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ミッドサマーネタバレ感想&考察(この映画の独特な気持ち悪さについて)

話題のミッドサマー見に行ってきました

先日も書きましたが、今ネット上でそこそこ話題の映画『ミッドサマー』に友達に連れていかれ、事前情報一切なしに見に行きました。

その結果――

視聴前にポスターを見て→「なんか大学生が夏を舞台に田舎の祭りでひどい目に遭う映画かなあ(´・ω・`)」

視聴後→「…………(゜Д゜)」

全体的な評価

監督の前作『ヘレディタリー 継承』から注目されていた”アリ・アスター”監督とのことですが、僕は今作から初めてその存在を知りました。

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今作『ミッドサマー』を一言で評価すると……

『作品としてはすごい。だが”完全に好き”とは言えない独特な気持ち悪さがあるという怪作』といった感じですね。

いや、もちろん誤解を解くつもりで言うと、僕自身映画はそこそこの頻度で見てはいますが、そんな今まで見てきた作品の中でも、なかなか結構レベルの高い作品だと僕は思います。グロがキツメなので一般受けはしないでしょうが、そこそこ平気で映画通の人なら行っても損はないと断言するくらいには。

しかしまあ何とも言えない生理的嫌悪感といいますか、主人公の最終的な結論に恐ろしさを感じてしまったといいますか、素直に「ミッドサマーサイコー!」とよくある邦画映画のCMみたいに叫ぶことはできないわけです。

まあ色んな意味で圧倒されたというのが正直な感想なのかな。

でもまあ監督自身こんなこと言ってますし、ある意味正しい見方をしたのではないかとかそんな風に考えてます。

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”なるといいな”じゃないよ!(´・ω・`)

この映画の”気持ち悪さ”について

この映画、ホラー映画ではあるが終始画面が明るく、映像としてもカラフルな花や自然豊かな木々が映ったりと、綺麗な映像が多いんですよね。

グロイと言われる崖のシーンも、真っ白な岩肌に真っ赤な血と、より鮮やかなイメージになるよう色々演出を張り巡らしていますし、見た後にはとても色鮮やかな印象が脳裏にこびりついていると思います。

だがそんな綺麗な景色とは裏腹に、”やっていることはとても血生臭いし狂気に満ち満ちている”

おそらくこのアンバランスさというかギャップというかが、主人公ダニーの麻薬でトリップしている映像も相まって、観客に静かな狂気をお届けしていると思うんですよね。

この対比は映像と内容以外にも、色んなところに現れています。

ホルガの人々の清廉な外見とその実態、村で意図的に生み出された障碍者とその大切な役割(聖書を書き記すこと)、ラブストーリーと題されたタペストリーの上辺の良さとその実態、ラストシーンの主人公ダニーの笑顔と彼女の狂気などなど、細かく挙げればキリがないかもしれません。

まあようは何が言いたいかというと、今作のホラーは、『いかにも怖い何か(モンスターなど)が怖いことをする恐怖』ではなく、『とても綺麗で美しさに溢れたものが、実際はとてつもなく狂気に満ちているという恐怖』を描いているのかなあということです。

この独特な歪さというか、実態と見た目の乖離が、観客……というか僕が気持ち悪さを感じた所以であろうと、まあそんな風に思ったわけです。

この映画、どこまでが真実なのか?

ここからは僕の考察というか、気になったところを。

この映画、あらゆるところに嘘……というか誤魔化しが散りばめられていますよね?

例えば、ダニーの彼氏であるクリスチャンがホルガの人にインタビューしたとき、『この村は村長が結婚相手を管理しているし、外部の血も入れているので近親相姦の心配はない』と言っています。

しかし実際は教義で必要だからと、『近親相姦による意図的な障碍者の出産』を行っています。

もっとわかりやすい例でいえば、単純にイギリスからの学生二人を殺していたくせに、車で帰ったなどの嘘を平気でついた点だとか、ラストシーンで炎に焼かれることを志願した二人に『イチイの実だ、痛みや恐怖が薄れる』と言いつつ、『実際に焼かれたときに二人が悲鳴を上げていた』などとか、例をあげていけばホントにキリがありませんね。

言ってしまえば、彼らホルガの人たちがどこまで信用できるかというと、まあ最初から最後まで全く信用できないわけです(学生仲間のペレも結局は主人公たちを生贄に捧げたいから連れてきたわけですし)。

となると、彼らが劇中で語っていたホルガの実態も、とことん怪しくなってくることになります。

長い伝統がある村のように語っているが、それにしては衣装や大道具がやけに新しすぎないか?(何となく新興宗教のように感じてしまう)

90年に一度のお祭りと言っていたが、ペレの両親は炎に焼かれて死んだと言っており、実際はもっと短いスパンで行っているのではないか?

とまあ、こんな風にどんどん疑いがもたれてきます。

またホルガの人々だけでなく、主人公ダニーたちも嘘に塗れているといってもいいでしょう。

ダニーの彼氏であるクリスチャンは、本音ではダニーと別れたいが、両親が死んですぐという状況で別れに別れられず、誕生日も一旦は覚えていたといっておきながらすぐにごめんと謝りますし、黒人仲間にも卒論のネタで揉めますし、ホント嘘と誤魔化しばかりです。

ペレはそもそも主人公一行を生贄に捧げるために地元に招待したわけですし、黒人の方も写真を撮らないと言っておきながら誘惑に負けて撮りに行って殴られて死亡しますし、ホント嘘つきじゃない人物の方が珍しいかもしれません。

「ダニーは狂気に堕ちた者だけが味わえる喜びに屈した。ダニーは自己を完全に失い、ついに自由を得た。それは恐ろしいことでもあり、美しいことでもある」(脚本から)

しかしこんな嘘だらけの作中の中で、ホルガの人同士は嘘をつきません。

なぜなら、互いに薬物で感情や意識を共有して、みんなと同調して共同体の一員として暮らしているからです。

ようは、作中でダニーがみんなと一緒にアーアー泣いて喚いていたあのシーンです。あんな風にホルガの人たちは、相手をまるで自分のことのように感じ、まるで一つの生き物のようになっています。

しかし言ってしまえば、それは自己の喪失であり、こここそがこの映画のテーマに深く関わるシーンであるのかなあと。

『自分を失ってまで得られた自由や幸福は、本当に良いものであるのだろうか』

結局ダニーは自己を喪失し、ホルガの人々と一緒になり、最終的にそれまで自分を縛っていた恋人やしがらみ(家族の死)から解放されます。

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特にこのシーンは印象的で、説明されて僕もわかったのですが、画面左上部にガス自殺をした妹がサブリミナル的に木に投影されており、そんな彼女から、ホルガの人々に担がれて離れていくダニーの姿は、妹の死を吹っ切ってホルガの人々と共に行くという象徴であるのかなと考えたりもします。

しかし最終的にそういったダニーを構成していた過去をすべて捨てて、共同体の一部となって生きていくということは、はたして彼女は彼女の”生”を生きているといえるのだろうか。そういった自意識の存在しない生き方は、すでに死にながら生きているのと同じではないかと、まあそんなことを考えてしまうわけです。

アリアスター監督は、この映画を『失恋とその克服の映画』と大まかに言っていました。しかしその裏のテーマとして、『自他の本当の在り方とは』みたいなテーマも隠れて存在するかもしれません(まあ僕の考えすぎかもしれませんが)。

さてはて、これを読んでいる読者の人は一体どう思っているのか気になるところです。

最期に

まあそんなこんなで色々と物議をかもしている『ミッドサマー』ですが、僕が考察した以上に多くのメッセージや考えが作品に含まれていると思います。

すでに一度見に行った方も、まだ見ていない方も、グロ耐性に強いのであれば、劇場に足を運んではいかがでしょうか?

僕は一回でだいぶお腹いっぱいになりましたけど……(´・ω・`)

ここまで読んでくださって本当にありがとう。

あなたの人生により良い未来が訪れますよう。

それでは(´・ω・`)ノシ


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