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生産性至上主義の産むディストピア

『新潮』7月号に数学を軸に活動する独立研究者、森田真生さんと、農業史を専門とする学者、藤原辰史さんの対談が掲載されており、非常に面白かったです。森田さんいわく、回り道や道草を省いて得られるのが「効率」「生産性」。しかし、「生産性」とは本来、あくまで生産する行為の副産物なのではないかと。生産することはまず何よりも「喜び(pleasure)」であり、「生産性(productivity)」はそのおまけに過ぎないと。そうした話の流れで、「性行為」も、DNAが子孫に継承されるのは行為する喜びの副産物にすぎない、というわけです。

これはまさにその通りで、人は子供を産むために行為するわけでなく、もちろんそういう場合もあるとは思いますが、それでも、その出産願望の前にやっぱり「やりたい」から「やる」わけで、この本能的な好奇心は否定されてはならないことなのです。「生産性」や「効率」にばかり目を向ける世の中というのは突き詰めていけば「出産を目的としないセックスはこれを禁ず」という世界になってしまいます。そこには「セックスをするからには必ず出産に結びつけなさい」という圧力が加わり、できなければ下等扱い、できれば上等というような差別を助長しかねません。子沢山のお母さんが女王のように崇められ、そうかと思えば子のいない女は世間様から石礫を投げつけられる。「生産性」を追い求めすぎれば、行き着く先にはそういう世界ができあがりかねません。

ずいぶん極端なことを書いているとは思いますが、非常事態下においては、人はいくらでも狂気を帯びるものである、ということは戦時下の手記を読んでみてもわかりますし、(なんて偉そうに書いてみましたが今日の京都新聞文化面にそんなことが書いてあったのを朧げに覚えているだけ)なにより、いま、コロナ禍において、人が極端な思想に流れてゆく様を皆、俯瞰したり自覚したりしているのではないでしょうかしら。

最近なんとなく感じるのは、端っこのほうが落ち着きやすい。真ん中はあっちに振れてこっちに振れてゆらゆらするから不安定です。端っこにいて端っこの側を向いていれば、視野は狭くなりますが、がっちり安定はします。世の中が不安定になると、心の拠り所として人は端っこへ端っこへと進みたくなるのではないかしら。いま、みんなして、端っこを探し求めている気がします。楽なほうへ楽なほうへ進んでいるともいえます。自分だってそうかもしれません。楽なほうへ行ききると考えることをやめてしまいます。本来賢いはずなのにアホになってしまいます。そのように仕向けている人がいるようにも思います。そのように仕向けている人が、殊更に強調するのが「効率」とか「生産性」なのではないかと思います。

「効率」とか「生産性」を振り翳し、世の中に存在する「余白」や「無駄」つまり「喜び」から背を向けさせようとしているような気がします。私たちはもっともっと、「無駄」を楽しむべきだと思います。なんの「生産性」もないものに命を賭してもいいと思います。こないだTwitterで回ってきましたが、甲本ヒロトが「楽」と「楽しい」は違うと言っていたそうです。楽しく生きるには苦労しなくちゃいけないと言っていたそうです。私はその「苦労」こそが「喜び」であるのだと思います。

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