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イタリア:デザイン起業家列伝(1/15)

これから、本場のデザイン経営の仕方を連載していきます。まずは、家具分野では珍しい女性のデザイン起業家を二人取り上げましょう。それは、マッダレーナ・デ・パドヴァ(Maddalena De Padova)とパトリツィア・モローソ(Patrizia Moroso)です。なお本noteは、拙著『イタリアのデザイン思考とデザインマネジメント』の第5章に基づいています。

1.デ・パドヴァ

創業者のマッダレーナ・デ・パドヴァ(Maddalena De Padova)と夫のフェルナンドが、1955年にデンマークを旅行し、輸入したデンマークの家具をミラノの小さな店舗で展示したのがデ・パドヴァ社の始まりです。彼女は、パトリツィア・モローソ(Patrizia Moroso)とともに、イタリアの家具業界では珍しい女性の起業家です。彼女のインタビューデータを分析した共起ネットワーク図(図1)に、チャールズ・イームズ(Charles Eames)、アレクサンダー・ジラール(Alexander Girard)、デンマークといった他のデザイン起業家には見られない用語が出現しているのは、彼女が、北欧のスカジナビアとアメリカの家具文化を初めてイタリアに紹介した人だからです。デ・パドヴァ社は、2015年には、キッチン・浴室を手掛けるBoffi社傘下となり、2019年にはボッフィ-デ・パドヴァグループにADL社も資本参加しています。

図3モローソ

1.1 デザインマネジメント


デ・パドヴァは、以前トリエンナーレで見た北欧家具の簡素な美しさを記憶に留めていたこともあって、デンマーク旅行後に輸入するようになったデンマークの家具をミラノの小さな店舗で展示していました。その展示の仕方は、当時としては画期的なもので、あたかも自宅の住環境がガラス越しに透けて見えるかのような展示でした(図2)―当時の彼女の店舗は、テクノ社のボルサーニ兄弟が率いるテクノ社の店舗との競合に太刀打ちできないだろうと言われていました。彼女が北欧の家具を評価するのは、それが民主的な生活様式を体現しているからで、黒ずんで古めかしい家具と重々しいカーテンから構成されていたミラノの上流階級の家具文化と対照的だからです。彼女は、1960年頃、テキスタイルデザイナーのアレクサンダー・ジラールから、モダンな家具とポップアートのオブジェを上手に組み合わせるセンスを教わりました、それは当時のイタリアでは珍しい趣向で、大衆芸術(l’arte popolare)に対する美的センスを備えていたピエル・パオロ・パッソリーニ監督が撮った映画メディア(Medea)の中で表現されるような趣向でした(共起ネットワーク図にはpasolliniの名前も出現しています。)―要するに、北欧やアメリカの家具文化は、ルキノ・ヴィスコンティのような貴族趣味とは対極に位置するような民主的なものでした。デ・パドヴァは、1957年にスイスのバーゼルで、チャールズ&レイ・イームズがデザインしたワイヤー・チェア(Wire Chair)に魅せられ、製造元のハーマン・ミラー(Herman Miller)からライセンスを供与してもらい、イームズの家具をイタリアで製造販売するようになりますが、イームズの家具は当時のアメリカでさほど人気がなく、ミラー社としてもイームズコレクションを販売するのを躊躇っていたということです(イームズの家具は美しいとデ・パドヴァが太鼓判を押したことにより、ミラー社も再販に対して前向きになったのでした。)。

図2 depadova

アメリカ旅行では、簡素な美しさを備えたシェーカー教徒の家具に触れ、イタリアで初めてシェーカー教徒の家具展を実施しました―ミラー社はシェーカー教徒の家具から常に着想(インスピレーション)を得ていたということです。ミラー社の家具をデ・パドヴァが愛好するのは、それがホーム・オフィスの理念を当時としては先駆的に表現しているからでしたのだが、そうした理念を理解したのは、もっぱら建築家でした。彼女は、再婚相手であるヴィーコ・マジストレッティと、イームズ等のアメリカのデザイナーのデザインの仕方について比較しています。それによれば、マジストレッティは、コンセプトに基づいてデザインするが、イームズらは、製品の細部仕様を厳密に定義するということです。具体的には、マジストレッティは、スケッチやアイディアに基づいて、椅子・ベッド・ソファをイメージします―それらのイメージが直観的に沸いて出てきます―が、他方、アメリカ人は、模倣・コピーされづらいような家具を作ろうとするので、高価で複雑なテクノロジーを用いる傾向があるということです。マジストレッティが提示する幾つかの家具について、それらからインテリア空間をイメージすることを彼女は心がけていましたが、それは、簡素な美しさと流行に捉われないことを軸として、様々な家具やオブジェを組み合わせてインテリア空間をイメージすることの重要性をアメリカ人デザイナーから学んだためでした。カスティリィオーニが展示空間をデザインし、家具デザインについてはマジストレッティが担当していましたが、デ・パドヴァ自身も、旅先で気に入った家具をイタリアに輸入するに留まらず、家具文化について学習が進むにつれ、家具やインテリア空間のイメージを自分で思い描くことができるようになったということです―要するに、デザイナーに対して自分で思い描くイメージを伝えることができるようになりました。なお、1980年頃、デ・パドヴァが、デンマークやシェーカー風の家具(ストライプの入った簡素な白いソファー)を店頭に展示したところ、マジストレッティは、「おめえ、なんちゅうことすんねん。そんなことをしたらイタリアンデザインは危機に陥ってしまう。終わりだ。」と述べたということです(とはいうものの、ザヌーソの娘がそういった家具を購入していきました。)。マジストレッティの発言は、1960年にG.Canella,V.Gregotti,G.Aulentiらが<<Nuovi disegni per il mobile italiano>>という展示会を開いて、ネオリバティ様式と呼ばれるような家具を発表して以来、ドイツの合理主義を克服するような詩情溢れる家具文化の創造を目指してきた建築家の立場からのものでしょう。
そのほか、彼女は、トーネット(Thonet)の椅子をリメイクしたシルバー(Silver)という椅子や、ディーター・ラムス(Dieter Rams)がデザインしたオフィス用の本棚(606 Universal Shelving System)をブナ材ではなくアルミニウムを用いて再販したところ、ベストセラー商品の一つになったことなどを証言しています。

2.モローソ

前節のデ・パドヴァに続いて、モローソ社を率いるパトリツィア・モローソ(Patrizia Moroso)も女性の起業家です。彼女の父アゴスティーノ(Agostino)は、イタリア北部フリウリ州のウーディネ近郊にあったバルチャー(Walcher)という会社でソファーを作っていましたが、1960年に自ら工場を開設して独立しました。当時学生であったチッテリオの才能を見抜いたという点で先見の明があった父は、1968年から10年の間、彼にアート・ディレクターを依頼しています。現在、モロソ社には、70名を超える熟練の職人がおり、高級住宅や法人向けの大口契約のためのプロジェクトに注力しています。

2.1 デザインマネジメント


二代目となるモローソは、文学者のウンベルト・エーコのために設置され、美術・音楽・舞台芸術を総合的に学ぶことのできるボローニャ大学のDams(Discipline delle arti, della musica e dello spettacolo)で学んでいる最中に、ボリディズモ(Bolidismo)と呼ばれる新たな空力デザインの提唱者であるマッシモ・イオサ・ギーニ(Massimo Iosa Ghini)と知り合い、父が経営する故郷の会社に戻ってからギーニと協働して椅子などを作りました。ボリディズモは、機械との共存に驚きつつ、速いことは美しいとするかつての未来派の美学(=速度美)を踏襲しており、1986年前後にネット時代を予感したギーニ等のデザイナーが、空力学を駆使して、複数の場所に同時に自分が所属しているという感覚を家具などにおいて表現したデザイン史上の一つの潮流です―なお、自分が複数の場所に同時に属しているという感覚は、詩人のフェルナンド・ペソアがかつて表現したものです。ギーニとの協働を皮切りとして、その後、建築家のレンツォ・ピアノ(Renzo Piano)、彫刻家のロン・アラド(Ron Arad)、喜多俊之、パトリツィア・ウルキオーラ(Patricia Urquiola)などと協働していきます(図3の彼女の共起ネットワーク図には、こういったデザイナーの名前が出現しています)。

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なお、1970年代後半から1980年代初頭にかけてイタリアの家具産業は沈滞しており、モローソ社としては、マーケティングとデザインのどちらかを活用して、自らのブランドを確立する必要があったということです。モロソによると、マーケティングは、既に為されたことを反映した過去の時系列データに依拠している一方で、社会はマーケティングよりも速く進んでおり、社会や人間行動の専門家とともに将来を展望するような調査(ヴィジョナリー・リサーチ)の方を好むということです雑誌ヴォーグ(vogue)での広告宣伝を通じてブランドを確立するようなことをしていれば、会社は存続できなかっただろう、とも述べています。当該企業を典型的に代表するような製品のデザインを通じて、自社の企業アイデンティティを確固たるものにし得るのです。モロソ社の企業アイデンティティを確立するという点で、彫刻家のロン・アラドとの協業は多くの示唆を含んでいます。アラドは、カルテル社のためにブック・ワーム(Book worm)などをデザインしていますが、モローソが行ったことは、鋼でできてはいるが、あたかも椅子のように見えるアラドの彫刻作品を柔らかいソファーとして量産化することでした。具体的には、アラド自身が自分の彫刻作品に革を張ったりして価格を抑えて量産化しようとしましたが、限界があり、量産化のための問題解決はモローソ社に委ねられました。こうして生まれたのがビッグ・イージィー(Big Easy)と呼ばれるソファーです。芸術作品を量産化する際、(家具分野では)元々の芸術作品は彫刻されたものであることが多いので、デザイン経営の実践のためには、展示会等で見かける現代的な彫刻作品を日用品に転化できないかどうか常日頃チェックする必要があるでしょう。ビッグ・イージィーに関するモロソ社の製品ラインは、15万ドルする鋼でできた一点ものの芸術作品から、通常のソファーを経て、600~700ドルの最も安価なプラスチック製のものまでで構成されているのが特徴です。ドムスアカデミー初代校長であったG.ドルフレースによると、一点ものの芸術作品やコンセプトカーなどは、現在のトレンドを増幅・強調したものとして位置づけられるのであり、一点ものの芸術作品やコンセプトカーによって流行やトレンドを新たに引き起こすのではないと指摘しています。芸術作品を眺める起業家は、現在のトレンドの最終形態がそこで表現されていないか、気を配るのが望ましいということになるでしょう。なお、ロン・アラドは、モローソ社にとってベストセラーの一つとなる「ビクトリア&アルベリ(Victoria and Alberi)」というソファーもデザインしています。

moroso図2


次に、喜多俊之氏の卒業制作作品であった「猿山」という椅子を製品化していますが、この椅子の面白さは、生命の息吹を感じさせるような有機的なかたちをしている点にあるということです。猿山は、二足歩行を始めた人類が初めて牧草地や岩(猿山のかたち)に座ったときに、様々な座り方をしただろうということ(座り方の様々な可能性)を想起させるものです。猿山は、肘掛け椅子の歴史を持たない日本人がデザインしたものとして、元々は玉座に端を発している西洋の椅子の伝統と対比できます―西洋では椅子は、王の玉座を意味しており、デザインされるありとあらゆる椅子は、原型(アーキタイプ)としての玉座を反復していると言われる反面、日本では畳が西洋の椅子に相当し、立つのではなく座って部屋の中で過ごしてきたため天井は低く、座高の目の高さからインテリア全体を眺めているという指摘があります(なお、イタリアのインテリアデザイン理論では、すべての家具は、下から何かを支える系列のものと、何かを収納する系列のものに分かれますが、椅子は当然、下から何かを支える系列の家具に属し、そのモデルは優雅な馬です。)。
コンスタンティン・ガルティッツ(Konstantin Grcic)との協働プロジェクトでは、射出成型によるドーナッツ型椅子のオソロム(Osorom)を実現させました―オッソ(Osso)は「骨」という意味でその外観は骨格を感じさせます。当初オソロムの模型は直径220㎝もあり、ファイバーグラスを使って手作りで仕上げられたが、ラピッドプロトタイピング(積層造型法)の手法を用い、ハイレック(Hirec)と呼ばれるポリマー素材(スポンジ状だが硬い表面を備えた膨らむ重合体)を用いることで直径120㎝にまで縮減することに成功したということです(二つのお椀を重ねるようにして作りました。)。
現在、モロソ社にとって重要なデザイナーは、ピエロ・リッソーニのデザイン・スタジオで学んだパトリツィア・ウルキオーラであり、肘掛け椅子のフィヨルド(Fiord)やソファーのローランド(Lowland)などをデザインしているということです。
Damsで学んだ経験から、モローソは、デザイン・美術・写真・建築などが融合した総合芸術が人間に刺激を与えて情緒を喚起する一方で、これらの要素が個々人の内に存すると考えており、モローソ社として現代アートに関するコンテストを実施し、芸術家を支援しています。なお、G.ドルフレースは、「工業化によって階級間の壁が取り払われたが、労働者階級が目指している富裕層(ブルジョワジー)の側でも、前衛的な芸術運動に対して耳を傾けず、暗愚な状態に陥っているので、知識人の側で、品の良さ(Buon Gusto)を社会全体に行き届かせるために戦わねばならない。」と述べており、労働者階級がブルジョワ化しても現代芸術を美学的に判断するような教養が直ちに身に付くわけではなく、モロソが受けたような芸術教育が必要ということになるでしょう。

3.終わりに

ロン・アラドが制作した彫刻作品のアウラを工業製品に移転したモローソの取り組みは高く評価されるでしょう。アレッシィは、人が椅子を買うのは、その椅子の機能や性能ではなく、その椅子に恋をするからだと述べていますが、家具を含めて日用品の制作(プロトタイプの制作)を芸術家に委託することで、製品に詩情を付与することができます(デザイン経営において製品に詩情を付与する様々な方法を徐々に紹介していきます)。次に、アーティストが制作した芸術作品の量産可能性(技術面での製造可能性)をデザイン経営では検討することになりますー必要なら世界中の見本市を回って、量産に必要な技術を探しましょう。また、インテリアを学習するについて、新たな家具のイメージをデ・パドヴァが思い浮かべることができるようになったことは大変示唆的です。つまり、製品開発すべき新たな調度品をイメージできるように、デザイン経営ではインテリアを学ぶ必要があるということです。さらに、ギーニの空力デザインではないですが、様々なデザイナーと協業するので、デザイナーの設計思想(デザイン理論)について学んでおく必要もあります。そして、ファッション分野でよく行われている現代アートの支援活動を、モローソが行ったように家具・日用品分野でも行う必要があるでしょうー現代アートは、新製品開発の着想源ですので。

画像出所:冒頭の図:左https://bit.ly/3C4pX7q, 右https://bit.ly/2YwVpxw,図2: https://bit.ly/3kmlMhC, Gnocchi,D.(2006),È De Padova.50 years of Design,Federico Motta,p.9, https://bit.ly/3C4b0SX, 図4:https://bit.ly/3c0zZfu, https://bit.ly/3qyo1lw, https://bit.ly/3D7jI4d, https://bit.ly/3C66vHD, https://bit.ly/31QzUZZ, https://bit.ly/3D4bdaj


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