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ポジティブさんが教えてくれたことー私に必要なのは再評価だった話

 ポジティブかネガティブか。

 そんな二者択一みたいなことは人間に関してはあり得なくて、まぁ大体の人がどっちでもある、のだと思う。そして往々にして、その割合だったり、強さだったりが、それぞれに個性的。

 私の知人で、それはもう輝きそうなくらいポジティブな人がいる。知らない人が見たらその人は幸せいっぱいで、この世に不満なんかなく、何もかも恵まれているように見えるかもしれない。
 しかし、私はそういう側面ばかりではないことを知っている。私が同じことを経験したら、きっともうとっくに、ひしゃげてぺちゃんこになり、そのまま起き上がる気力すら失われ、完全でほんものの抜け殻になってしまうだろう。
 そのくらいのインパクトのある波乱万丈の人生経験を持っている人だ。

 でもその人の考えはいつだってポジティブ。嬉しい、ありがたい。そういっていろんなものを受け止めている、いやもしかしたら受け流している。私には真似どころか真似をするふりもできない。

  私は、ネガティブな要素が強いという自覚がある。というよりも、ただただ心配が過ぎるタイプだ。最大限の最悪の事態を0.1秒で考えろ、なんて言われなくてもできるし、なんなら複数のパターンを挙げてみせることすらできそうに思う。そのスイッチは一瞬で強力。自分で思いついておいてギョッとすることすらある。

 社会人になる頃まではそんなことはなかった気がする。あまりものを考えていなかった証左か、こわいものは地震だけ。雷と父親はこわくなかった。 はっきり言って世間知らずで、身の程知らずで、おそらくはめちゃくちゃ失礼なやつだったと思うが、それゆえ、会社に入って先輩や上司、お客様を怒らせたことは数知れない。それでも、どこかで、へぇぇ、人ってそんなに怒るんだ、なんて俯瞰して平気だったし、一晩寝れば本当にケロっと忘れた。
 なんだったんだ、あれは。身軽だったな。

 人は年を経て、経験とそれから要らぬ知恵も身につけてしまうものか。

 いつ頃からかと言われたら、それほど古い話ではない気がする。少しずつ大人になって、どうやら自分がやってきたことがまぁまぁ失礼だったかも知れないことに気づき始めた。念のために付け加えると、まぁまぁ、なんていうレベルではない。世間とちょっとズレたことをしていた、ということも、後になってやっとわかった。そうなると、いかに自分が危ない橋を叩きもせず振り返りもせずに渡ってきたか、じわじわと理解できるようになってきた。
 さらに。
 いかに自分が、自分をほったらかしにしてきたか、そして、いかに自分がその周りにあるものをあって当たり前だと思い込んできたか、そんなことも今更ながらにわかるようになってきた、つまり、なってきてしまった。

 そうなると、人は慎重に、そして臆病になる。
 失いたくないものはどうしてもある。さらに、知らぬ間に失っていたものに気づき、その大きさに打ちのめされることもある。
 それが自分に直接的に属するものばかりでないとしても、なんとかできないかと思いを巡らし、まだ起きていないことを憂うことが、少しずつ、増えてくる。
 これは、大人になったということなのか。否、なんだか後ろに進んでいるような気もする。

 何にも引きずられずに、ただ前を向いて明日のことだけ考えていた私はどこに行ってしまったのだろう。

 思考には癖がある。それは私の場合、まず全体を俯瞰して最悪最低の最大限のワーストケースを見つけ出してしまうことだ。あぁ、これが起きてはいけない、手を打たなければ、といういわゆる「前向きな」対応につながるなら、これはまぁまぁ特技だと言える。実際、仕事を進める上ではそうであることも多いし、うまく奏功することがある。その自覚もある。
 しかし。それが自分のパーソナルなことになると、まったくもって制御がきかない。
 心配は心配を呼ぶ。どうしよう。

 特に他人、自分以外の誰かを心配する時はもっと困る。自分なら慎重にこんな行動をとるけど、その人はそれをしないかもしれない。手立てが打てないとなると、これほど心許ないことはない。やいやいと言い募って、自分の心配をその人に押し付けるのもいやだ。

 自分でこれを、どうやら捻じ曲がってしまった癖だと感じ始めた私は、ここ数年の間、俯瞰するということを自分に対して行うようにしてきた。なんでこんなことを考えているのだろう、と他人事みたいに考えてみるわけだ。客観的にみて大体の場合、滑稽なほどに考えすぎている。今思い出したから付け加えておくが、個人的に滑稽というのは相対的なものではない、と思っている。おもしろい、は相対的なんだけれど。
 まぁとにかく。
 うっすら俯瞰してみれば、あとで考えれば取るに足らないことで大いに慄き、心配し、その場のことが手につかなくなったりしている、そういう自分に気づくことができる。

 いったん湧き上がったものを、ちょっと待て、と落ち着かせ、それからもう一度考えてみる。そうすることで、感情が煽られたり、気分が沈み込んだりすることを、ちょびっと和らげることができたりする。
 そもそもこれにはちょっとしたきっかけがある。なにも私が自ら編み出した素晴らしい技、だなんて話ではない。

 私が、本来は心配してもどうしようもないことで大いに心配している時、珍しくそれを人に話したことがあった。そう、これも付け加えておくべき。私のような心配でぐるぐる巻きになるタイプは、そもそも人に相談をしない。信用していないとかそういうことじゃない、と思う。でも、どこかでこれを理解してもらうことはできない、と諦めたりしている。実際、説明が面倒だし。
 ただその時は違った。例のあの、超ポジティブさんにLINEでちょっとぶちまけてみてしまったのだ。
 ずるずるずる、と私の心配事と同じように、LINEの吹き出しは引きずるように長くなり、あまりの長文に消したり書いたりして、それでも私はなんとか最後まで書いた。今の自分が表情を失っているのと同じように、絵文字も顔文字もない、そっけないテキストだけの、それなのに一旦木綿のような、長いLINE。
 なぜだかわからないけど、受け止めてくれそうに思ったので、他の人には話していないことも説明を追加し、であるからして今私の心境はこんな感じで低迷しているのだ、と順を追って説明した。長い。

 ここでポジティブさんのすごいところは、私のLINEに対し即座に反応しなかったことである。既読はすぐについた。でも、真面目なポジティブさんは、私の反物のようなLINEに素早いビジネス対応はせず、少し時間が経ってから返事をくれた。
 するするする、と長いラインが届いた。私が書いたのと同じくらい、スマホの画面からはみ出しそうなほどの長い返信だった。

 私の不安に共感し、いかにそれが私を苦しめているか、自分の体験を交えて可能な限り想像してみている、ということが最初に書かれていた。
 あっさりと、わかる、だとか、そうだよね、と言われることで気が楽になることもあるけれど、私のことは私にしかわからないし、あなたのことは私にはわからない、という立場で話してくれていることで、私はちょっと安心した。やっぱりこの話はポジティブさんにしてよかった。
 そして、私の不安がどこからきているのか、ごく客観的に示してくれた。

 そう、実に簡単なことで、それは私が自分で生み出したものだ。

 もちろん、理性は気づいていたのだけど、私はそれに気付かないふりをしていた。自分で作ったものに自分でしてやられるなんて、ばかばかしいにも程がある。落とし穴を掘っておいて、人を驚かせようとした自分が落っこちるくらい「滑稽」なことだ。
 ポジティブさんは諭すこともなく、ただ淡々と述べた。

 それ、あなたが心配してどうにかなることかな

 いや本当に、そうなんですよ。それだけのこと。

 今やきもきして、何がどうなるのか?
 心配した場合としなかった場合で、結果は異なることがあるのか?
 気を揉んだ結果、何か状況が改善するのか?

 理性はとっくに答えを出しているこれらの問いに、いやでもだって、と私の不安は駄々を捏ねていて、大変往生際が悪かったが、どうしたって分が悪いのは目に見えていた。

 心配してもしなくても、結果は同じ。
 心配している時間に手につかなかったことや、笑わずに済ませてしまったことはもう取り返しがつかない。端的に言ってそれ、損失じゃないか。

 それから、私は心配事にとらわれそうになると、この言葉を思い出すようにしている。これ、私が心配してどうにかなること?
 最近では、もっと強力になっている。 

これは私が心配することではない。

 どうにかなるかどうか、が基準ではない場合があるのは確かだ。だけど、それで自分が疲弊していること、損していること、何かを見落としていること、それも確かだ。どっちをとるかは、その時の自分が決めていいし、やっぱりぐるぐる巻きの不安の中に戻って行ってしまうことがあっても、それも致し方のないことだろうと思う。

 ポジティブさんが、その人生でおそらく自分を助けてきたであろう考え方の一端をちょっと私に見せてくれたことで、私の捻じ曲がった思考と認知の歪みは少しずつ客観性を取り戻していった。もともとへらへらと怒っている人を俯瞰していた人間だから、ちょっと距離を置いてものを見るのは得意だし、そう言われてみればと振り返ることはそれほど困難なことではなかった。

 その分野ではとうの昔から使われていた言葉だが、私はそこに無頓着で気づいていなかった。これはReappraisal(リアプレイザル)、日本語では再評価と呼ばれるもので、認知的行動療法としても使われている手法である、ということを最近になってようやく知った。ポジティブさん、人から教えてもらったわけでもその道の専門家でもないのに、自分でそれをやっていたなんて、自分で自分を癒す天才なのかも。

 考え方を変えて体験する感情を変容させる。
 自分の反応を眺めてみる。
 いったん表層に上がってきたものを、まずはちょっと眺めてみる。
 これって今取り出すものだったっけ?

 ここで素直な人はきっとこんな疑問をもつはずだ。 
 むりやり本音を捻じ曲げてない?それって直感を無視してない?

 最初のインスピレーションが正しいことはよくある。
 だから、ふと湧き上がったものをないがしろにしてはいけない気がするのも、理解できる。実際そうだ。

 でも問題はない。それは無視されないし、無視しない。
 違うよと押し込めるわけでもない。いったん眺める。

 それにそもそも、である。最初に湧き上がってきたものが本心とは限らない。いつだって、しばらく使わずに忘れていたものは、どこか遠くの奥底で澱のように沈んでしまっているものだし、それは本来の自分が持っていた自分であるための大事な何かだったかもしれない。
 すぐに湧き上がってこなくなったのは、後からそれに蓋をした自分のせいで、その蓋がいかにも本心本意、これこそが私の真実でありますというような顔をして見せるのは、それが蓋だからである。

 受け止めて眺めてそれから。
 ちょっと違う観点からそれを眺め直してみる。
 私の場合は、ただそれだけ。

 若い頃、母は私によく言っていた。
 「人間は食べたものでできているんだから、しっかり食べなさい」

 今となれば、全身で頷きたくなるくらいの真理であることがわかる。その当時の私にとっては、なんだか当たり前だけど別におもしろくない話だった。ほら、こうやって大事なことを見過ごしてきているわけ。

 体が有機的に食べ物からできていることは、疑いようのない事実だ。じゃぁこの私を取り巻く世界はいったい何でできているのか。
 私が見るもの、感じるもの、そこから取り出すもの。全部私の認知と思考が作り出していて、それを真実だと思って生きている。嬉しい、ありがたい、に囲まれているポジティブさんは、実際にそんな世界に生きている。ここで大事なことは、私がポジティブであることを肯定し、ネガティブであることを否定しているわけではないということだ。表裏一体のそれの、そして常にその割合が変わるそれを、いつだって私たちはそれぞれ包括していて、どちらかを肯定したり否定したりするようなものではない、ということは当たり前だけど大事なことだ。
 ポジティブさんも私も、それぞれにそれでいい。

 人間の体は、食べたものでできている。
 その人の世界は、その人の思考でできている。

 だったら、私はどうしたいか。どんな世界で生きていきたいか。
 選べるなら自分で選びたい、と思う。

バリ島の夕日と凧揚げをする人
明日もまた同じ日が続くと信じられるって奇跡かも


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最後まで読んでくださって、本当にありがとうございます。
お気軽にスキ・コメント残してくださると
私の凝り固まった思考の癖が柔らかくなるかもしれません。
とても喜びます。
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私はAudibleで聞いたんだけど、耳より目のほうが理解がしやすい人だから文字でもまた読んでみようかと思う

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