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#9 その「正しい」は正義か正解か

「罪を憎んで人を憎まず」

理屈で分かっていても難しいこの言葉。
しかし大の苦手だったわたし自身の中ですこしずつ地固めされつつある感じがする。

そういえば安倍首相の辞任表明も、一国民としてではなく一人間として、どうも心が痛くてすこし泣いてしまった。

そしてごく自然にでてきた「どうか穏やかに、幸せになってほしい」という感情が、安倍さんだけではなく、親にも思えるようになっている最近。
今日はそんな記録。

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「正義」が正しかったとき

親から愛されているという実感を得ずにここまで育って、その実感を得たくて私は無意識のうちに“頑張り屋さん”になってしまった。

でも周りから
「しっかりしてるね」
「真面目だね」
って言われるのは嫌いだった。

「頑張らなくていいならどれだけいいか」
その気持ちが強かったからかもしれない。
ありのままの私を受け入れてくれてくれる環境が、愛してもらえる環境があれば、別にそれを求めてここまで頑張り屋さんになる必要はなかった。

ただただ親に自分を認めてもらいたくて、異常なまでに「自分1人でできるようになる」ことに執着して、理想は高く、自分に厳しく、そして他人にも厳しかった。

前回書いたように、
自分の期待を理想にして、理想を常識にして、
勝手な当たり前を自分と他人に押し付けていたのだ。
ただの私の正義感でしかなかった。

だから当時の私にとって、「何が正しいのか」の判断基準は正義だったのだと思う。当時は無意識だったけど。

例えば
「自分がやると決めたなら最後まで誠意を持って取り組むべきだ」とか、
「ルールは守るべきだ」とか、
この世のすべての事象にそれが当てはまると思っていた。言うなれば融通が効かない人だったというか、
「言ってることは別に間違ってないけど…。」
と言いたくなる感じの人だった。100%の濃さで。

そして私は
「間違ってないなら文句言えないでしょ?」
と、周りの優しさに甘えていた。



「正解」が正しくなったり始めたとき

これも以前書いたのだけど、
鬱だったころに人生のどん底から世界を見上げた感覚になったことがある。それまでの視野が急に広がった瞬間だった。

自分の正義、世の中の常識を押し付けることが正しいのではない。相手の環境、その時の状況、立場、経緯、人々の想い…とか、
何が正しいのかは普遍ではなくその先にある。それを理屈ではなく心で思い知ったのが長い鬱から抜け出す1つの要素になった。

だからまずは意識的に自分を許し、自分に優しくなることから始めて、それが間違いなく他者を許し他者に優しくなることにつながったのだけど、

それを繰り返していくうちに、やっとなんとなく、
「ああきっと、そういう人間らしさの中で私たちは生きていて、その時々の正解を積み重ねることで回り道しながら理想へ近づいていくんだ」
と感じられるようになった。

何が正しいのかは、正義を追求することではなく、正解を見つける努力と過程を踏むこと。
しかもその正解とは、普遍的なものではなく、その瞬間瞬間の最適解であるということ。

そしてこう思えていることが、今の私にとっての最適解でもある。



「もういいから、幸せになってほしい」

兄弟と平等に扱ってほしくて、親に正義をぶつけてきた今まで、極端にいうなら「親ならこうしてほしい」「親ならこうあるべきだ」と思っていた。

でもそれは私の正義でしかない。
毒親は子供に謝ることも、自分の非を認めることもない。自分の罪に気づくことさえもない。

じゃあ何が正しいのか。

それは私が、
この変えようのない事実を知り、
整理し、
時間をかけて受け止め、
今まさに考え抜いた先にある。

https://note.com/kozakana_dayo/n/n3b4f06708a5a

この文章を書いたのが2ヶ月ほど前。
別に急いでいるわけではないのだが、
今決断の段階が来たのかもしれない。

「罪を憎んで人を憎まず」

親が私に与えた大きな傷があるというのも事実。
それは一生をかけて私の手で埋めなければならないというのも事実。
親が親である前に1人の人間であるというのも事実。

そして、

私が親からの完全なる経済的自立を果たすことでまた一歩前に進むその一方で、
親は急速に老い、あきらかな痴呆が始まっているという事実。

この最適解は何か。

私の中では、
「もういいから、どうか穏やかに、幸せに余生を過ごしてほしい」
だった。

彼らの罪を許すことはできない。
でも彼らを憎むことはこれから先何の意味も持たない。
彼らが自身の罪に気づくことも、私の気持ちに納得することもできない。

だから私は私の手で私の幸せを得るし、
あなたたちはあなたたちの手で幸せになってほしい。

もう何も知らなくていいし、分からなくてもいい、
不毛な争いはいらない。

幸せを願うからといって私が何かを演じてご機嫌をとることはしないし、今まで通り、わたしの幸せを第一優先に、私がとりたい距離と、私が会いたい頻度で関わっていく。

本当の幸せの形も、望ましい家族の在り方も、
正義の私が悶々とするのをそっとなだめて、
そっと心の奥にしまって、

お互いの“今”に目を向けて
穏やかに、幸せに過ごせるようにすることが
私の最適解だ。

きっとこれが、“正しい”のだ。今の私にも、彼らにも。



わたしの最適解を応援してくれるもの

親がよく聴かせてくれたカーペンターズのなかでも、
わたしは「青春の輝き」が好きなのだけど、そこにこんな歌詞がある。(以下日本語は意訳)

“I know I ask perfections of a quite imperfect world, and fool enough to think that’s what I’ll find “
─不完全な世界で完全を求めてる。そしてそれをきっと見つけられるなんて思ってる私はばかだよね。─

自分の愚かさと、それでもやっぱり捨てられない想いと、そういう人間くささの中で私達は生きている。

次に、とてもお世話になった方からいただいた言葉、

美しいかで判断する。
光と影は大切だけど、そのバランスは芸術家の個性。

何が正しいか正しくないかは、美しさ。私達はみんな個性あふれる存在であり、最適解はそのバランスの上に存在する。

そして、高校の先生がわたしの卒業アルバムに残してくれたボブ・マーリーの名言、

“Love the life you live, live the life you love ”
─あなたの生きる人生を愛し、あなたの愛する人生を生きなさい─

人間臭さは時として良くも悪くも出るけれど、その全てが芸術家の個性の現れであるということを心から受け入れられた時、私達は私たちの人生を愛せるし、そんな人生を歩むことができるんだろうなと。

壁にぶち当たるときは親に限らずまだまだこれからの人生沢山ある。でもそんなとき、この言葉たちが大切なことを思い出させてくれる。

わたしがどんな人生を歩んできたのか、どんな葛藤を経て今のわたしがあるのか、では同じように、親の人生は?周りの人の人生は?

そのたびに私はきっと、少し未来を見過ぎている自分に気づき、“今”に目を向ける
そして「この場合の正しい(最適解)は?」と問い直すだろう。

わたしがこの練習をし続けたとして、
この先の未来に何があるのかはわからないけど、
今を忘れず、自と他の幸せに目を向けることも忘れないように。

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最後に、
この記録に関してずっと大切にしたいと思えた映画を2つほど。

1つ目は、「The Light Between Oceans」

邦題「光をくれた人」
灯台守夫婦を中心として、様々な人間と想いが関わるなかで、“何が正しいのか”を問われ続ける非常に学びの多い映画。
灯台を舞台にしているだけに、心情や場面の変化を光を使って美しく演出しているところも注目の作品。

2つ目は、「A Monster Calls」

邦題「怪物はささやく」
孤独な少年がある日を境に出会った怪物から聞かされる、“3つの真実の物語”を通して成長する物語。
これもまた“何が正しいのか”を問われるような、少年の学びから再確認させてくれる映画。

世代を問わず、人間が時に失敗を繰り返し、時に遠回りをして挑戦し続ける“正しいとは何か”。
未来の自分とこの文章が偶然届いた人へ、
迷いそうになったとき、勇気を与えられる何かになれたら。


#HSP #親子 #毒親 #機能不全家族 #愛着障害   #AC

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