短編小説『過去は消してしまえ』
何年か前、東京でオリンピックが開催された年を境にして、Twitterでは過去のツイートの削除が流行した。就職を控える若者たちは特に、過去のどのツイートが就職活動にマイナスの効果をもたらすか、自分では把握できないため、とりあえず全てのツイートを削除した。それまで「ツイ消し」は、後ろめたさのある当人が何か突っ込まれる前に種を消してしまう「逃げ」の恥ずべき行為として、むしろ糾弾されていたが、自らの身を守るのに恥も外聞もなくなってしまった。
「その日のツイートその日のうちに」をキャッチコピーにした政府主導のキャンペーンが始まり、就活を控える若者以外も、こぞってツイートを削除しはじめた。若者の間で「ツイ消し」が流行っていると知り、ワイドショーは当初、嘆かわしいという論調が主流であったが、キャンペーンがはじまったら途端に識者の皆さんが、ツイ消しを競うようになった。ツイ消しが当たり前となり、消さない大人たちは一斉に非難の的となった。「公共の交通機関でマスクをしない連中は、だいたいツイ消ししない」とされ、マスクをしているのにツイ消ししない連中は「むっつり」と呼ばれることになった。やがて左派は「むっつり」と混同されることとなり、「む左」と呼ばれ、「む左苦しい」と忌み嫌われることになった。ここぞとばかりに政府はツイ消しを奨励し、ツイ消しをしない個人の本名住所電話番号を晒すことができる「改正個人情報漏洩法」を可決。あわせてツイ消しが流行り出した頃からの懸案であった「スクリーンショット規制法」までも可決成立させてしまった。一般人がスクリーンショットした場合、5年以下の懲役もしくは禁錮、または100万円以下の罰金が科されることとなった。スクリーンショットをするには国家資格が必要となり、資格試験を受けるには与党政治家の縁故が必要らしかった。無論、表向きは誰でも受験可能であるが、合格するためには与党政治家の縁故が不可欠らしかった。
過去を記録しない風潮を、これ幸いとばかりに、政府は次から次へと公文書を焼き捨てていった。反対派のむ左たちの意見は、したり顔で太鼓持ちの識者の面々に罵倒され、知らずうちに無かったことにされていった。政府の強権を誰もが恐ろしいと思ったが、反面誰もがありがたがってもいた。ある識者はかつて酔っ払い運転の挙句、轢き逃げしたうえでカーセックスをした過去を抹消することができたし、またある識者は盗撮と痴漢を繰り返した学生時代の黒歴史がすべて消し去られたことに安堵した。国会で酒を飲みながら答弁していた元首相のあぶちゃんは、お蕎麦の老舗が新たに学校を作るのに、国有地をお友達価格で不当に安く売却した盛り蕎麦学園問題や、岡山県の大学に新たに蕎麦学部を作るのに、あぶちゃんのお友達の蕎麦打ち職人を優遇したことに端を発するかけ蕎麦学園問題、はたまた、実業家の佐倉オミール氏との癒着が問題となった佐倉オミール会など、あらゆる疑惑に関する公文書が世論の後押しにより、盛大に焼却されたのであった。過去を捨てることは「究極の断捨離」として奨励され、期間中に全てのツイートを消した者には3000円分のQUOカードが進呈された。履歴書も併せて消したものには5000円分の商品券が付いた。む左はやがて消さない過去を一億総国民から検索をかけられ、小学1年の頃に給食袋を忘れたことや、中学生の頃のトイレでの喫煙などを必要以上に糾弾され、精神を病み、覚えていたことすべてを思い出せないようになってしまった。
私は真田早苗、38歳独身。いまから結婚案内所に薦められた男と初めて会うのだが、お相手の男性の情報がまったくない。1ミリもない。私の情報も彼には1ミリも入っていないはずである。東京でオリンピックが開かれた頃の私の情報はさすがに持ってはいないだろう。犯罪に手を染めた覚えはないが、当時の私は道徳的には非難されても仕方のないことを繰り返していた。「真田早苗」で検索をかけたら、次のワードには「ぶさいく」「不倫」「すきもの」「ビッチ」ほか、好き放題な予測ワードが祭りのようであった。幸い、いまはTwitterをはじめ、あらゆるネット情報が24時間ですべて消去されることになったし、スクリーンショットの有資格者以外はスクリーンショットをしてその情報を記憶することもできない。スクショ規制法では、他にもネット情報をメモして残すことについても好ましくないとしているし、なにより今は紙の無駄遣いが犯罪である。いずれにせよ、東京でオリンピックがあった年を境に、過去の情報の削除が奨励され、やがて強制されることになったおかげで、私は新しい人生が歩めることになった。目の前に現れたお見合い相手の男が自己紹介をはじめた。
「はじめまして。高山高志といいます。将来のために先日スクリーンショット士の資格を取りました」男の目が光った。
#令和3年7月22日 #コラム #エッセイ #日記
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