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物差しは何本あってもいいですからね

『文學界』9月号に千早茜さんのエッセイが掲載されていました。小柄な千早さんは、昔から「小さくて可愛らしいねー」というような褒められ方をしたのですが、千早さんは、その「小さくて可愛らしい自分」が嫌いだったみたいです。

千早さんが身長の低さについてこぼすと、「いいじゃない、女の子は小さい方が」「小柄な女性って可愛いじゃないですか」「小さい人は高いヒールを履けるじゃない。背が高いのは縮められないんだからましだよ」「身体のパーツが小さくて女らしい」「男は見上げられるのが好きだから得だよ」と、まあ、こんな言葉ばかり返ってきて「聞き飽きた」んだそうです。

それら「聞き飽きた台詞」を発している人たちは、「身長が低いこと」を悩んでいる人に対して、「身長が低いのは悪いことじゃない」という自分の物差しでフォローしているつもりかもしれませんが、当人にとってそれはなんの解決にもならず、むしろ、自分が理解されないことに絶望感が増すだけなんじゃないかと思うんです。

私はラジオの仕事をしていて、台本を書くうえで、「置きにいってしまう」というか、当たり障りなく、「今後の動きが注目されています」とか、「ということなのかもしれません」とか、薄ぼんやりと曖昧にしておくことで責任を回避しがちだったりすることに悩んでいた時に、そのことについてこぼしたところ、「そんなこと気にしなけりゃいいんですよ!」と言われ、どん底へ蹴落とされたことがあります。私の悩んでいることについて、その人はその人の感覚で「つまらないこと」と断じてしまっているわけです。確かにつまらないことでしょう。あなたにとっては。

こういうことが、今まで生きてきたなかで、いくらでもあります。何かしら、誰かに悩み事をそれなりの覚悟を持って打ち明けたにも拘らず、その人の物差しで「つまらないことで悩んでるんじゃないよ」と言ってしまうのは、時として、相手を奈落の底に落としてしまう残酷な事なのだということについて、あまりにも自覚がない人がいるんですよね。

これについては、割とずっと悩んでいたことであり、しかも、この悩みだけは他人に「つまらないことは気にしなくていいですよ」と言われたくないものですから、これまで人に打ち明けずにいたものなのですが、今回、千早茜さんのエッセイを読み、「ああ、やっぱり同じようなことで悩んでいる方がいるのね!」と、失礼かもしれないけれど、嬉しさが込み上げてしまったのでした。

人間関係においては、施しが攻撃になり、時に致命傷を負わせることがあります。無自覚に周りに致命傷を負わし続けてる人もいると思います。自分はどうなんだろうか、ということを省みたとき、やっぱり大切なことは、自分の物差し以外に何本も物差しを持っておくことであり、その物差しをどこで手に入れられるのか、といえば、本を読んだり映画を観たりスポーツ観戦したり、そして何より、いろんな人と接して、絶望感を味わい、奈落の底に落とされた経験があったから、気づけたことなのだとすれば、それはそれで絶望だったりする。逞しく生きていくために、負わなければならない深い傷もあるのですね。そうやって納得させるしかないくらいの深い傷ともいえる。

#令和3年8月13日  #コラム #エッセイ #日記
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