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里山へ至る道 閉鎖病棟で出会った、忘れ得ぬ人々
閉じ込められた人々
前回書いたように、私は我に返ってからもすぐに退院することができず、精神病院の閉鎖病棟で過ごさなければならなかったのだが、それ以前は全く交流のなかった他の入院患者たちと交流して過ごした。
私の隣に入院していたのはミズエちゃんという、おそらく30半ばくらいの年齢だったと思うけれども、背が高くほっそりとした女性だった。一日のほとんどを寝て過ごしていて、立っている姿を見たのは薬をも
里山へ至る道 そして心は病んでいった
三人姉妹
前回、私は疳の虫の酷い子供だったと書いたが、それは幼児のときのことだけではなく、小学校の4、5年生くらいまで、癇癪を起すと泣きわめくことをしていたような気がする。外ではとても良い子を演じていたけれども。
そんな自分はダメな人間なんだ。なんとかしなければならないと思ったのもこのころかと思う。
3歳上の姉は、小学生のころは勉強ができて、一生懸命勉強をしていた。だから自分もがんばらなくてはい
里山へ至る道 心を病んで
一番書きたいこと
今から34年前、23歳の夏から秋までの3か月あまりの日々を、私は精神病院の閉鎖病棟の中で過ごした。年齢的には大人になり、人生と呼べるものが始まったときにわが身に降りかかったこの出来事が、その後の私の人生を決定付けたと言えるだろう。
世の中はバブル景気に浮かれていた1988年のことだ。それなのに私は閉鎖病棟の畳の部屋の片隅にボロ雑巾のようにころがっていたのだ。
私の20代、30
里山暮らしはやめられない 田畑に癒されて(前篇)
圧倒的な体験
私が畑仕事を始めたのは、やはり飯舘村へ移住してからだ。飯舘では亡夫彰夫さんが「自然卵養鶏」といって、自家配合の発酵飼料と草などの緑餌で育てる平飼いの養鶏を生業としていたので、良質な鶏糞がふんだんに手に入り肥料にしていたので、大きなカボチャがごろごろ生り、太い大根などもできた。
ここよりも飯舘村の家の方がよほど山奥にあったのだけれども、震災前はなぜか野生動物の被害は全くなかった。なの
里山暮らしはやめられない 2019年9月 福島にて(前篇)
解体を決める
「薪焚く日々」の中でも触れたように、こちらへ移住してから3年目、2019年の冬に飯舘の我が家は解体した。隣にあった古い牛小屋と作業小屋も解体したので更地になった。あれから2年以上が過ぎたから、家の裏にあった竹林が広がり、小さな木も生え始めているかもしれない。
福島で暮らしている間は、移住先が決まった後も、どうしても家を解体することはできなかった。そのまま置いておけば徐々に朽ち果て
里山暮らしはやめられない 薪焚く日々 前篇
思い出の薪ストーブ
我が家では冬は薪ストーブと薪風呂を毎日焚いて暮らしている。
私が薪暮らしを始めたのは、飯舘村に移住した2004年からだ。飯舘の家は薪風呂ではなくて、薪ストーブだけだった。現在我が家で使っている薪ストーブは飯舘村で使っていたもので、亡き夫が2000年に飯舘村に移住したときに買ったものだから、もう22年になる。
実は、このストーブは一度錆びてしまい、こちらに来るときに知人が働い
里山に生かされて はじめに
だから書くことにした
書きたい、書きたいとここ数年ずっと思ってきた。
でも、なかなか書き出せずにいた。
今日、ようやくその一歩を踏み出すことにした。
なぜ書きたいのかといえば、書いて伝えたいことがたくさんあるからというのが一番の理由だけれども、もうひとつは書くことで自分の人生に納得したいということもある。
私は岐阜県恵那市飯地町という、標高600mの山の上で暮らしている。
ここに移住して5年
里山へ至る道 極限状態からの復帰
閉鎖病棟
私が入院した精神病院は3階建てで、真ん中に中庭があった。一階は外来、二階が閉鎖病棟、3階は開放病棟だった。一階の一部は、回復した後も帰る場所がない人たちが暮らす、グループホームのような場所になっていたのかもしれない。一度、そこで行われていた作品展のようなものを見に行った記憶がある。
開放病棟はどうだったのかわからないが、閉鎖病棟は男女で別れていた。私が入った部屋は、今からは考えられない
里山へ至る道 精神病院へ至る道
カルトだったのかもしれない
あの団体はいったい何だったのだろうか?今でもときどき思う。
大学を卒業して就職することもなく家に居るようになった私は、日々をどんなふうに過ごしていたのかあまり覚えていないけれども、名古屋三越のできたばかりのケーキ屋さんでバイトをしたり、アルバイトに行っていたことは覚えている。お菓子を自分で作るのも食べるのも好きだったからだ。
三越でのバイトをどうしてやめたのかは覚えが
里山へ至る道 高度成長期に生まれ育って
私の原風景
私は1965年(昭和40年)、東京オリンピックの次の年に生まれた。
日本は高度成長期の真っ只中で、どんどん物質的に豊かになっていく、右肩上がりの時代だった。
両親と3人姉妹の5人家族。父は大企業のサラリーマン、母は専業主婦、核家族で社宅に暮らす、あの時代の典型的な地方都市の中流家庭だったと思う。
父が勤めていたガス会社の社宅の4階で小学校3年生まで過ごした。社宅には同じ年頃の子どもた
里山暮らしはやめられない 田畑に癒されて 後編
田んぼは水の世界
飯舘村では畑だけでなく田んぼもやっていた。彰夫さんが生きているころは、かなり年季の入った中古のトラクターで田起こし、代掻きをして、やはり年季の入った田植え機を使って田植えをし、稲刈りは近所の家に頼んでやってもらっていた。苗は近所で余ったものを頂いて、除草剤を一回だけ撒いていた。それでも草の勢いに負けて1年分も収穫できなかったように思うけれども、自家製のお米は格別だった。
私は
里山暮らしはやめられない ブルーベリー万歳!
ウサギに食べられた!
前回も少し書いた、飯舘村からここまではるばる運んで来たブルーベリーの木について書こうと思う。
そもそもは、亡夫彰夫さんが亡くなる2年前の春に、小さなポットに入った10㎝ほどしかないブルーベリーの苗を、いろいろな種類を取り揃えて100本ほど購入したことから始まる。
すぐに大きめのポットに植え替えて1年ほど育てて、大きくなったもの数本を地植えしたところ、あっという間にウサギに新
里山暮らしはやめられない その場所で生きるということ
春が来ると・・・
春が来ると、私はそわそわと、収穫カゴとハサミを手に家の周辺を歩き回るようになる。最初はフキノトウ、そして、コシアブラ!コシアブラの木の新芽をいただくのだ。
コシアブラの味を覚えたのは飯舘なのだが、その味と香りが堪らなく好きになり、春の大きな楽しみだった。けれども、避難先の家の周辺にはなくて、避難中は食べることができなかった。こちらへ移住して来ても家の周りは薄暗い人工林ばかりだ
里山暮らしはやめられない 2019年9月 福島にて(後編)
国道6号線
家の解体のための立ち合いをした次の日は、飯舘村で震災前から営んでいた農家レストランを再開した、心優しい飯舘のお母さん、ちえこさんに会いに行く。ちえこさんは福島市内に中古住宅を購入して生活しているのだが、飯舘に通って店を切り盛りしていた。また、飯舘村から山形県小国町に移住した友人、なっちゃんも来てくれて、ちえこさんのお店で3年ぶりに再会。昼食を頂きながら楽しい時間を過ごすことができた。
里山暮らしはやめられない 薪焚く日々 後編
宝の山
薪暮らしにとって重要なことは、なんといっても薪と焚き付けの確保!
飯地では4月の初めまでは薪ストーブを焚きたいくらい寒い日があるけれども、大抵は3月の中ごろには薪はなくなってしまう。「薪小屋をもうひとつ増やして、もっと積んでおかないとね!」と毎年話しているけれども、なかなか実現しない。
薪になる丸太は、間伐したり伐採したりしたときにご近所から結構いただける。それを軽トラで運んで来て、チェ