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エッセイ『セーラー服のおっさん』

令和4年10月7日

 本日の朝日新聞に『「不健全」の理屈』という特集記事があり、とても面白かったです。コロナ対策の給付金をめぐる裁判で、国が性風俗業について「本質的に不健全」と主張したことを受けた特集記事なんですが、この記事のなかのミッツ・マングローブさんの文章がよかった。

 ドラァグクイーンやスナックママを経て、テレビなどで活躍されているミッツ・マングローブさんは、性風俗産業に対して国が「不健全」という言葉を使うことに、さほど驚きはしないといいます。いわく、国や政治が「お天道様」だとしたら、私のような人間を含め、「お天道様の下にはいない人たち」も存在し、日本は今はまだそういう国なのだと。

 ミッツ・マングローブさんはご自身がメディアに出ているのも、決してオカマが日の当たる存在になったからではなく、違う世界の人をのぞき見てみたい、自分たちが言えないことを彼らに代弁してもらいたいという、そんな健全な世界にある、窮屈な空気の「ガス抜き」みたいな存在として重宝されているのだといいます。

 さらに「私は不健全です、女のなり損ないです、男の出来損ないです」って言ってしまった方が喜んでもらえる構造があり、その構造を健全な側も不健全な側も利用し合っているんだから、「どっこいどっこいだ」とも。

 面白いのが、「この記事にしても、私にしっかり役割分担させています。わざわざ不健全な人を呼んで、「不健全ですが?」と話してもらおうという魂胆が見え見えです。」と書いているところで、朝日新聞もこれには苦笑いするしかなかったんではないでしょうか。結局、朝日新聞も「構造」を利用しているのであり、それを物の見事にミッツ・マングローブさんに見抜かれてしまっているのですが、ひょっとして、それを見越したうえでミッツ・マングローブさんに寄稿を依頼していたのかもしれません。

 「健全」の側も「不健全」の側も、どちらも「おいしい」という構造がある以上、「健全」の側からも「不健全」の側からも、この構造を「改善」することに対して「余計なことをするな」と反論する声は大きくなるばかりな気もします。それは例えば、「フェミニズム」に対する反論なんかにも相通ずるものがありますよね。

 ミッツ・マングローブさんは「世の中しきりに「多様性」というけれど、性的マイノリティーをシンボルのように扱っているうちは、多様性への道のりはまだ長いように思います」とも書いています。そのうえで、「私が思う多様性は、生理的な好き嫌いも含めて互いの存在に慣れ、無関心になっていくこと。若い世代の中には、すでに「健全な精神」を持った「不健全な存在」が次々と現れています。彼ら彼女らがどれだけ「無関心な存在」になっていくかが鍵だと思いますが、「不健全さ」に商品価値が見いだされてる限り、日陰者として扱われることは終わらないのかもしれません」ということです。

 書いていて思い出しましたが、先日、私は家族で帰省する際、駅でセーラー服を着たおさげ頭のおじさんを見て、まさに「異形のもの」を見る目で見てしまっていたのですが、そういう目で見ていたら、同じ人を見ていた長男が私に目を合わせてきて、明らかに私の表情をうかがっていたんですが、何年か前の私なら、おそらくきっと、いや、絶対に長男と目を合わせて「やばい人がいるね」とニヤニヤしていたに違いありません。しかし、その時、私は目を合わせてこようとした長男のことを察し、なるべく「異形のもの」を見る目をやめて、何事もなかったかのように装ったのでした。その私を見て長男がどう感じたかはわかりませんが、少なくとも目を合わせてニヤニヤし合うよりは、世の中の複雑さや難解さ、というか、お父ちゃんが、いま、そういうモノの見方について、いろいろ葛藤を抱えているんだということをわかってもらえたんじゃないかと思っているんですが、気のせいかもしれない。

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