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イタリア:デザイン起業家列伝(11/15)ーキッチン・浴室編ー

本noteでは、キッチン・浴室編としてボッフィとエラム社を取り上げましょう。キッチン大国イタリアには、アークリネアやヴァルクッチーネ社などの高級キッチンメーカーが多数ありますが、以下で述べるように、「キッチンや浴室は住宅設備ではなく、インテリア」だという指摘は極めて重要です。まねすべきはイタリアのデザインではなく、デザイン経営の仕方であり、その設計思想理解することです。彼らに倣って、日本企業もデザインに大きな投資を行いし、中国市場に打って出たいところですーそのためには、まず自社でデザインプロジェクトに投資を行い、最高級のキッチンや浴室のモデルルームを作ることから始めたいものです。ライセンス供与してもらっても、オリジナリティある最終製品は作れず、世界市場に打って出れません。(本noteも拙著第5章に基づきます。)

1 ボッフィ

ボッフィ社は、1934年にピエロ・ボッフィ(Piero Boffi)によって創設され、1988年からはピエロの息子のパオロ(Paolo)が会長職に就いています。パオロ・ボッフィの共起ネットワーク図(図1)では、樹木の心材(massello)・合板ベニヤ板(compensato)・塗装(verniciare)といった他のデザイン起業家には見られない特徴的な言葉が出現していますが、これは彼がエバニスタ(高級家具職人)の一族出身の起業家だからです。パオロによれば、父は信じられないような匠の技を備えたエバニスタであり、樹木の心材で合板を作り、それから飛行機のプロペラを作ったということです―具体的には、心材を合板化する際、分厚い心材をすり減らすと自動的に曲がってしまうけれども、三つの軸を設けて、化粧張り加工や木目に逆らう微細加工によって木目を遮るなら、曲がらずに安定しているということであり、この飛行機のプロペラを作る際のテクニックを応用して、わずかな木材しか使わずに自ら直立できる家具を制作し、最後に塗装を施しました。19世紀末まで家具は、頑丈で重厚なものでしたが、大量生産できないので、ここブリアンツァで合板を発明することを通じて、多くの人々の家具需要に応えることができたとうことです。そのほかにも、父は、寝台脇の小机(comodino)や食器棚(buffet)を自ら制作しました。パオロは、このエバニスタ(高級家具職人)であった父の影響もあって、12歳までは飛行機のモデルを制作するモデリスタであり、接着剤としてはアイジングラス(colla di pesce;チョウザメの浮袋から作ったゼラチン)を用いました―16歳までにエバニスタの技芸を習得。

ボッフィ1


また、共起ネットワーク図中にガレージ・倉庫(capannone)や、のこぎり(sega)を何度も挽く場所という意味のレセーガ(resega)という用語が見られますが、これは、イタリア随一の家具産地と知られるブリアンツァの家具生産システムを説明しているためです。ブリアンツァでは、家族の銘々がベッド・テーブル・寝台脇の小机などを制作する一方で、それらの家具を購入した商人の方でトータルコーディネートを行って寝室や食堂といった部屋全体を設えていました―報酬は、半分は材料で、もう半分は現金で受け取っていましたが、彼ら家具職人は、個人では家具を制作するための機械を所有しておらず、それぞれの地区の協同組合が、ガレージ・倉庫にそういった機械を5~6セット保有していました。
このような背景を持つボッフィ社ですが、1980年代でも売り上げの9割はイタリア国内であげていました。1989年に経営パートナーのロベルト・ガヴァッツィ(Roberto Gavazzi)に経営権が移ってから、ガヴァッツィは1998年にバスルームデザインに特化した初の単一ブランドショップ「ボッフィ・ソルフェリーノ(Solferino)」をオープンし、その後も世界各地に多数出店し、直営22店舗、提携店48店舗を展開するようになりました―それに伴い2004年にはイタリア国外での売上高が50%に達したということです(2015年には、デ・パドヴァ社を買収)。

1.1 デザインマネジメント


エバニスタの一族出身でありながら、パオロの兄のディーノ(Dino)はミラノ工科大で建築を学んだ建築家であり、1953年に友人のアスティとファーヴレ(Asti e Favre)にCシリーズ(図2)というキッチンをデザインさせました。これは、ポリエステルでラッカー(漆)塗りされた取っ手(引手)が特徴的な製品であり、ボッフィはこのCシリーズとともに生まれたということです。透明なポリエステルの樹脂(resina)を着色することを思いついたのは、兄ディーノであり、これによって世界で初めて、カラー・ポリエステルによるラッカー(漆)塗りのキッチンが実現しました。システムキッチンのT12を1960年のトリエンナーレに出展した当時は、この着色されたポリエステルの樹脂を用いて、プラスチックのラミネート(薄板)と木材との接合を試行錯誤している最中だったということです。

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ジュリオ・カステッリが、「戦後のイタリアのデザインを作った十名の人を挙げてください」と質問したところ、パオロは、「ピエモンテの偽バロック様式(finto barocco piemontese)やキッペンダーレ(chippendale)様式に対抗して、勇気をもって独自の家具を作った人々がおり、ディーノ・ガヴィーナ、ロベルト・ポッジ(Roberto Poggi)、エツィオ・ロンギ(Ezio Longhi)、ルイジ・ソルマーニ(Lugi Sormani)、ディーノ・ボッフィ、ジャンフランコ・ベルニーニ(Gianfranco Bernini)、チェーザレ・カッシーナ、ピエリーノ・ブスネッリィ、と君ジュリオだ。」と答えています。ピエモンテの偽バロック様式というのは、18世紀のエバニスタであったピエトロ・ピフェッティ(Pietro Piffetti)が制作した家具に見られるような、フランスのロココ調様式を採り入れつつも、金色や銀色のケバケバしい装飾が施されたものであり、他方、キッペンダーレ様式とは、ゴシック・ロココ・オリエンタルな要素をごちゃ混ぜにした悪趣味な様式とされるものです。フルー社を扱ったnoteで触れたように、一つの椅子の中に各時代の様式美をごちゃ混ぜにするのではなく、最低でも一つの部屋をロココ調様式の家具調度品で統一するといった措置を取らないと、モルテーニを扱った前noteで述べた悪趣味つまりキッチュを感じさせる折衷主義に陥ってしまいます。もちろん、インテリアを構成する際、たとえば、ダヌンツィオをテーマにして部屋を構成する場合などには、各時代の様式美の文法に縛られることなく、テーマに合致した家具調度品を配置することも可能ですが、舞台装飾の技法を身に付けた上級者向けのインテリア手法でしょう―そういったインテリアの事例として、舞台装飾家のチェーザレ・ロヴァッティ(Cesare Rovatti)によるインテリア作品集を挙げることができます。ロヴァッティは、ヴィスコンティ・デシーカ・アントニオーニ・パソリーニなどの映画監督と協働した経験を、インテリアや建築といった日常の生活空間へ移転してきたということです。最後に、パオロは、記憶に残ったデザイナーとして、ジョエ・コロンボとルイジ・マッソーニを挙げています。コロンボは、それぞれの外壁面がリビング・寝室・キッチンエリアとして機能するような6m四方のセントラル・インテリアシステムを試作しましたが、製品化はされませんでした(その夭逝が惜しまれますが、コロンボは、数十年先の未来の生活様式を直観できる非常に才能あるデザイナーでした。)。また、マッソーニは、自動車の座席シートをランチャ(Lancia)のために、食器類をクリストーフレ(Christofle)社のためにデザインし、皮革製品や香水で有名なナッツァレーノ・ガブリエッリ(Nazareno Gabrielli)社、ポルトローナ・フラウ社、日用品を手掛けるグッツィーニ(Guzzini)社、陶器のポッツィ(Pozzi)社などと協業しましたが、その大きな功績は忘れられているということです。

次に、1988年からボッフィ社のCEOであるロベルト・ガヴァッツィ(Roberto Gavazzi)の証言に移りましょう。ジュリオ・カステッリが、投資ファンドのオペラ代表兼B&B Italiaの株主であるレナート・プレーティ(Renato Preti)にインタビューしたところ、「これからB&B の商品を指揮監督するのは、マーケティング・マネージャーだ。」と言われたという話を聞いて、ガヴァッツィは、インタビューアーのジュリオと同じく、「家具・インテリア分野では、特別な感性を備えた起業家こそが自社の商品を指揮監督すべきだ。」と証言しています。言い換えれば、マーケティング・マネージャーによる指揮監督は、情熱・感性・品の良さ・将来を見通す(デザイン起業家の)能力が大切にされない低レベルの企業で機能するのであり、スタイリストが高級ファッション企業の魂であると同様に、家具・インテリア企業の魂は経営者ではなく起業家であり、かくして、家具・インテリア分野の業務は、高級ファッションの業務と似ていると証言しています―アート・ディレクターは必須ではないが、ピエロ・リッソーニのような才人がいれば大変有利だとも述べています。
ガヴァッツィによると、キッチンは、かつてはドイツが優位でイタリアはもっぱら国内市場で勝負しており、海外市場開拓のための流通網を整備するためにスナイデロ(Snaidero)社などは、ドイツのラショナル(Rational)社とフランスのアルツゥール・ボネ(Arthur Bonnet)社を買収して企業規模を拡大し、その後は典型的な大企業が辿るコースを歩んだということです。キッチンのような複雑な製品を遠隔地で売るためには、流通網の企画・発送業務・輸送・設置・サポートといった一連の問題に対応すべく、大きな企業規模が必要ですが、中小企業の多いイタリアの家具産業はそれに対応できなかったというわけです。他方、ボッフィという単一ブランドのみを扱う店舗を海外で展開すべく企業規模を拡大すると、デザインを重視する起業家精神が失われ、マーケティング・マネージャーによる指揮監督が前面に出て来ることになります。
ここで、二国間の隔たりは、物理的な距離に加えて、宗教や言語などの文化的な違い、そして政治制度上の違い、さらには貧富の差や一人当たりの所得といったマクロ経済状況の違い、によっても影響を受けるとするCAGEモデル(*)を用いると、イタリアからたとえば中国へ任意の製品を輸出するときのCAGE距離が9558であるのに対し、日本からは599に過ぎません。CAGE距離が599ということは、イタリアがフィンランド(586)やイスラエル(623)などへ製品を輸出する際の難易度と同等ということになり、木製の高級な家具やキッチンを中国に輸出する際には、日本に圧倒的に地の利があります。
インタビューアーのジュリオ・カステッリは、家具調度品一式(Arredo)が、家具(mobile)・照明(illuminazione)、浴室/トイレ-キッチン(bagno-cucina)の三つの分野から構成されるとし、ボッフィ社のビジネス領域である「浴室/トイレ-キッチン」についてそのビジネス上の特徴や海外市場の状況について次のようにガヴァッツィに語らせています。それによると2m×3mの部屋に過ぎなかった浴室/トイレという領域に、90年代半ばにデザインが入ってきてインテリアの一部(arredobagno)となったのですが、当時は、タイル業者と蛇口取り扱い業者などの意向が異なっているがためにもっぱら高級品を取り扱う業者で構成されるネットワークを作るのが難しく、結果として、互いに異なる方向を向いている業者の間で職人が途方に暮れることがあったということです(その後、ボッフィの高級な製品ラインで取引ネットワークを統一しました。)。浴室/トイレという領域は、キッチン市場の6分の1~7分の1の大きさしかなく、同社の総売り上げの30%を超えることはないだろうけれども、トイレ・蛇口・付属品・浴槽・照明・上塗り塗装といった全ての要素を考えるなら、今後の成長が大いに期待できるということです。
ブスネッリィ率いるB&B社のようなデザイン性の高い家具を扱っている企業が、5年といった短期間に売上高を2倍にすることは難しい理由として、世界の文化レベルがデザイン志向に達していないことを指摘した後、ガヴァッツィは、海外とイタリアでキッチンの市場特性に違いがあることを次のように述べています。「イタリア以外のスイス・ドイツ・オーストリアそして米国では、住居を購入すると予めキッチンが住居の一部として含まれており、キッチンを住居に付帯する設備ではなくインテリアの一部として捉えるのはイタリア市場に限られる。最近の米国では、住居購入時に予め据え付けるキッチンがますます高級化しており、かくして売上という点では問題になっておらず、他方、スイスでは、全ての住居にキッチンの設置が法律で義務付けられており、国民一人当たりで考えた場合、ボッフィにとってNo.1の市場となっている。スイスは、上記の4つの国の中で最もデザイン志向である反面、フランスは伝統志向であり、デザインは要求されていない。」
ガヴァッツィによれば、ディーノ・ボッフィこそが、キッチン製品の成功の秘訣がデザインにあることを見抜いた最初の人であり、他社に先駆けて膠で接着したプラスチックの取っ手を発明し、Cシリーズでは内部までラッカー塗の塗装を施しました。現在取り組んでいるのは、大きな洋服ダンス(armadio)のようなキッチンのための戸棚のプロジェクトで、これは、管状のアルミニウム構造を備え、内部が空洞になった大きな戸棚の中に、洗濯機・冷蔵庫・トースター等の家電製品の全てを入れつつ、自由に棚板(ripiano)やボックスも入れることができるというものであり、そういった“大きな洋服ダンス”があることで、キッチンを居間の一部として目立たなくすることができるということです(そういった大きな洋服ダンスは、料理や洗い物をする大きなテーブルの前に置くことになるでしょう。)。言い換えれば、米国市場で典型的に見られるような「居間と空間を共有し、居間の一部となったキッチン(cucina a vista;オープンキッチン)」では、居間とキッチンのインテリアを統一的に扱えるという利点がある反面、ドルフレースによれば居間にいる客人や家族とのお喋りに没頭して料理が疎かになる、あるいは、簡単な料理しか作らなくなって家庭料理の伝統が破壊されるので、居間とキッチンが別々になったタイプのキッチン(cucina separata)の方が望ましいということです―居間とキッチンを分離させる場合、ガラス戸や演劇/オペラの舞台のカーテンのようなパネル壁(quinta)を用いることになりますが、このパネル壁(quinta)が、後にオフィス空間で仕切り用のパネルとして使われるようになったことはオフィス家具に関する前回のnoteで触れました。
最後に、ガヴァッツィは、高度な職人仕事と塗装のノウハウを持つ家具産地のブリアンツァという拠点から離れることはない、と述べています。ボッフィ社は、木材製品の業務について垂直統合しており、特に塗装を自社内部で行えるのが強みだということです(アルミニウム加工にも長けており、延べ棒を調達して、求めに応じて加工が可能)。ブリアンツァのような特殊なシステムが存在しない他の北イタリアのエリアの方が、労賃の安い中国との競争に晒されて拠点をルーマニアに移すなど、産地として危機に陥っていると彼は指摘しています。

2 エラム


14歳つまり1942年から家具職人であった父の仕事を手伝っていたエツィオ・ロンギ(Ezio Longhi)が、1951年に近代的な機械と硝酸セルロースの処理機能を備えた新たなスタジオを立ち上げたのがエラム社の始まりです。ロンギの共起ネットワーク図(図3)では、家具職人特有の用語が散見されることから、出自として典型的な家具職人の家系を持った起業家の特徴がよく表れています。

図3 Longhi


椅子やソファーの骨組みである木製フレーム(fusto)、木くずから作った合板(truciolare)、詰め物をする(imbottire)、陰刻師(intagliatore)、椅子張り職人(tappezziere)などがそういった家具職人特有の用語であり、ロンギは幼いころから工房を兼ねた自宅で木くずを用いて列車や家の模型を制作し、同時に、デザインの夜間学校にも通ったため、自分でデザインした家具を自分で制作することができました―後に20代半ばになって、デザインを本職とする自分よりも優れたデザイナーの助けが必要であることを自覚することができたのは、このデザインの夜間学校に通った経験のおかげです。以下はイタリアで最も定評のある家具産地ブリアンツァで育ったロンギの説明による1900年から1930年頃までの家具制作の様子であり、それによると、椅子やソファーの骨組みである木製フレームを作るには、多くの作業工程が必要であり、それぞれの工程に特化した職人が存在しました。まず、厚さが2~5cmの材木から木を鋸で挽いてフレーム部品を作り、ドリル(il girabacchino)で穴を開け、木ネジをその穴に入れて仮に組み立てます。続いて装飾上の効果がある様々なタイプの縦溝(scanalatura)を施す機械(toupie)を扱う職人(tupista)の手を経て、最後に、ロンギの父の生業であった立体的な陰刻を施す職人(intagliatore)が制作した陰刻をソファーや椅子に糊付けしてフランスや米国に出荷したということです(縦溝を施す機械には、捩じったり、真っ直ぐにしたりするタイプのものもあり、それらを駆使して、ヨットの膨らんだ三角帆のようなかたちや餃子のような厚みを持った半月のかたちなども制作できました。
戦後になると、ロンギの父は、木板を購入して椅子の骨組みを作って椅子張り職人に販売するようになりました。椅子張り職人は、購入した骨組みを磨き上げ(つやだし塗装を行い)、詰め物をし、最終製品として販売していましたが、骨組みを作る自分達よりも椅子張り職人らが4~5倍稼いでいるのを見て、ブリアンツァでニトロセルロース用いたスプレー塗装の技術を習得したロンギは、自らも最終生産物であるソファーや椅子を作ろうと考えましたが、競合することになる椅子張り職人らが自分達から骨組みを購入しなくなることを恐れ、小さなテーブルを制作するに留めたということです(スポンジを使ったアルコール塗装から、ニトロセルロースを用いつつ、ポリエステルやポリウレタンによるラッカー塗りへの移行が、戦後にブリアンツァで起きた大きな変化であるとも証言しています。)。
興行の世界と繋がっていたかったロンギは、メダの街のマッテオッティ通りで芸能人を集めて素敵なパーティを連日催し、その様子がエルマンノ・オルミ(Ermanno Olmi)監督によって撮られて“土地柄”(Il posto;1960年)という映画になったということです。日々の暮らしの中で自社の製品を用いることのメリットを映画や雑誌を通じて訴えるのも、イタリアのデザイン起業家の特徴です。様々なデザイナーとの協業を経て、1956年にはミラノサローネに参画するなどしてきたエラム社ですが、1999年からは、家具会社のティセッタンタ・グループ(Tisettanta group)傘下に入りました。

エラム3

2.1 デザインマネジメント


ロンギは、当時多数のプロジェクトを抱えていたザヌーゾに会うのに1年間待たされましたが、エラム社に富をもたらしたのは、やっとのことでザヌーゾにデザインしてもらったE6という洋服ダンスで、このタンスは、それまでの伝統とは異なり、取っ手や鍵がないものであったということです。他方、全売り上げの15%しか占めなかったけれども、企業アイデンティティの確立に役立ったのは、同様にザヌーゾが手掛けたオーダーメードのE5(図4)というキッチンでした。これは、“キッチン界のフェラーリ”であり―当時の宣伝文句は、「世界で最も高価なキッチンは、オーダーメードキッチンのエラムです。」でした―、元首相のアンドレオッティ(Andreotti)、オリベッティ、フィアット創業者のアニェッリィ(Agnelli)など、政財界のVIPがその顧客でした(ボッフィが、市場の中で高級キッチン分野を手つかずの状態で残しておいてくれた間隙を縫って、エラム社が進出したのです)。E5は、オーブンなどの家電が格納されるようになっており、また、取っ手も目立たないように工夫され、収納スペースの棚もボッフィの45㎝と比べて大きめの60㎝もありました。ロンギが度肝を抜かれたE5の設計思想は、居住空間の一部としてキッチンを捉えることにより、キッチンと一体化した食堂(ダイニング)が消え、居間の一部となったキッチンがインテリアの評価対象になったということです。E5が成功したので、ジョエ・コロンボやメンディーニに新たなタイプのキッチンのデザインを委託してみましたが、その提案はザヌーゾのE5とは異なり、実現不可能なものであったため採用しませんでした。他方、80年代になってミケーレ・デルッキとメンディーニに依頼した結果生まれたElam Unoは、実現しました。ロンギによれば、70年代は、労働争議が頻発する政治の季節であり、何か新しいことをしたかったので、自分が財政支援する雑誌Modoの編集長であるメンディーニに依頼して1年間アート・ディレクターになってもらったということです。

3 終わりにーキッチン・浴室の将来像

本noteでは、ボッフィとエラム社のキッチンの事例を採り上げたので、ここでイタリアにおける家電などのホームアプライアンス(設備)の付置に関する基本的な考えを確認しておきましょう(図5)。まず、家電などの設備をインテリアの主役として目立たせるか、周囲のインテリアに溶け込ませて目立たせないようにするか(カモフラージュ)という縦軸と、それらの家電設備を住居内で拡散させるか(各部屋に水場があるのは拡散パターンである)、一か所に集中させるか、という横軸から、四つのパターンが導き出されます。第1象限で示されているのは、インテリアの主役としての洗濯機であり、階段の下に設置されるという意味で拡散パターンに準じています。第2象限は、インテリアの主役―集中パターンであり、調理家電や食器一式を格納する眺めの良い棚がインテリアの主役となっています。第3象限は、カモフラージュ―集中パターンであり、押し入れの発想法に基づき、必要な家電設備一式が棚に格納できるようになっています。第4象限は、カモフラージュ―拡散パターンであり、この例ですとPCが周囲に溶け込んで目立ちません。

図5キッチン

図5を頭の隅に入れつつ、現在は、各部屋の境界が曖昧になってきていることを踏まえると、たとえば未来のキッチンのプロジェクト(図6)は、オープンスペース⇔非オープンスペース、集中⇔拡散、インテリアの主役⇔カモフラージュ、という三つの軸からその基本コンセプトを策定することができます。たとえば、チッテーリオがデザインした最近のアークリネアのキッチンは、「インテリアの主役ーリビングキッチンー拡散」パターンとなっています(具体的なプロジェクトの走らせ方については、わたしに相談してみてください。)。

図6未来キッチン1

さて、キッチンではなく、未来の浴室のプロジェクトはどのように考えたらよいのでしょうか?ここでも世界No.1デザイン先進国であるイタリアは、ファンタジー溢れる独創的なことを考えており、さすがです。ファンタジーや詩の次元があるから、そのデザインプロジェクトは魅力的なものになるのです。バッチのフラワーレメディをテーマとしたお風呂では、いつも様々な花がお風呂に浮いており、壁のタイルも花柄でしょうーコンセプト策定から入りましょう。

図7ファンタジー

将来の浴室は、湯舟・トイレの鉢・洗面台一式・シャワーヘッド・蛇口等々について個々人の好み(テイスト)に合致したものとなるでしょうが、ビデはいらなそうです。日本人の場合、ビデで体の一部を洗うのでは、湿度や風の吹き方を体の全体で感じることができず、季節の移り変わりに対して鈍感になってしまいますーそれは田植え等の農作業の時期を間違えるという致命的なミス・死活問題に繋がります(多田道太郎(1973)「遊びと日本人ー風呂の楽しみ」朝日ジャーナルより)。かくして季節の移り変わりに対して身体を敏感にするため、湯舟に全身を浸る必要があるのです。

(*)https://www.ghemawat.com/cage

画像出典:冒頭写真:https://bit.ly/3ClXMkA,https://bit.ly/3nnp9a0,https://bit.ly/30xMRaN、図2:https://bit.ly/3Fp7TqG、図4:https://bit.ly/3nhe2iB,https://bit.ly/3kGPX37、図5:Branzi,A.(ed.)(2007),Capire il Design, Giunti Editore, p.267、Indesit Company e Design Innovation(2012), Materials driven design. Il progetto Eldomat, Dodici Edizioni, pp.27-29、図6:https://bit.ly/3FnKBl4,https://bit.ly/3DmBNLH


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