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「オレのバイアス」を語りたい

今日も思いついたことをスマートフォンのメモ帳に記しておきました。このメモが人生に気付きを与えてくれる気がします。気のせいである可能性は高いです。というわけで今日メモした言葉たちを振り返ります。

【おっさんは事実ではなく「オレのバイアス」を語りたい】

これは自戒も込めてということになるのですが、おっさんは決して事実を語りません。事実についてどう思ったかを語ります。事実よりそちらのほうが遥かに比重が大きいのです。

11月18日の北海道新聞『卓上四季』に民藝運動の創始者・柳宗悦の言葉が紹介されていました。「人は何かを通して眺めてしまう。直下(じきげ)に見ずば物そのものには触れ難い」。先入観や余計な分別をもって眺めては真体には迫れないと書いてありました。

「何か」というのがまさに「バイアス」。物事の本質を見通すためにはバイアスを除かなければならないというのに、我々おっさんは「俺のバイアス」を語りたがりますよね。俺がこの人生で得てきた「物の見方」というものを自分より立場の低い人たちに語りたがりがちです。私はそのことを非常にかっこ悪いことだと思いますが、そんな私でさえ、こうして実際に書いてしまっている以上、似たようなことをしているという自覚はありますが、私が感じる限りでは全くそのことを自覚していないおっさんが、何も意見することができなさそうな連中を相手に「俺のバイアス」を自慢げに語る場面にはよく出くわします。カッコ悪いから止めたほうがいいと思うのですが、残念ながら、私もそのおっさんより立場の低い人間なので、こんなに芯を突くようなことを直接言うことはできません。
情けないと思われるかもしれませんが、実際問題、そんなものでしょう。立場の低い人間は本音で話したりはしないものです。

【「深い」「こだわり」「癒し」】

この3つの言葉は、あまり使いたくない御三家です。「深い」については、テレビでよく見る「今でしょ」の林先生が「深いっていうやつはだいたい話を聞いてない」みたいなことを言っていたのを何かで知って以来、「確かにそうだな」と思い、使わないようにしています。実際、気をつけて人々の会話を聞いていると「深いな〜」「深いっすね」なんて感想を述べる人が本当にそう思っていると見受けられることなんてほとんどありません。よくあるパターンは「深いですね」と頷きながら話の展開のさせ方を考えているパターン。もしくは「とりあえず深いと言うておけばこのおっさん、喜ぶやろ」という舐めた態度。そして、その程度の「深いですね」にまんざらでもない底の浅いおっさん。ああ、ここでもまた私は自戒を込めなければなりません。

「こだわり」とか「癒し」とかも、なんとな〜くちょっとベーシックなネガティブを感じてしまうんですよね。「癒し」は疲れてるのが常態になってるのがなんか悲しいし、「こだわり」っていう言葉には、なんか頑固さがクローズアップされちゃう感じがあって、漠然と、そういうんじゃないんやけどな〜っていうのがあったりします。「大事にしていること」と「こだわり」には実は結構な隔たりがあると思うんですよね。っていうのが私が「大事にしていること」であり、決して「こだわり」ではない。

かといって、私はこの「御三家」を全否定しているわけではなく、「深い」「こだわり」「癒し」を使うのが正解である場合も多いので、あまり「この言葉は使わない!」と頑なになってしまうと、無駄な苦労を自らに課してしまいがちになったりします。まさにつまらない「こだわり」です。

こういうことを書くのが好きなのがおっさんなんです。バイアスなんです。自覚が無いおっさんを知っているおかげで、自覚があるだけマシなのだと思えます。自覚のないバイアスおっさん、ありがとう。

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