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人の食べたお皿につまようじ

ここ数日、すごく面白いアイデアを思い付いたのに数分後には忘れている、ということが頻繁に起こり、しかも残念なことに「この気付きはとても素晴らしいものだからメモなんかしなくても覚えているはず!」と感じたことだけ覚えているんですよね。非常に悔しいのでメモを取ることにしました。

政界には岸田ノートがあり、球界には丸ノートがあるように、私に涌井ノートがあってもいいと思う。というわけで今日スマートフォンにメモしたものを確認してみる。

【人の食べたお皿につまようじ置くのも躊躇】

これは「はなまるうどん」でお昼を食べた時のメモです。「はなまるうどん」は食べ終えたら食器を置く場所があるじゃないですか。あの場所のこと、なんていうんでしたかね。メモしてないから忘れてしまいました。とにかくわかりますよね。あそこ。あそこに食べ終えたおわんを置いたんです。で、そのあとに歯に何か挟まっているからつまようじで歯間をぐいぐいやったんです。そのつまようじを、さあ、自分の食べたおわんに入れようと思ったら、「あれ?オレの食べたやつ、どれやったかな?」と、これまたメモしてないものだから、自分のものがどれかわからなくなってしまったのです。この時に私は「他の誰かの食べたあとのおわんに自分のつまようじを入れるのはイヤだ」と思ったのです。あとは洗われるだけですし、私も他の誰かも食べ終わっているものですし、直接触れるわけでもないですし、おそらく本来ならば、別に私の使ったつまようじが他の誰かの食べ終えたおわんの上に置かれたとして、別に何も不衛生なこともないし、問題はないように思うんですが、不思議と直感的に「イヤだ」と思ってしまったわけでして、そういう直感を理屈より大切にして生きていきたいと思うのです。

【新京極や寺町が昔より輝いてないのは僕のせい】

「はなまるうどん」でお昼を食べたあと、軽く街中を散歩してみて、新京極や寺町のあたりにたどり着いたら、中学生の頃にはじめてこのあたりにやってきた時の胸の高鳴りを思い出しましてね。あの頃、非日常でキラキラしていた商店街に対して、今はなんら特別な思いを抱かないのは、別に商店街が悪いのではなく、私が商店街に選ばれなくなったということなのかしら?と寂しい気持ちになった次第でございます。

【ブラックフライデー日本の行事ももっと流行らせればいいのに】

商店街を歩いていますと「ブラックフライデー」がえらくプッシュされていたので、それはそれで悪いことではないのですが、やたらハロウィンやクリスマスやイースターやらで盛り上がるくらいなら、もっと「重陽の節句うぇーい!」みたいなことがあってもいいのではないかしら。

【『わたしを離さないで』p119 泣ける!】

これはカズオ・イシグロの『わたしを離さないで』の119ページが泣けたというメモ。以下はその箇所の引用。

それは『ダンス曲二十選』というテープでした。フルオーケストラの社交ダンス曲集。あとで再生してみるまで、内容はわかりませんでしたが、ジュディ・ブリッジウォーターとは似ても似つかないものだろうとは、手渡されたときに想像がつきました。でも、思えば、ルースには違いがわかるはずがなかったのです。音楽の「お」の字も知らないルースでした。きっと、このテープが前のテープの代わりになると信じて手に入れてくれたのでしょう。そう思ったとき、わたしの落胆はたちまち薄れていき、心の底から感謝の念と幸福感が湧いてきました。

この部分でボロボロと涙がこぼれてしまいました。感謝してくれてる!ありがとう!って思いました。

ちゃんとメモしてたおかげでいろいろ書いてまとめられました。

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