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「無意識の加害性」からの解脱――『あなたに安全な人』(木村紅美)考察(2)

『あなたに安全な人』2回目の今回は、印象的なラストの展開について、忍と妙、それぞれの変化に触れながら作品に描かれた希望とは何だったのか読み解いていきたいと思います。

考察(2)

即身仏となった忍

ラストの展開に至るまでの忍の変化を追うにあたって、キーワードとなるのは「湿度」「仏間」「ミイラ」の三つです。

前半、忍にまとわりつくのは圧倒的な「湿度」で、それにともなう不潔さについては、いやというほど強調されています。

(前略)玄関マットから身を乗りだし男に渡そうとして、おずおず差しだされたもっさりと肉の厚い左手の親指、中指、薬指に縁の黒くなった絆創膏が巻かれているのに気づいた。甲の真ん中には楕円形の水ぶくれが桜貝を思わせる色あいとつややかさをして盛りあがっている。

47頁

(前略)右手も絆創膏だらけで親指のものはふやけて剥がれかけ、膿の溜まったぶよぶよが見え隠れしていた。

47頁

 今夜のマスクは白い不織布。灰色に汚れ見るからに湿っていそうで、同じように手を振り近づいて来ると臭いは余計にきつくなりこちらの眼にまで沁みてきた。

79頁

(前略)鏡を覗いたら、帽子も眼鏡もマスクも外した顔の頬の肉は削げ落ち、目尻や鼻、口もとを虫に刺された痕は赤い水玉模様のよう。左腕は、雨の夜に自転車のタイヤがすべって転倒しすりむけた痕がじゅくじゅくと化膿していて、現実に戻る。

98-99頁

火傷の水ぶくれ、湿ったマスク、化膿して溜まった膿、時にはきつい悪臭を放っているという描写もあります。しかし、妙の家にかくまわれるようになってからは、毎日シャワーを浴び、自傷癖も落ち着いたことから水ぶくれも完治し、「湿度」を感じる描写はなくなっていきます。

中盤、妙の家に一晩泊めてもらうことになった忍は、寝室として「仏間」に通されました。

「あと、布団は、お風呂場の向いの、仏、間、に敷いておきます」
 ぶつ、ま、と噛みしめるように呟いていた。体と下着を洗うあいだ、忍も、ぶつ、ま、と口のなかでくり返した。

98頁

妙と忍が「仏間」という言葉を、何か確かめるように丁寧に発音しているのが印象的な場面です。この時点で、二人が「仏間」に対して何かしらの因縁を持っていたというわけではありません。なぜ「仏間」という言葉が、これほど強調されているのでしょうか。

その答えが「ミイラ」にあります。なりゆきで妙の家に居候することとなった忍は共同生活にも慣れ始めた頃、牡蠣フライにあたって脂っこいものを受け付けなくなります。その時、忍の頭によぎったのが「ミイラ」という言葉でした。

 突き詰めてゆけば、やがて、米か麦と豆、木の実、野草などで凌げるようになり、体のなかは空っぽに近づき、餓死ではなくて、生きながらミイラになる死にかたはできないだろうかと夢想するようになった。

138頁

この少し後、忍は妙に「ごはんは、明日かあさってまで、いりません」というメモを残します。鈴の音もか弱く、ヒーターの作動音もしなくなり、忍が「ミイラ」になろうと試みているような気配だけを残して、物語は幕を閉じます。

なぜ、忍は「ミイラ」となることを夢見たのでしょうか。作中には「ミイラ」という言葉が使われていますが、実際に忍が思い描いていたものはおそらく「即身仏」に近いと言えるでしょう。

即身仏になるための修行は、大きく分けて「木食修行(もくじきしゅぎょう)」「土中入定(どちゅうにゅうじょう)」の2つです。
「木食修行」は、山に籠り、1000日~5000日かけて米・麦・豆・ヒエ・粟などの五穀・十穀を絶ち、山に育つ木の実や山草だけで過ごして肉体の脂肪分を落とし、生きている間から即身仏に近い状態に体をつくりあげていく修行です。
「土中入定」は、命の限界が近づいたと自ら悟ると、深さ約3mのたて穴(入定塚)の石室の中に籠ります。その中で断食を行い、鈴を鳴らし、お経を読み続ける最後の修行です。

やまがたへの旅「即身仏が語りかけるもの」

妙には姿を見せず、仏間に一人籠もって、飲食を断つ。その姿はまるで「即身仏」そのものです。忍が絶食の過程を思い浮かべる時、まず五穀・十穀である「米か麦と豆」を、その後に、修行僧が最後に食べる「木の実、野草」を挙げているのも象徴的です。

修行僧が鈴を鳴らすのは、外にいる弟子たちに自身の生存を知らせるためだと言います。鈴の音が聞こえなくなると、弟子たちは僧が成仏したことを知るのです。忍が「即身仏」に向かっているものとして読んでいくと、最後の妙の独白の意味が理解できます。

明日は、あの人はごはんを食べるだろうか。食べないと死んでしまうから、明日もあさっても、鈴が鳴る限り用意してやろう。鳴りやんでも自分はお供えをつづけるだろう。北の町の長い冬はまだ始まったばかりだった。

149頁

「食べないと死んでしまうから」と言いつつ、「鳴りやんでも」「お供え」を続けるだろう、と語る妙は、忍の不可解な行動の真意を、実は理解しているようにも捉えられます。

前半で忍がまとっていた「湿度」は彼自身の体液から発生するものであり、その不潔さはいわば生の象徴でした。しかし、体を清潔に保ち、バランスの良い食事を摂り、健康的な生活に近づけば近づくほど、忍は死に近づいていくように見えます。忍は「仏間」に閉じこもっているうち、いつの間にか「ミイラ(即身仏)」となるよう導かれていたのです。

忍にはもともと自傷癖がありました。これは、過去に自分が加害を加えたことに対する、忍なりの懺悔・贖罪の意味があったと言えます。妙の家に来る以前、数日食べなかったり駅のホームで眠ったり、極限の生活を送っていたのにも、それに通ずる意識があったのではないでしょうか。自分は加害者かもしれないのだから良い生活をする権利はない、といった自虐意識です。

忍は、そうした自虐意識によって精神のバランスを保ってきました。野鳥を目で追うことも、拳をライターで炙ることも、姪っ子から脅迫も、忍の自虐意識を満たし、むしろ精神の安寧をもたらしてくれていたのです。しかし、妙の家での極めて平穏な生活の中で、忍は自虐意識を満たすことができなくなっていきました。

一度、妙に「サボり」を指摘され雨戸を強く蹴り付けた時、彼は「次に頭から雨戸に叩きつける相手は、まちがいなく女だ」と、自身の「加害性」に改めて恐怖を募らせます。とっさにライターへ手を伸ばし「火傷だらけにならないうちに、この家は出ないといけない」と決意しますが、それだけでは自虐意識を十分に満たすことができませんでした。「即身仏」となることを試みたのは、痛みを得るための最後の手段だったのかもしれません。

「ミイラ(即身仏)」的な死に向かうことで、忍は自身の「加害性」から逃れようとしました。これを悲劇と見ることもできますが、忍がようやく辛い生のしがらみから「解脱」することができるという意味で、この結末を一種の救いと捉えることもできるのではないでしょうか。

薔薇を供えた妙

忍が「ミイラ(即身仏)」的な死に向かう中で、妙はどこへ行き着こうとしていたのでしょうか。ラストに向けてどことなく活力を得ていくように見える妙は、忍に救われたことで、自身の「加害性」を受け入れる覚悟を得たように読めました。

忍が「即身仏」となることで、妙もまた救いを得ていると感じられます。そのキーワードとなるのは「入定信仰」「手紙」です。

妙は最後の場面で「即身仏」となった忍に対し、たとえ鈴が鳴りやんでも食事を持って行ってやろう、と決意しています。この独白から想起されるのが、真言宗に伝わる空海の入定信仰です。

空海によって開創された真言宗の総本山「高野山」。奥の院には空海が入定(瞑想をして生きたまま仏になること)した御廟があります。高野山では空海は今も生きているとされていて、奥の院には毎日朝6時と10時半の2回、食事が運ばれているんです。この儀式は「生身供(しょうじんぐ)」と呼ばれています。

TABIZINE「空海は生きている?1200年間、空海には今も1日2回の食事が運ばれている【日本の不思議】」

入定信仰とは、空海が今でも御廟の中で生きて修行を続けている、とする信仰です。おそらく御廟の中から鈴の音が鳴ることはないと思われますが、今日に至るまで、1日2回の食事が届けられています。

第一回の考察でも触れた通り、妙はこの共同生活において忍の存在自体に価値を見出しています。たとえ忍が言葉を発しなくなったとしても、そこに存在している、という事実が支えになっているのです。

(前略)仏間に入ろうとは思えない。たんに、眠りこんでいるだけかもしれないし、いま、バックパックがなくなっている光景を突きつけられたら、家から逃げ出したくなるかもしれず、水戸の叔母のもとへ転がりこんで迷惑をかけるわけにもいかない。

145頁

妙は実際、排水溝の詰まりを直してもらったほかには、忍に対して明確な行動を要求していません。「甘いものを買ってきてもらう」ことも、言ったそばから「やっぱりいいです」と拒否し、「落書きを消してほしい」という依頼をした時も最終的に自分で作業し、忍には見守ってもらうだけでした。

空海が今もなお御廟の中で生きて人々に祈りを捧げている、という信仰そのものが人々の心を救うように、そこに忍が存在していると信じることが、妙の心を支えているのです。忍が「即身仏」となることを試みたのも、そうした妙の信仰に導かれている部分があるように感じます。

さらに、妙は忍の姿を亡き父親や元生徒の陸、「青空クリーニング」の本間さんに重ねています。忍をかくまい養うことは、妙にとって彼らへの贖罪の気持ちを満たしてくれていたのでしょう。作中では、忍に絆創膏を与えるなど妙の世話焼きな一面が見え隠れしていました。水死事故の後、なるべく他人との関わりを避けてきた妙は、何かを与えてくれる存在というよりも、何かを与えても許される存在を求めていたのかもしれません。

さらに、ラストに至るまで、忍が妙の大事にしていた「手紙」を隠し持ったままであることも象徴的です。第一回の考察で触れた通り、妙もまた、傷をなぞることでトラウマを昇華しようとする面があります。「手紙」はそのための重要なアイテムでした。少し前までは肌身離さず持っていたと語られており、何か不安を感じると存在を確かめて安心を得ています。

しかし、忍はそのことを知った上であえて「手紙」をしまい込んだままでいます。

 考えられるものといえば、忍がバックパックにしまいこんだままの封筒だ。気まぐれで盗んだのは取り返しのつかないことをやらかしたみたいで、元へ返そうとするたび、あれを捜すのもいまや女にとっては趣味であり生きる張り合いと化していて、このまま、出てこないほうがよさそうな気もする。
 (中略)封筒はだまって持ち去るかもしれないし、火を点け焼き捨てるかもしれなかった。遺灰みたいに海へ撒く。

141頁

忍は「手紙」を隠し持ったまま「即身仏」となることで、妙の傷をも引き受けて「解脱」したのだというようにも読めます。意図してか無意識か、忍の存在によって妙は救われ、結果、生きる活力を得られたのかもしれません。

では、救いを得た妙は、ラストでどこに行き着こうとしていたのでしょうか。長らく人との関わりを絶っていた彼女は、最後に自身の「加害性」を受け入れる覚悟を得たように読めました。

それを象徴するのは、「青空クリーニング」の本間さんを弔いに花を供えに行く場面です。

普段は野草を摘んで飾る程度の妙ですが、この日は道の駅の帰り、通りかかった花屋で「白い薔薇」を三本購入します。その少し前に「青空クリーニング」前のベンチに仏花とビールが供えられているのを見て、気になっていたのです。

「白い薔薇」を選んだのは、パンデミックによって結婚式やパーティーがなくなり行き場をなくした花々が値下がりしており、店員にすすめられたからでした。しかし、上記にもあるように薔薇はそういった祝い事の席で用いられることが多いように思います。お供物としては、あまり適しません。

しかし、バラのお花は供花に相応しくないとされており、その大きな理由が「バラには棘がある」からです。
お墓に眠るご先祖様をご供養することが、供花をお供えする大きな目的であることは、皆様もご存知のことであると思います。
お供えしたお花は、あの世にいるご先祖様はもちろんですが、死後生まれ変わったご先祖様にも届くとされています。
そのような理由から、触ると痛みを感じるバラを含めた棘のあるお花を、供花としてお供えすることは相応しくないとされているのです。

フジテレビフラワーネット「お供えのお花にバラを選んではいけない理由は?」

お供えとして相応しくないとされる薔薇をあえて用いたこの場面には、妙がずっと恐れてきた「無意識の加害性」に対峙する瞬間が描かれているように感じます。

妙は元生徒・陸に対するいじめを故意に見逃したわけではありませんでした。いじめっ子たちは妙から見ると少々やんちゃだが良心的な子で、クラス内にいじめがあることすら認識していなかったのです。その中で、無意識に陸からのヘルプサインを見逃したこと、あるいは陸を失望させたことがあったのかもしれません。その後悔を経て、妙はこの「無意識の加害性」を排除するため、燃えないごみと化す電化製品を増やさない、アフリカの子どもたちを酷使して作られている携帯電話は使わない、など徹底して自身の生活を閉じていました。

だからこそ「無意識の加害性」の象徴とも言える、ありがた迷惑な本間さんからのお菓子を拒否したのであり、さらに、その拒否が「無意識の加害性」を含んでいたことを後になって自覚し、それを非常に気に掛けていたのでした。

妙が、ずっと恐れてきた「無意識の加害性」の象徴とも言える「薔薇の花」を本間さんへ供えに行くことができたのは、忍との気配を探り合う共同生活の中で、人との関わりに希望と呼べるものを見出すことができたからではないでしょうか。自分にとって「安全な人」の存在が、妙に勇気を与えたのかもしれません。

感想

過去の罪を自身の存在ごと成仏してしまおうとする忍と、過去の罪を昇華して外に出て行こうとする妙。そんな二人の行為を互いに称賛することも非難することもなく、物語はあくまで静かに幕を閉じました。そこには、どちらの姿勢も否定しない、かといって、過度に肯定もしない、著者の誠実さが感じられたような気がします。

社会の中で生きている限り、故意でなくても誰かに傷つけられること、誰かを傷つけることは避けることができません。そうとわかってはいても、多くの人はそういう一つ一つに感情を左右されてしまうと思います。この小説は誰しもが抱えるそうした痛み、被害者の傷も、加害者の悔恨も、丸ごと掬いあげてくれるような気がします。

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