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里山へ至る道            極限状態からの復帰

閉鎖病棟

私が入院した精神病院は3階建てで、真ん中に中庭があった。一階は外来、二階が閉鎖病棟、3階は開放病棟だった。一階の一部は、回復した後も帰る場所がない人たちが暮らす、グループホームのような場所になっていたのかもしれない。一度、そこで行われていた作品展のようなものを見に行った記憶がある。
開放病棟はどうだったのかわからないが、閉鎖病棟は男女で別れていた。私が入った部屋は、今からは考えられないけれども畳敷きの3人部屋だった。その部屋の窓際の2畳余りが私に与えられた場所だった。私はガリガリに痩せていたため、病院のせんべい布団では背中が痛くて眠ることができず、母に言ってマットレスを持って来てもらった。
23歳の花の盛りに、ボロ雑巾のように精神病院の片隅にころがっていたのだ。自分はもうこれ以上堕ちるところがないところまで堕ちたと思った。娘がそんなことになってしまって、母はどれほど悲しかったことだろうと思う。

入院したときはまだ夏だったと思うが、お風呂には一週間に一度くらいしか入れなかったように記憶している。それも辛かったが、看護婦が見ている前で服を脱ぎ入らなければならず、すごく屈辱的な思いを味わったことも辛い思い出だ。
一階にあった風呂場へは、暴れたりして手に負えなくなった人が入れられる「保護室」の横を通って階段を下りて行ったのだが、まるでガス室に連れて行かれるような気がしたことを覚えている。
「保護室」には格子の入った小さなガラス窓が高い位置に着いている頑丈そうな扉が付いており、おそらく窓などなく、明かりを付けなければ真っ暗だったのではないだろうか。ここに入れられたらお終いだと思った。

食事はエレベーターで運ばれてきた。こんな不味いものを食べさせられていたら、ますます病気が悪化するんじゃないかと思うような酷い食事だった。
薬は看護師室の窓から渡されるのだが、並んで順番にもらっていた映像が頭に残っていて、テレビで観た、アメリカン・ニューシネマの傑作のひとつ、『カッコーの巣の上で』という精神病院が舞台の映画に、同じように薬をもらう場面が出てきたときには、なんとも言えない気持ちがした。
もちろん、私が入院した病院では映画に出てきたロボトミー手術は行われていないし、アウシュビッツの女看守のような看護師もいなかったけれども、あの映画は私にとってあまりに衝撃的過ぎて、結局全部観ることはできていない。

意識転換

日がな一日どうやって過ごしていたのか覚えていないけれども、過ごすと言っても食事をする以外は何もやることがない訳だから、一日中寝転がっていろいろなことを考え続けていたのだろう。
相変わらず「死にたい、死にたい」と思い続けていて、どうしようもなくなると、看護師室の中に入って行って、どうしてそんなに簡単に手に取れたのかと思うけれども、ハサミを取って持って行こうとしたりした。その度に看護師に抑えられ連行されてベッドに縛り付けられ、強い薬を注射され寝かされていた。

そのときには「保護室には入れないで!」と叫んでいたような覚えがある。傍から見れば狂っているようにしか見えなかっただろうけれども、私の中には冷静なもう一人の自分がいたために「あそこに入れられたら本当に狂ってしまう!あそこだけには入れられないようにしなければ。」と思っていたのだ。そのことを思い出すと苦笑してしまう。
病院での主治医は、院長の息子だという、まだ30代くらいの、すごく暗い雰囲気の先生で、「あなたはアイデンティティクライシスです」と言われたのだが、そのときも、自分の中にいるもう一人の自分が、「アイデンティティクライシスだって?!何言ってるんだろうね、この先生は。自分の方が心を病んでるんじゃないの!」などと、その先生を心の中で揶揄していたことも覚えている。

私は自分や周りをこんなふうに上から見ている、冷徹なもうひとりの自分の存在が嫌で、こいつがいるから自分は誰とも触れ合うことができないんだと思っていて、そのもうひとりの自分を消してしまいたかったのだけれども、その自分が居たおかげで完全に堕ちていかずに済んだのではないだろうか。上から見ているかのように病院での日々を思い出すのは、このもうひとりの自分の記憶だからなのかもしれない。

ベッドに拘束され、強い注射を打たれて寝かされるような状況がどれくらい続いたのかわからないけれども、ある日突然、全身が麻痺してぶっ倒れてしまった。意識ははっきりしていたけれども、身体は全く動かなくなってしまったのだった。
倒れた瞬間、その春亡くなった、母方の祖父の「麻里、生きていけよ」と言う声が聞こえた。
そして、死んでしまうのかもしれないと思ったのに、生きている自分を発見して思ったことは、「生きているってことは、(自分の心の病の体験は)たいしたことじゃなかったんだ。生きているうちに起こることはすべて耐えられることなんだ。ほんとうに耐えられないことが起きたら死なせてもらえる。」ということだった。それは今もはっきり覚えている。
そう思った次の瞬間、自分の中から「死にたい」という言葉が消えて、「生きていたい」という言葉に置き換わったのだった。劇的な意識転換が起こったのだ!

極限状態から至福状態へ

そこからどうやってベッドに運ばれたのかは覚えていない。いつごろ身体が動くようになったかも覚えていないけれども、口が麻痺しているので何も食べることができず、一週間くらいは医務室のベッドで点滴を受けていたことは覚えている。その間、生きているだけでうれしくて仕方がないような、喜びが溢れてきて叫び出したくなるような至福感を味わった。

前回取り上げた『悔悟 オウム真理教元信徒 広瀬健一の手記』に、「極厳修行」と称して、3か月間にも渡って、一日の食事がそば粉とはちみつを練って焼いたもの200gとヨーグルト180ccだけ、睡眠は3時間で瞑想を続けるという修行をしたときのことが書いてあったのだが、始めは苦痛を感じたけれども、やがて天にも昇るような解放感を味わうようになったとあった。
私も体験したように、人はだれでも極限状態に陥ると一転、至福状態に至るものなのだろう。それをオウムの信者は教祖の力のおかげである勘違いしたのだ。自ら進んで行う修行によってそういう境地に至ってしまうと、後へは引き返せないかもしれないとも思う。
広瀬氏は、禅には「悟了同末悟‐悟り終われば凡夫に立ち返る‐」という教えがあり、瞑想によって起こる問題を防ぐための安全装置が備わっているけれども、オウムにはそういう安全装置はなかった。そのことが、反社会的活動へと信者たちを導く原因のひとつになったと書いていた。

私は、徐々に至福感も薄れ、身体の麻痺も治っていき、我に返ったような状態になった。入院する前から、入院後も薬漬けになっていたことが原因だと思うけれども、ぶっ倒れたことがショック療法になって、意識転換が起こったと言えるかもしれない。
でも、たまたまそうなっただけなので、薬漬けの精神医療を肯定することは決してできない。これは34年も前の話しだけれども、現在はどうなのだろうか・・・

スタート地点に立つ

我に返ったからといっても、すぐには退院させてもらえず、その後は他の患者さんたちと交流したりして過ごした。そして、3か月半の入院後退院し、5年に渡った精神科への通院もそれを機にやめて、社会復帰することができたのだった。
社会復帰後に私の新しい人生が始まった訳だけれども、山あり谷ありの、更に波乱万丈な人生が待っていた。この時点で、離人感や対人恐怖や、私が抱える心の問題は解決していた訳ではなく、むしろ、ようやく自分で自分の問題に向き合い、解決していくためのスタート地点に立てたのだと言えるのではないだろうか。

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