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したいけれど、できない。できるけれど、したくない。

昨日の長崎新聞『水や空』にゲーテの名言が載っていました。「人生は次の二つから成り立っている。したいけれど、できない。できるけれど、したくない」。

「したいけれど、できない」は可愛げがありますが「できるけれど、したくない」は自分本意ですね。そのうえ、「俺レベルになるとできないことはないけど」っていう驕り高ぶりが見えます。なんというか、「値打ちこいてる」感じがします。例え本音では「できるけれど、したくない」のだとしても、そうは見せないことも大切なのではないかと、俺レベルになると思うわけです。

いっぽう「したいけれど、できない」のも悲しい。いまは新型コロナウイルス禍、三密を避けるためにやむをえず、あきらめなければならないことも多い。これは私が直接関わっている職場の話ではないのですが、あるイベントについて10年もの間、熱心に取材し続けている方が、今年はそのイベントに参加できなかったらしい。発注元に問い合わせてみたところ「今年は来なくてよろしい」ということだったそうなのですが、とにかくその言い方が失礼極まりないものであったそうで、私なんかは「罰があたったらええと思いますわ!」と話していますと、その方が「犬のうんこ踏めばいいと思う」と言っていたのが実に素敵でありました。そのくらいでいいの?と思いましたが、ひょっとすると犬のうんこを踏むということが彼女にとっては何にも勝るほどの耐えがたい苦行あるいさ屈辱なのかもしれません。

何にどの程度屈辱を感じるか、何をどの程度大切に思っているか、何がどのくらいめんどくさいか、一つ一つ人には物差しがありまして、自分の物差しで相手のそれを計ろうとすると思いのほか、相手を傷つけることになります。さきほどから書いているイベントについても、ひょっとすると発注元が「めんどくさい仕事」だと思っている場合、10年来熱意をもって取材していた人に対しても「めんどくさい仕事だから来なくていいようにしてあげましたよ」くらいの伝え方をし兼ねないわけです。

悲しいのが、こうした仕事の場合、「発注元」と「受ける側」には明らかな力関係が存在するわけで、どれだけ発注元が失礼極まりない対応をしたとて、その力を振りかざされれば受ける側はやむなく受け入れるしかないのです。こういう歪な関係を作らないために努力すべきは「発注元」のほうであると思います。力のある方が細心の注意を払わないと、受ける側にはどうすることもできないことが多すぎます。その立場を悪用する人ばかりいるから困ったものです。

「したいけれど、できない」にはもう一つ、「宇宙飛行士になりたいけれど」とか「お医者さんになりたいけれど」とか、己のスキルが不足していてどうあがいても無理なものもあります。今から一生懸命勉強してもたぶん無理です。若い人たちに四十を越えた私が何回でも何回でもしつこく言い続けたいのは、年を重ねるごとに、どう頑張っても行けない道がたくさん出てくるということ。その道は若い時分にしっかりと勉強しておけば進めたかもしれない道でもあるということ。無数に存在する道をわざわざ自ら閉ざすのではなく、後年どの道に進む気になってもいいように、「学び」には触れるだけ触れておくとよいと思います。未来のことはわからないものです。わからないものに対しては謙虚な姿勢でいるべきです。用心深く生きましょう。どこにいるかわからないウイルスから身を守るためにマスクを着用するように、どこでどう役に立つかわからない学びを身につけておきましょう。

そうすれば「したいけれど、できない」が減って、きっと人生が豊かになるような気がするんですよねー。知らんけど。

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