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ひきこもり搾取③マスコミと支援団体から利用されないために

定義する権力と名詞化の功罪

➁からの続き/

「ひきこもり」という言葉が容易にレッテル化するのはなぜかと言えば、
それが動詞ではなく名詞だからです。

「ひきこもる」という動詞を用いて、「ひきこもっている」人とか「ひきこもっていた」人と表現すれば、レッテル貼りは起こりにくい。
それらの言語表現は、人の属性ではなく状態を表しているからです。

いうまでもなく動詞とは動きを表す品詞であり、「ひきこもる」という動詞は状態を示す流動的なものです。過去に「ひきこもっていた」人はその状態から脱して今があるのだし、現在「ひきこもっている」人にもそこから脱け出す道は開かれています。

持続期間が数週間か数年かはわかりませんが、固定された特性や属性を表すものではない以上、可能性は常に開かれている。それは「ひきこもっている」から「ひきこもっていない」へ移行する可能性です。

でも、「ひきこもり」という名詞を使うと、様子ががらりと変わってくる。

名詞は名づけのための品詞です。名前をつけることで対象を定義する「力」がある。それは権力と言っていいほど強い力です。マスコミの人たち、たとえばNHKで社会的弱者の「感動ポルノ」を作っている人たちは、名詞がもつ名づけの力をよくわかった上で行使しています(注)

「ひきこもっている人」ではなく「ひきこもりの人」と表現されてしまうと、ひきこもりという属性が付与され、「ひきこもり」が固定されてしまいます。蝶をピンで留めて標本にするように、名詞は対象を固定します。一定の型に嵌めて、動けなくする。こうして自由を奪い、可能性を閉ざすのです。

名詞にはこういった強制力があるので、名づけには慎重でなければならない。ところが「ひきこもり」という名詞は、専門家による啓発活動とメディアの宣伝もあって、今や世間に広まっています。名詞による「名づけ」は動詞による「状態の描写」よりも、ずっと分かりやすいからです。

私はこれこそが「ひきこもり問題」の端緒ではないかと考えています。
さまざまな理由で社会的に孤立している人、あるいは孤立していないまでもはみ出している人を「ひきこもり」と名づけることで、多くの問題が生じるのです。

①レッテル貼りが起こる
先述の通り、「ひきこもり」という名詞はレッテルとして機能し、差別と偏見を助長する傾向があります。新しい言葉が作られ概念が定義される過程で、それまでは見過ごされていたことが社会現象として “クローズアップ” されるのです。

たとえば、定職につかずに「ぶらぶらしている」人はいつの時代にも一定数いるものですが、「ひきこもり」と名づけることで実際以上に事態が深刻であるかのような印象を与えます。

NHKのテレビ番組「クローズアップ現代」「あさイチ」が女性のひきこもりを取り上げた際には、「働いていないことに負い目を感じている主婦」を登場させることで、印象操作がおこなわれました。それを見た視聴者からは「私、専業主婦だけどひきこもりなの?」と困惑する声も出ています。

ただのぶらぶらしてる人や普通の主婦に「ひきこもり」というラベルをつけることで、問題を抱えている人に仕立ててしまう。余計なお世話以外の何ものでもありません。

➁無理やり定義を明確化しようとして、分断を招く
現在は厚労省の公式見解として、「狭義の」ひきこもりと「広義」のひきこもりという分類がされていますが、このように区分することに何の意味があるのでしょうか? 区分すれば支援しやすくなる、とでもいうのかな。

厚労省のガイドライン。外出頻度を目安にひきこもりを分類してる。「準ひきこもり」ってなんだろう?必要最低限しか外出しない人って、今どき珍しくないと思いますけどね。

ひきこもってしまう事情は人それぞれです。にもかかわらず、背景にある問題(精神疾患、DV、虐待、雇用問題、貧困など)から先に手を付けずに、いきなり「ひきこもり」というカテゴリーでひとくくりにする。しかるのちに、「広義のひきこもり」「狭義のひきこもり」「準ひきこもり」などという小分類に区分して支援しようとする。
そんなやり方でうまくいくはずがないのです。クローズアップ現代の「女性のひきこもり」特集がそうであったように、「ひきこもり」のラベルを貼ることでかえって実態が見えにくくなってしまう。

しかも、そのようなランク分けによって当事者間に暗黙の序列がつくられ、分断が生じます。

最近よくあるのが、「ひきこもり」の真偽を問うたり、深刻度によってランク付けしたりする傾向ですが、これほどナンセンスなことはありません。
「あなたはひきこもりには見えない。偽物だ」「私の方が深刻だ。私こそ本物のひきこもりだ」と争ったところで、何の得があるのでしょうか? 限られた社会資源をめぐる争いだということはわかるのですが、第三者からは内輪もめにしか見えないし、理解や共感を得にくいのではないでしょうか。

③社会ではなく個人へと責任が転嫁される
環境の影響や社会的文脈を抜きにして、「孤立」について語ることはできません。ところが、「社会的孤立」ではなく「ひきこもり」と称することにより、社会的文脈から問題が切り離されます。こうして、人を孤立させる社会や環境の側にある要因は深く追及されず、改善を求める契機は失われてしまうのです。

あとは個人の問題ということになるので、本人が頑張るか家族が頑張るか、という道しか残されていません。これはきついよね。

④当事者が社会から切り離されて、囲い込まれる
こうして社会的文脈から切り離された当事者はよりいっそう脆弱になり、支援団体からのアプローチを受け容れやすくなります。そして、団体の用意する「居場所」や「当事者会」、「家族会」へと吸い込まれていく……。
カルト宗教と構図が似てる、怖いなあ、と感じるのは気のせいでしょうか?



※次回こそ、支援団体にまつわる “怖い話” をする予定です。お楽しみに!


【注】「こもりびと」という造語を広めたのは、他ならぬNHKです。

「こもりびと」は「ひきこもり」に比べてソフトな印象を与える言葉ですが、実のところ「ひきこもり」よりもたちが悪く、差別を助長するおそれがあります。「ひきこもり人」というように助詞を間に挟むならまだしも、「こもりびと(人)」とすることで、属性と人が直接的に、分かちがたく結び付いてしまうからです。

だから、ひきこもり当事者にとって「こもりびと」の呼称を使うことは、危うさをはらんでいるのです。

一方、報道する側にとっては、この呼称のもつ分かりやすさとインパクトは大いにメリットになります。語感の柔らかさも、女性を中心として「ひきこもり」を語る際には、さぞかし有利に働くでしょう。

耳障りのいい言葉ほど危険だということです。みなさまどうかお気を付けください。

【追記】支援団体の闇を書こうとしてたら、絶妙なタイミングで界隈の「大物」から、NHKクロ現の捏造報道について問題発言が……詳細は以下の記事をご覧ください!



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