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水無月と、うわずみ京都マニア

6月30日は一年の折り返し。
京都では、この日に水無月というお菓子を食する風習があります。いろいろ聞いてると京都だけではないみたいですが、いずれにせよ、京都の人がこの「6月30日に水無月を食す」という習慣を大事にしていることは間違いありません。

さて。
そんな6月30日。
今日は不思議な体験をしました。
京都生まれ京都育ち、生粋の京都の人と、長らく京都に住んでるけど地方から京都に来た人の2人どちらともが、ある同じ京都の有名和菓子店の水無月を買ったことについて語っていたんです。2人はまったく別のタイミングでそれぞれ1人で(かどうかはわかりませんが)その老舗で水無月を購入。どちらからも「やっぱりそのお店の水無月じゃないとね」という話を聞いたわけなんですが、これが生粋の京都さんと地方さんとでは、同じ話をしていても、こちらの受け止め方にとてつもない大きな差が生まれていたという不思議な体験なんです。

本当に申し訳ないですが、地方さんの語りには「ほんまか、おまえ?」と思ってしまう。同じ声でも京都さんが語ると「ふむふむ、そんなもんなんですねぇ」と感心する。誰の発言かによって、こうも受け止め方が変わるものかと自分でも驚いてしまいました。

京都を語るのに、「よそもん」であることは限りなく不利なんである。逆に京都を語るのに、京都で生まれ京都で育った人ほど説得力をもつ人はいないと思う。私が穿った見方をしているだけではないか、と思うかもしれませんし、実際そういう部分があるのは事実だと思いますが、しかし、こういう見方をする人は私の肌感覚では非常に多いと思う。「ああ、京都の人でない人がなんかしらん、京都の人みたいなことしたはって、なんやしらん、あそこのお店の水無月やないとあかんやなんて、京都の人みたいなこと言うたはる、おもろい人ですな〜」みたいなことを、京都の人じゃなくても思うのだと思う。

自分もけっこう京都のことを語りたがることがありましたが、近頃は軽々しく「京都」を話題にすることが怖い。というか、恥ずかしさがある。京都の人だらけの町で、さも京都のことを知っているかのように京都を語ることが、なんか、格好悪いことのように思えてしまうのです。語りやすい町じゃないですか。「いけず」とか「年中行事」とか「行事食」とか「老舗」とか。うわずみだけで十分語れてしまうから、二層め三層めへと潜り込むことなく、うわずみだけで語りがちで、その薄っぺらい話が通じてしまうものだから、「うわずみ京都マニア」ばかり増えてしまう。自分は自分がまさにその「うわずみ京都マニア」であると、何がきっかけかわからないけど自覚した時があり、以来、少しずつ少しずつ、似たような「うわずみ京都マニア」を見ると「おまえさん、よう恥ずかしげもなしにそんな誰でも知っとるようなことを語れるな」などと思うようになってしまい、そういう自分はどうやねん?と、自分の底の浅さを反省したりもするのです。

京都のラジオ局で京都の情報を発信する身としては、これは実に難しい問題なんです。デリケートなんです。そのデリケートさにもっと真剣に向き合わないといけないんです。真剣に向き合えば向き合うほど、「水無月はどこそこのお店じゃないとね」みたいなことを私たち地方から来た人間は軽はずみに発言してはならないのです。

ああ、なんで恐ろしい町なのっ!!?

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