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僕等の1時間がラーメン一杯になるのに違和感を感じないか?

食券機に1000円を入れて、店員さんに渡す。醤油ラーメン大盛り。テーブルに座って待つ。今日は給料日、1ヶ月頑張った自分にささやかなご褒美。
お、きたきた。

これはただググって出てきただけ。

うん、うまい。啜っている間に1ヶ月頑張ってきてよかったなと思った。
時給1100円。ラーメン一杯1000円。これが自分へのご褒美。

ラーメンは美味い。至極当たり前のこと。
ラーメンは早い。頼めばすぐに出てくる。
ラーメンは安い。1000円あれば食べられる。

誰もがこう思う。

しかし、1000円は本当に安いのだろうか。


僕はいま大学一年生で、時給1100円の飲食店と、時給1500円の塾でアルバイトをしている。おそらく、後者のバイトは世間一般で見れば高時給にあたるだろう。
もちろん、僕が1時間働けば1100円、もしくは1500円もらえる。
ラーメン一杯1100円くらいだとすれば、前者の労働分は全てこれで終わり。お金だけでみればそれまでの価値しかない。もう0円。

これでもまだラーメン一杯を安いと言えるのだろうか?
また1時間働けばいいだけだし、それくらい良いじゃんと思うのだろうか?


僕はこの記事を通して、やれラーメンが高すぎるだの、やれ時給が低いだの不平不満を言いたいのではない。

違和感を持たないのか?と問いたいのだ。
「君たちがアルバイトをしている時の疲労感は1100円でチャラにします。
だから一生懸命働いてね。」こう言われているように感じている。

この1時間がぼーっとつっ立っているだけのはずが無い。口うるさい客、態度のでかい客、クレーマー、生意気な子供、気に入らない同僚、そんな人たちと過ごして不快に感じることもあるだろう。不快になったから時給3000円にしてください、なんて要求は通じない。変わらず1100円の時給。

僕が言う違和感とは、我々の過ごす一時間が1100円に換金されていることになぜ満足しているのだろうかと言うことだ。

いやいや満足してないよ、いやに決まってるだろ。と言うかもしれない。でも何かアクションを起こしているのだろうか。なんだかんだでだるそうに仕事をしているだけなんじゃ無いだろうか。
同じ1100円の労働から、1100円以上の価値がある何かを吸収してやろうと思わないのか?
口うるさい客、態度のでかい客、クレーマー、生意気な子供、気に入らない同僚

我々がイライラするこのような人たちのことをただうざいだのキモいだので片付けているのではないか?
なぜお客様に口うるさく言われるのか、自分の何がいけなかったのか、この同僚の何が気に食わなくて、そうならないために自分がどう振舞うべきか考えたことはあるだろうか。


話をまとめるとこうだ。

体感時給を高めよう。

起業して自分の力のみでお金を稼ぐのは誰にでも出来ることでは無いだろう。
しかし、このように物事を自責で考え、フィードバックし続けていれば自然と頭を使う。頭を使えば時間は早く過ぎる。それでも実際的な時間軸だけで見れば当然一時間であることには変わりなく、そこに与えられる金額は1100円だ。しかし体感の時間は短くなっている。つまり、体感時給が高くなる。

時間の価値を高めるために、体感時給を高くしよう。


もう一口で麺がなくなる。最後の一口、温かいうちに啜り終える。お冷を一口。最後に少しぬるくなったスープを一口。残りのお冷を飲み干す。ご馳走様でしたと誰にも聞こえないくらいの声で手を合わせ、お店を後にする。引き戸を開け外に出る。秋の外は少し肌寒かった。

それでは素敵な1日を。


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