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里山暮らしはやめられない       その場所で生きるということ

春が来ると・・・

春が来ると、私はそわそわと、収穫カゴとハサミを手に家の周辺を歩き回るようになる。最初はフキノトウ、そして、コシアブラ!コシアブラの木の新芽をいただくのだ。

コシアブラの味を覚えたのは飯舘なのだが、その味と香りが堪らなく好きになり、春の大きな楽しみだった。けれども、避難先の家の周辺にはなくて、避難中は食べることができなかった。こちらへ移住して来ても家の周りは薄暗い人工林ばかりだから諦めていたのだけれども・・・
なんと、我が家の南西に広がる金毘羅山の人工林の中でも、間伐がある程度されている林間は、コシアブラの大群落になっていたのだ!そこは、やはりコシアブラが大好きなお隣のYさんの森なのだけれども、時期になるとわざわざ電話を下さるのだ。「おう、コンテツ(この地方でコシアブラのこと)もう出たぞ!俺はもう食ったぞ!」と。その電話を合図に、私は収穫カゴとハサミを持っていそいそと山を登って採りに行く。大切なことは、一本の木に出ている新芽を全部採ってしまわないこと。全部採ってしまうと木は枯れてしまうからだ。

コシアブラの次には三つ葉、コゴミ、セリ、フキ、ワラビと続いていく。
耕作放棄されて久しい田んぼはセリ畑になっているし、地元の人から見れば、荒らしているようにしか見えない我が家だけれども、山野草の宝庫になっている。どうやら、我が家はあまりきれいに草刈りをしていないことが幸いしているようなのだ。
ひもの草刈り機できれいに草を刈り過ぎると山野草もなくなってしまうようで、地元のおばあちゃんが「フキもなくなってしまった」と嘆いているのを聞いたことがある。
地元の人たちは厳しいまでの美意識を持って、徹底的に草を刈られる。だから驚くほどの美しさだ。それはそれですごいことだなあと思う。でも、私たちにはとても真似できない。だから、できる範囲できれいにして、山野草を楽しむ場所としてこの場所を維持していきたいと思っている。

コシアブラとユキノシタ

少しくらい大丈夫なんだ

その場所で生きるということは、その場所で育ったものを食べるということだと、私は思うのだ。
そして思い出すのは、震災原発事故後の福島での出来事だ。
それは震災の翌年、2012年の秋のことだったと思う。私は福島市飯野町というところで避難生活を送りながら、ヘルパーステーションの事務の仕事をしていた。職場は民家をそのまま利用していて、お年寄りや知的障がいの方の居場所もあり、ヘルパーが交代で昼食を作りみんなで食べていた。

秋のある日、私を含めて3人いる事務のスタッフのひとりが、見たこともないような大きな松茸を持って来たのだ!私たち3人は松茸を真ん中にして「どうする?」と言ったきりしばらく黙り込んだ。
震災前だったら売られてしまって、絶対にこちらに回ってくるようなことはなかったのだけれども、避難地域外とはいえ、放射能が少なからず入っているから出荷することはできない。それでもらったのだと。

「少しぐらい食べても大丈夫!」誰ともなくそう言うと、その日のお昼に松茸ごはんにして食べることに決まった。お昼が近づいてきて、職場中に漂うその香りの素晴らしさを、私は忘れることができない。死ぬ前にもう一度食べたいものは何かと質問されたら、「あの松茸ごはんが食べたい!」ときっと答えるだろうと思うほど、美味しかった。

チェルノブイリ原発事故で強制退去となった村に帰って暮らす人々の日々を映したドキュメンタリー映画『アレクセイと泉』の中で、最も放射能汚染が強いと言われているキノコをおじいさんが森に採りに行くシーンがあり、「我慢する方が身体に悪い」と言っていたことを思い出す。
震災後に飯舘村に帰宅した際に、やはり帰宅していた隣のじいちゃんが「イノハナ(香茸)を採って食った。少しくらい大丈夫なんだ。麻里さんもどうだ」と言っていたのも思い出す。さすがにあの時期に飯舘産のキノコを食べることはできずお断りしたのだけれども。

なんてじいちゃんには断っておきながら、実は私は震災の年の夏に飯舘の我が家のハーブガーデンで実っていたカシス(黒すぐり)を採って来て、ウォッカに漬けて、放射能マークを付けたラベルを貼って半年寝かせて飲んだ。大きな鉢で育てていたブルーベリーを飯舘から運び出し、避難先の家でも育てていたのだが、震災の年の夏にその実でジャムを作り、やはり放射能マークの付いたラベルを貼って保存して食べた。

私は保存食には品名と作った日付を書いたラベルを必ず貼り、食べ終わるとノートに貼って残しているのだが、当時のものを見返すと、震災の年も結構いろいろ作っていたことがわかった。
それにしても、放射能入りのカシスやブルーベリーをわざわざ食べた、あのときの自分の心情はいかなるものだったのだろうかと、我ながら思う。

避難先からここまで運んできた鉢植えのブルーベリー

生き抜く力に

連日、キノコから、野菜から、魚から、イノシシから放射能が検出された!汚染されている!出荷停止だ!食べるな!という報道がされていた。
私はこの「汚染されている」という言葉がものすごく嫌だった。汚染されているではなくて、私たち人間が汚染したのであって、他の生きものたちは被害者だというのに、汚染されているから食べるなとは!
原発事故は、里山、里海を放射能で汚染して、それまで当たり前に営まれていた里山暮らし、その場所で育ったものを食べる暮らしを奪ったのだ。

毎日食べ続ければもちろん害がある。でも、一回だけなら大丈夫だと、震災原発事故後ずっと放射能とともに生きてきた私たちはそう判断したのだ。
政府やマスコミが言っていることを鵜呑みにばかりしていたら、自分の心も身体も守ることはできない。様々な情報が錯綜する中で、自分にとって何が真実なのかを見極める必要があった。
放射能汚染という非常事態において、私たちには自分で考え、判断し、行動する力が身に付いたように思う。

県外の人からすれば、放射能が少なからず入っているものをわざわざ食べるなんて気違い沙汰だと思われたことだろう。あのときはこうして書くことも憚られた。今だから書けるのだ。
当たり前の里山暮らしを奪われた精神的ダメージは計り知れない。目の前に生っている、自分が丹精込めて育ててきたものが、見た目は何一つ問題がないのに、放射能に汚染されているから食べてはいけないなんてことは、あまりにも非現実的すぎて、受け入れがたいことだった。
だから、心が壊れてしまわないためには、少しなら大丈夫という判断のもと食べた方が、私にとっては心身に良い影響を与えたように思う。
あの松茸ごはんを、「放射能入りはおいしいね」などと、ブラックジョークを飛ばしながらみんなで食べることで、私たちはあのときの福島で生き抜くための大きな力を得たように思うのだ。
それにしても、ほんとうに、あの松茸ごはんは美味しかったなあ!

今年の冬は寒く、12月からずっと日陰は根雪になっている。
それでも必ず春はやって来る。
春が来たらまた、毎日収穫カゴとハサミを持って歩き回ろうと思う。
畑も再開して、この土地でできたものを食べて暮らしていきたい。
何があっても、そうすれば生き抜いていけると、
つくづく思う今日この頃だ。

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