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里山へ至る道            閉鎖病棟で出会った、忘れ得ぬ人々

閉じ込められた人々

前回書いたように、私は我に返ってからもすぐに退院することができず、精神病院の閉鎖病棟で過ごさなければならなかったのだが、それ以前は全く交流のなかった他の入院患者たちと交流して過ごした。

私の隣に入院していたのはミズエちゃんという、おそらく30半ばくらいの年齢だったと思うけれども、背が高くほっそりとした女性だった。一日のほとんどを寝て過ごしていて、立っている姿を見たのは薬をもらうときと食事のときだけだった。あんなにも寝ていて身体は痛くならなかったのだろうかと思う。顔色は青白く、いつもつぶっている目は、開けているときも光がなかった。

一日中眉間に深いしわを寄せて目をつぶって寝ているミズエちゃんに、「寝ている間は何を考えているの?」と私は聞いた覚えがある。そのときの答えは「本当はお姉ちゃんの方が病気なのに私が入院させられた」だったような気がする。
車椅子に乗っている写真を見せてくれて、「3階の開放病棟へ移されたのが嫌で飛び降りて怪我して、しばらく車椅子に乗っていた」と、衝撃的な話しをしていたのを覚えている。閉鎖病棟の方が良かったなんて、信じられない話しなのだが、彼女にとっては安住の場所だったのだろうか。
おそらく、20代の初めに入院して、あのときですでに10年以上の長期入院をしていたのではないかと思う。私が入院している間に一度だけ、長身で白髪の上品な感じの父親が面会に来た。

その部屋の入り口側に入院していた人の名前は覚えていない。おかっぱ頭で少女のまま年を取ってしまったかのような人だった。40歳代だっただろうか。まだ病院の外で暮らしていた若いころに歌手の岩崎宏美のファンだったのか、レコードジャケットを畳の上に置いて、マイクを持つ手真似をして歌をずっと歌っていた。
彼女とは会話はできなかった。話しかけてもおどおどした目でこちらを盗み見て、会話にならない言葉を発するのみだった。自分で自分の世話をするのも困難になっていたのだろうか、体臭がきつかった。
私はおそらく母が洗濯物を持ち帰り洗ってきてくれていたと思うのだが、誰も面会に来ないような長期入院の人たちの洗濯や日用品の調達などの生活のあれこれは、いったい誰がやっていたのだろうか?

部屋は違ったけれども、すごく印象深い人がいる。名前は本名かどうかわからないけれども、セイコちゃん。40歳代だったように思う。小太りでぎょろっとした大きな目はいつも充血していて、見た目は怖かった。看護師さんたちと仲良しで、いつも看護師室に入り浸っていた。彼女もかなりの長期入院に違いなかった。昔、名古屋の百貨店松坂屋でエレベーターガールをやっていたとか、嘘か本当かわからない話しをしていた。セイコちゃん、何が好きなの?と聞くと、訳のわからないお菓子の名前を並べて答えてくれた。けれども、それは調子の良いときで、幻聴に苛まれているときは、ぶつぶつ、ぶつぶつ、見えない誰かに向って怒鳴りながら廊下を歩き続けていた。

彼女は毎日、自分の荷物が入った衣装ケースを入り口の鉄の扉の前に積んで、迎えが来るのを待っていた。彼女のところに面会に来た人はいなかったのではないかと思う。前述の岩崎宏美ファンの女性もセイコちゃんも、家族から完全に見放されていたのではないだろうか。

名前は覚えていないけれども、拒食と過食を繰り返していて、入院してきた時は拒食による脱水状態でガリガリに痩せていたのに、入院してからは毎日大量のお菓子を食べてみるみるうちに太ってすぐに退院して行った女性がいた。何を話したのかは忘れてしまったけれども、彼女とはいろいろな話しをした。退院後も通院の時にはお菓子を持って見舞いに来てくれるやさしい人だった。なぜ彼女が拒食と過食を繰り返していたのかはわからなかった。

センガさんという苗字だったと思うけれども、元小学校の教師だったという、品の良い感じの60歳ぐらいの女性も入院してきた。何もしゃべらず、いつも遠くを見るような目をしてぼーっとしていて、食事や薬をもらう時などに、ちょっと手伝ってあげた覚えがある。今思うと彼女は若年性の、レビー小体型認知症だったのではないだろうか。
また、自殺未遂した初老の女性が運び込まれたこともあった。彼女はしばらくベッドで寝ていたのを覚えているが、まもなく退院していった。
おそらく在日韓国人で、すごく背が高くがっちりとした体型の女性が入院してきたのだが、彼女は、夜だったと思うが、暴れて韓国語で喚き散らしていて、男性の看護師が数名やってきて拘束して、おそらく保護室へ入れられたのだろう。

そういう出来事は、私が入院している3か月半の間で一回だけだった。薬で抑えられているということ、女性ばかりだということもあるだろうけれども、誰かが暴れて手に追えない様なことはめったになかったに違いない。
ほとんどの人は静かに過ごしていて、他者に迷惑が及ぶようなことはなかった。それなのに、どうして彼女たちは、長期に渡って閉じ込められなければならなかったのだろうか?

尊厳を傷つけられて

私が退院して、こちらの世界で様々な経験をして過ごしてきた歳月を、ミズエちゃんやセイコちゃんたちは10年一日のごとく送っていたに違いない。あれから34年が過ぎた現在、彼女たちがどうしているのかを知る術もない。
精神病院というところは、社会の中で生き辛さを抱えて行き詰ってしまった人たちが、最後にたどり着く場所なのだろう。一般社会から隔絶されたその場所は、忌み嫌われ、たいていは山の中などにひっそりと存在している。
私はそこで、たった3か月半という短い期間だったけれども、精神を病んだ人間のひとりとして、尊厳を傷つけられる体験をしたのだった。

この体験後、私は精神病院だけでなく、ナチスの強制収容所やハンセン病の隔離施設などに非常に興味を持つようになり、本を読んだり、ドキュメンタリー番組や映画を多く観たりしてきた。そして、極限状態に置かれ、尊厳を傷つけられた人々が、どうすれば尊厳を失わず、精神を破壊されることなく生き抜くことができたのかというテーマについて考え続けてきた。そのテーマが根底にあって、今回もこうして書き続けているのだ。

精神病院に入院できて良かったとは思わないけれども、虐げられてきた人々に対して共感することができるのは、入院した体験があればこそなので、そういう意味では精神病院に入院できて良かったと言えるかもしれない。どんな秘境にも負けない、簡単に行くことができない場所に行ったことがあると、冗談で言ったりするけれど、あそこだけにはもう二度と行きたくない、その一心で生きてきたところはある。
まだ純粋だったあのころに体験したことは深く私の中に刻み込まれ、良くも悪くも、その後の人生に大きな影響を与えてきたように思う。

『オキナワへいこう』

友人の写真家でドキュメンタリー映画作家の大西暢夫氏が2年前に『オキナワヘいこう』という映画を撮った。私は名古屋での上映会に行って、大西さんにも久しぶりに会うことができた。
大西さんと初めての出会った場所は、震災原発事故後の飯舘村の我が家だ。『季刊地域』という雑誌の震災原発事故特集の取材を受けたときに、カメラマンとして記者に同行して来たのだ。
実は彼のデビュー作、ダムに沈んだ岐阜県の徳山村に取材した本『僕の村の宝物』は、亡夫と私の愛読書だったので、大西さんが現れたときはほんとうにうれしかった。それからのご縁なのだ。
大西さんは『精神科看護』という月刊誌のための写真を、20年以上に渡って全国の精神病院を回って撮り続けていて、『ひとりひとりの人―僕が撮った精神科病棟』という写真集も出している。彼の視線はいつも温かくやさしい。

『オキナワへいこう』は、大阪堺市にある、浅香山病院の精神科病棟に長期入院する女性、益田敏子さんの「生涯のうちに一度でいいから、沖縄へ行ってみたい」という夢を聞いた看護師たちが、益田さん夢を実現させようと動き出すところから始まる。そして、もう一人の患者山中信也さんとともに、3泊4日の沖縄旅行を実現させる。そこに至る日々と、患者さんたちの様子、その後の日々を追ったドキュメンタリー映画。

『オキナワへいこう』ポスター

念願の沖縄行きを実現させ、静かに佇み海を眺める敏子さんの背中に一筋の光が差し込むのが見えた。それは10年一日のごとく精神科病棟で過ごして来た彼女の人生に、入院後初めて差し込んだ光なのではないだろうか。
彼女が沖縄へ行ったことは、外の世界で普通に暮らしている私たちには想像できないほど、大きなことなのだと思う。これを実現させるために奔走された看護師さんたちには頭が下がる思いがする。病院に戻った後、明るい顔で語る彼女の姿も含めて、映画にして観せてくれた大西さんに感謝するばかりだ。

と同時にこの映画は、今も多くの人が精神科病棟の中で10年一日のごとく過ごしている、長期入院の問題も浮き彫りにしている。日本は世界に比べても、精神科患者の長期入院が多いと聞いたことがある。調べると、2017年のデーターで、入院患者数は28万人、精神病床は34万床あり、世界の5分の1を占めるとされるという、驚くべき数字があった。
どうしてなのだろうか?

私が敬愛する作家、石牟礼道子が、幼少期の思い出を、虚実を織り交ぜて描いた『椿の海の記』や『あやとりの記』には、“おもかさま”という彼女の祖母が度々登場するのだが、彼女は盲目の狂女だった。それは昭和の初めごろのことだ。
そのころ、彼女が暮らす熊本県の水俣地方では、心を病んだ人たちのことを「神経殿(しんけいどん)」と親しみを込めて呼び、そんな人たちも町の中でいっしょに暮らしていた様子が書かれている。

彼女の祖母おもかさまも、家で家族といっしょに暮らしているのだけれども、町中を裸足で徘徊してしまう。どんなに新しい着物を着せても裾がすぐに裂けてぶら下がってしまうので、まるで藻の様になった着物を引きずりながら、櫛が通らなくなってしまった白髪を振り乱して歩き回る姿は、相当に凄味があったようだ。
幼児のころの石牟礼さん=みっちんはいつもそんなおもかさまに付き添っていたのだった。子どもたちは石をぶつけて囃し立てたりしたけれども、隣にあった娼館の遊女たちは、ものすごくおもかさまにやさしかったとあった。そして、何よりも、婿養子だったみっちんのお父さんが、おもかさまを下にも置かず、すごく大切に扱っていたことも書かれていて、読んでいて心があたたかくなった。

現代の私たちが暮らすこの国は、すべてに渡って不寛容なのだと思う。心に余裕がなく、ちょっとしたことが許せない。受け入れられない。その不寛容さが、多くの精神の病に罹る人々を生み出し、精神病床は増え続け、長期入院という問題を生み出しているではないだろうか。
これは医療だけの問題ではない、現代日本社会のあり方に関わる問題だから、一筋縄ではいかないだろうと思う。寛容な世界にならない限り、解決しないに違いない。
いったいどうすればいいのだろうか?

まずは現状を知ること、忌み嫌い閉じ込めてきた精神科患者に出会うことが大切なのではないだろうか。そういう意味で『オキナワヘいこう』をより多くの人に観てもらえたらと願っている。
根底に流れる長期入院の問題は深刻だけれども、とにかく、大西さんのカメラが捉えた登場人物たちはみんな魅力的で、ユーモラスで、笑いあり涙ありの楽しい映画なので、気楽に観てもらえたらと思っている。

ミズエちゃんやセイコちゃんたちのその後の人生にも、益田敏子さんのように、光が差し込む瞬間があっただろうか。私の中にずっと存在している彼女たちのことを、こうして今、幸福な人生を生きている私なのだけれど、ときどき思い出さずにはいられない。

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