弘瀬厚洋

高知県出身の弘瀬厚洋です。6年前に脊髄炎を発症してから下半身不随となり現在車椅子生活で…

弘瀬厚洋

高知県出身の弘瀬厚洋です。6年前に脊髄炎を発症してから下半身不随となり現在車椅子生活です。 昭和63年学習院大学法学部卒業、硬式野球部に所属してました。 趣味は、読書と文章を書くことです。 日常生活の何気ないこと、人とのふれあいについて書いていきます。 宜しくお願いします。

最近の記事

拝啓、車椅子の俺へ 第一章 その五①

(GoogleEarthより)    高知追手前高校(こうちおうてまえこうこう)は、お城の下にある時計台がシンボルの高校だ。 高知駅からはりまや橋に向かう道路の中間点から高知城の追手門に伸びる道路沿いにある。 この道路は、追手筋(おうてすじ)といい、日曜日には「日曜市」で賑わい、「よさこい祭り」ではこの通りをメインに踊り子達が舞い踊り、練り歩くのだ。「よさこい」期間中には高校前面の歩道に、座って踊りを見られるよう特別観覧席が設けられる。  向かいに小学校(2013年に閉校、

    • 拝啓、車椅子の俺へ 第一章 その四

      同級生は約240人。1クラス40人で6クラスある。同級生7人の僻地の小学校とは全く違う。当初はその人数に圧倒され気後れしたものだ。 自分は引っ込み思案でおとなしく、話し下手で不器用。体は小さく運動センスなし、体力なし。 喋りは苦手で、気軽に話しかけることなどできなかった。 背が高いわけでなし、顔がいいわけでもない、頭がいいと思ったこともなし。 中1のはじめての実力テストは、中くらいの成績。目立たない普通の生徒だ。 授業はほとんど頭に入らず先生の言っていることすら理解できな

      • 拝啓、車椅子の俺へ 第一章 その参

        中学生の時期を寮で過ごせたことは、心身の成長のためには良かったと思ってます。 公立中学校の寮は、当時も今も珍しいと思う。 私立の中学の寮は聞くけど、公立の、町立の寮は聞かないから本当に珍しい。 実は、中学受験で全寮制の私立中学を受けた。 結果は不合格だったが、それで良かったと言える。 中学校とは道路を隔てて隣接していた。 正門から徒歩1分だ。 階段を上がった丘の上に建物はあった。 鉄筋コンクリート2階建てで、1階が男子、2階が女子の居室だ。 全校生徒約700人の1割、約70

        • 拝啓、車椅子の俺へ 第一章 その弐

          当時は、女子のバレーボール部が強かった。全校集会でいつも表彰されるから相当強かったのだろう。夜遅くまで練習していて、父兄が迎えに来るのが日常だから、その頑張りは相当なものだったと思う。ある日の夜、寮のレクリエーションで体育館に入ったら、バレー部の練習を目の当たりにすることができた。まず、空気が違うのだ。ピリピリとした緊張感が張りつめた空気。その雰囲気の中、「出ろ!コートの外に出ろ!」と顧問の先生が目を吊り上げて怒鳴っている。怒鳴られているのは、クラスの女子だ。「お前みたいな下

        拝啓、車椅子の俺へ 第一章 その五①

          拝啓、車椅子の俺へ 第一章 その壱

          四万十川は、全長196kmある四国最長の河川だ。 高知県と愛媛県の県境近くに端を発した源流は、四万十町を南に進む。 やがて線路とぶつかる手前で西に進路を変え紆余曲折、蛇行を繰り返しながら更に西へ西へ。 途中から流れを南に転じて海に流れ込むのである。 流域には工場がないから水が汚れていない。 「日本最後の清流」として全国に知れ渡っている。 その四万十川中流域の支流のひとつを遡ること約8キロ、集会所のカーブを曲がると、川向こうの棚田の上に建物が数軒鎮座しているのが見え

          拝啓、車椅子の俺へ 第一章 その壱

          拝啓、車椅子の俺へ 序

           二〇二二年八月。全国的に猛暑が続き、ここ高知では熱中症警戒アラートが毎日発令されています。 連日気温三十度を超える暑さが続き、大気の状態は不安定で、時折ゲリラ豪雨がやって来たりします。 八月はお盆のある月です。 お盆は、祖先の霊を祀る一連の行事をいいます。日本古来の祖霊信仰と仏教が融合したものなのです。 お墓参りをしてご先祖様に感謝を捧げることは日本人として当然の行いです。 今日生活できているのはご先祖様のおかげです。ありがとうございます。 手を合わすと、子供の頃からの記

          拝啓、車椅子の俺へ 序

          車椅子からパラダイス!

          コピー用紙一枚の重さは、量れないほど軽い。 一枚ずつ積み重ねることによって10枚、20枚、30枚と重なるのだ。 毎日積み重ねると100枚・・・500枚、1000枚と重なっていく。 そうすると重さが見えてくるのである。 日々の鍛錬は、コピー用紙を積み重ねるようなものだ。 その日その日の効果は目に見える訳ではないが、続けていくうちに見えてくるのである。 だから、効果が見えないからといって鍛錬を止めてしまっては、元も子もない。 目に見えない効果が積み上がり、それまで出来なかったこと

          車椅子からパラダイス!

          アドレス・高知 220619

           今年の三月二十九日に竹下病院を退院してから3ヶ月近く経ちました。  桜咲き誇る季節から曇り多き雨降る季節に時は移ろい、私の施設での生活もだんだんと軌道に乗って来たように感じます。   そこで今回は、私の現在生活している障害者支援施設「アドレス・高知」について、どういった施設なのかを簡単にご紹介したいと思います。   このアドレス・高知は、社会福祉法人ミレニアムが運営する障害者支援施設です。  2003年(平成15年)に高知市初の身体障害者療護施設(現在の身体障害者支

          アドレス・高知 220619

          昔、親父のこと

          昔の話、45年前、私が小学校3年生の頃の出来事です。 夕食前のことでした。 泣いています。 泣きじゃくっています。 「本をどうしたが?」 「本を借りてきた言いよったろがよ?」 「それをどうしたよ?」 母親に怒られているのです。 その時は、母から何を聞かれても、どう聞かれても答えられず、泣くしかなかったんです。 その日、初めて図書室で本を借りました。 「エジソン伝」という本です。 初めて借りた本ですので、大事に扱わなければならないことは分かっていました。

          昔、親父のこと

          レモンスカッシュ

          レモンスカッシュを初めて口にしたには小学校の低学年の頃だと思います。 大好きな叔母に会いに母親と一緒にはじめて高知市へ行った時、デパートの地下の喫茶コーナーのカウンターに腰かけて、叔母の口にするハイカラな飲み物を目にしました。 美味しそう。 はじめて目にしたハイカラな飲み物、レモンスカッシュ。 僕も飲みたい。 はじめて飲んだのは、両親に連れられて入った地元の喫茶店でした。 大きめのグラスに氷が入ってレモンの輪切りも入っている炭酸水、レモンスカッシュ。 子供なのに

          レモンスカッシュ

          アイスクリン

          高知名物「アイスクリン」 実家から高知市へは車で約2時間、高速道路のまだない40年以上前、くねくね峠を下って山あいから海沿いを通り市内を目指します。 月に一度、ごちそうを食べに高知市に遠出してました。レストランで食事をするのです。 両親と私、妹の4人での小旅行です。 夏の高知の暑さは、日射しとともに蒸し暑さを伴います。 その暑さの中を、約70kmの距離を車は進みます。 街道脇の広場にはアイスクリンのパラソルがあちこちに咲いていました。 おばちゃんが売り子です。

          アイスクリン

          樹齢500年の椎ノ木

          昔、通っていた小学校近くの民家に大きな椎ノ木がありました。 それはそれは大きな幹で大人5人係りでやっと手を渡せる程のものでした。 宮脇さん家の庭先にあるのですが、塀がないので誰でも行けるのです。 はじめて行ったのはいつだったか定かには憶えていませんが、小学校低学年でしたろう。 椎ノ木の隣に住む清二という同級生に連れられ行ったのだと思います。 清二とは保育園の時からの付き合いです。小学校、中学校と同じでした。高校からはそれぞれ別の進路を進みまして何十年も会っていません

          樹齢500年の椎ノ木

          高知のぶしゅかん

          山奥の実家には、「ぶしゅかん」の木があります。私が子供の頃からありますから、60年以上の樹齢はあるでしょう。 台所で母親が、鰹を捌く光景とともに、「酢みかん」人数分取ってきて、と頼まれて庭先の木から5、6個もいできた記憶があります。 その「酢みかん」は、ゴルフボールの大きさです。 色は、鮮やかな緑。目が覚める色です。 夕飯の食卓には、鰹の刺身が小皿に盛ってあります。 それにもいできた「酢みかん」を半分に切ってちゅーっと絞りかけます。醤油も少し垂らします。 「酸っぱ」

          高知のぶしゅかん

          蒟蒻芋

          蒟蒻芋(こんにゃくいも)です。 コンニャクの原料です。 実家の庭の端に畑があります。 そこに母親が蒟蒻芋(こんにゃくのいも)を植えています。 「こんにゃくの芋は、人に付く」と云われ、ある人が世話をすれば芋がなり、ある人が世話をしても芋が付かず、全滅するそうです。 芋が人を観ているのか、人が分かるのか、単なる偶然か、人智を超えた話として昔からそういう風に伝えられてきたそうです。(母親の菊江談) 実際の話、世話は何もしないそうです。 5月29日(こんにゃくの日)に植

          干し柿

          田舎の実家には、上の家と下の家を結ぶ通路のまん中に柿の木があります。 一抱えはある幹周りをしていて、子供の頃にはよく登って遊んだものです。 秋から冬にかけては、その木に柿の実がなるので、じいさんが干し柿を作っていました。 渋柿ですよ。 食べれたものじゃありません。 毎年毎年よく実を付けていました。 今では、良く実を付ける年もあれば、それほどでない年もあるようです。 干し柿にすると甘くなりお菓子のようになります。 一個ずつ丁寧に皮を包丁で剥いて、2個をシュロの葉

          秋のあけび

          昔、実家では親父と爺さんが山の仕事をしていました。 先祖代々の山を守っておりましたので、自分ちの山で仕事をしていました。 山の仕事というのは、育った木材(杉、ヒノキ)をチェーンソーで伐採し、5m位に切り揃え、ワイヤーで吊り下げて100m以上も運搬し、トラックに積み上げ木材市場に出荷するのです。 木材を伐採した跡には、ヒノキの苗木を植林していきます。 その木材が出荷されて製品となることができるのは、30年以上先になります。 50年、100年先を見越して計画的に伐採・植

          秋のあけび