染もうとする存在に、トランスジェンダーは変容しました。
ジェンダークイアは、そのトランスジェンダーの代わりに、ジェンダーバイナリーのアウトローとして登場しました。その後、似たような主張を行うノンバイナリーが、そのアウトローのアイデンティティの主張者としては、優勢になっていました。
(Xジェンダーをどう位置付けるかは、専門家に委ねます。)
しかし、高井ゆと里のパブリッシングを読むと、ノンバイナリーとして、ジェンダーバイナリーのアウトローとしての役割から降りています。つまり、ジェンダーバイナリーの制度的な維持を主張しています。それにより、日本では、ノンバイナリーがアウトローではないという理解がなされていくようになるでょう。
そのため、私は、ジェンダークイアを名乗ります。ジェンダーバイナリーを越えようとしつつ、それでもマスキュリンであることに向かう、TransMascGenderQueerであることを、ここに宣言します。
加えて、この政治的主張をもまた、分析の対象として組み込み、それをクイアスタディーズとは異なる、また教育社会学のようなものとも異なる、エビデンスベーストで、かつappliedな研究を行います。
appliedであるとは、社会変革に直結する提言を、研究の最終目標として、研究計画を組み立てる研究のあり方、です。しかし、これまでのもの、特に日本で展開されているそれらは、リサーチとしてはエビデンス・ベーストであるとは言い難いものでした。
そのリサーチのやり方を、厳密にエビデンス・ベーストに保ちながら、その一方でエビデンス・ベーストとは何かをデコロナイズしながら、しかしデコロナイズの結果はモダンに止める研究法を示しながら、それらと同時に、リサーチの結果を政策提言に結びつけられるappliedなものとして、展開することもまた宣言をします。
また、以上は、プロセスにより行いますから、リサーチの遂行自体がセラピーになり得ます。「当事者研究」とは、そもそもそのようなものとして始まりましたが、上野千鶴子らにより、別のものに変容されてしまいました。
しかし、それを我が手に取り戻して、既に展開しているものを、Applied therapy researchと名付け、遂行を続けます。
またこれは、コミュニティの中で、コミュニティの人たちとの共同作業により行いますから、その遂行が、Multi EthnographyというPara Ethnography記述すること、そのものになります。
私のこの記事の執筆は、仮説を立てる作業とは、違います。リサーチクエスチョンを作る作業とも異なります。見立てて宣言をしています。ずっとやっている、私流のやり方ですが、博論自体の執筆や、ジャーナルペーパーの執筆時には、帳尻を合わせます。
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