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【大長編読解】マルセル・プルースト『失われた時を求めて』第1部 コンブレ- を読む part5


0.前回までのあらすじ

前回の記事はこちらから

眠れない不安を見知らぬホテルに泊まった旅人の心情にたとえながら、夢うつつを行き来する私はついに周囲に融け込んで眠りに入った。


1.本文読解

(1)「夢」とは何か

あるいはまた眠りながら、永遠に過ぎ去った幼いころの一時期に楽々と追いついて、大伯父に巻き毛を引っぱられはしないかといったような他愛もない恐怖感、その巻き毛が切られた日-つまり私にとって新時代の始まった日-以来、消え去っていた恐怖感をふたたび見出すのだった。私はこの巻き毛が切られた事件を、眠っているあいだはすっかり忘れており、大伯父の手を逃れようとしてうまく目をさましたとたんにふたたび思い出したのだが、それでも用心して、夢の世界に引き返す前に、枕ですっぽり頭を包んでしまうのだった。

注意して読まないと混乱しそうな文章である(毎回そうだが)。
ここでは「私」にとっての過去の辛い記憶が蘇ったことが書かれている。
※この巻き毛の話は光文社古典新訳文庫版では確か注があったはずなので、詳しく知りたい方はそちらを参照してください(記憶が曖昧で申し訳ありません)。翻訳によって注があったりなかったりするので、読み比べてみるのも良いですよ。
人間はふだん、遠い過去のことは忘れているのだが、ふとしたきっかけでそれを思い出すことがある。きっかけはいくつかあるが、ここでは「夢」による記憶の再生が語られている。
私たちがふだん見る夢は、明らかに架空の、ファンタジーのような夢もあれば、かなり写実的な夢もある。どちらにも共通するのは、

「夢を見ている間は、それを夢として認識せず、目が覚めてからそれを夢だと認識する」

という点だ。

また、夢の内容には私たちの深層心理が影響しているとも言われている。
僕は心理学の専門家ではないので詳しくはわからないが、おそらく睡眠中に脳が記憶の整理を行い、そこに我々が巻き込まれる形で「夢」が発生するのであろう。
その記憶の空間は、過去に経験した様々な感情や言葉がごちゃごちゃに混ざっていると思われる。時系列の区別なく、ただ自分の経験がそこに保存されている。
ここでは私たちの深層心理の状態によって見る夢の内容が変わる。
つまり、ふだんからストレスのかかる生活をしていれば、「負(ネガティブ)」の夢を、明るく楽しい生活を送っていれば、「正(ポジティブ)」の夢を見やすい傾向にあると考えることができる。

ここで「私」は遠い過去の辛い記憶を思い出している。
そのことから、現在の「私」の精神状態はさほど明るくはないと推察できる(もちろん、断定はできないが)。
だが、いかに辛かろうと、その記憶は時の流れによって忘れられたはず。
しかし、その記憶は突如として蘇った。それはなぜか。
それは、表層意識では忘れているつもりでも、深層意識ではそれを記憶しているからである。
だからこそ、現在の「私」の(おそらく)暗い精神状態に反応する形でその辛い記憶が具現化されたのであろう。


(2)夢か、現実か

問題はこの次だ。
「私」は思い出した辛い記憶を、
「眠っているあいだ忘れていて、目を覚ましたときに思い出した」
と語っている。
通常、夢を見ているあいだは、それを夢と認識できないから、眠っているあいだ(=夢を見ているあいだ)はそれを覚えているはずであり、夢から醒めたときにはそれを忘れているはずである。
誰しも、先ほどまで見ていたはずの夢の内容をはっきり思い出せない経験をしたことがあると思うが、ここにはそれと逆のことが書かれているように見える。これはどのような意味で書かれているのか。

夢は通常、醒めると内容を忘れてしまうが、あまりにも内容が強烈だと、
起きた後も記憶されることがある。
※未だに覚えている夢は皆さんもあるかと思います。
そのように考えれば、合点がいかないこともない。
その後の、
「夢の世界に引き返す前に、枕ですっぽり頭を包む」
という動作は明らかに自分の巻き毛を守ろうとする行為だろう。言い換えれば、もう経験し終わったはずの、過去の記憶にすぎない夢だとわかっていても、防衛行動を取るくらい、その記憶が当時の「私」にとって恐怖そのものだったということなのだろう。
それならば、まあ、わからなくはない(断定はできないけれども)。


2.最後に

今回は「私」の過去の辛い記憶をもとに、「夢」や「記憶」の謎を考察していく内容だった。
プルーストの文章は一見矛盾するように見えるものが多く、流し読みしているだけでは理解できない箇所がたくさんある。
だからこそ、一文を深く読み込み、その矛盾を解消しようとする試み
重要だと思っている(そうしないと内容が頭に入らない)。
そして、深く読むためには思索が必要であり、思索のためには「どのように捉えるか」といった思考の枠組みが求められる。
だからこの小説は、物語ではあるのだが、哲学書・学術書を読むような気持ちで接するのがよいのかもしれない。
そういう意味でこの小説は、電車やバスに乗りながら、あるいは音声読み上げで聞き流しながら味わうことが難しい作品だといえる。
何かをしながら読むだけでは情景を想像したり、作者の思想を受け取ることはできても、それに疑問をぶつけ、解消するのは難しいからだ。

そもそも、この作品はプルーストの自伝的側面もあるが、それは当時のプルースト自身の経験であって、読者である我々の経験ではない。
だから、解説書を読んで当時のフランス文化やプルーストの生涯を理解して本書を読みやすくすることはできても、その当時をそっくりそのまま経験することはできない。だから、理解できない箇所は発生し、必ずどこかに矛盾や疑問が生まれる。

その矛盾や疑問を、僕らが自分自身の言葉で解消していく。
この物語には「記憶」や「時間」に関する考察が多い。
プルーストの経験がわからなければ、自身の経験に置き換えて考えてもいい。
「読む」読書ではなく、「考える」読書。
速度は遅くとも、一文を確実に読んでいく。
これもひとつの読み方なのかもしれない。

※かつて僕は、「この長編を読破するには第1部コンブレ-をよく読むことが肝要である」という趣旨のブログを読んだことがあり、その影響を受けてこの「コンブレ-」は何回も読んだのだが、わからない箇所が多すぎて苦しかった。今思えば、ただ活字を読んでいるだけで文章の「意味」を深く理解しようとしていなかったためだと思う。
一文を深く読めば当然読書の速度は落ちるが、難しい作品ゆえ速度よりも精確さを重視していきたい。

理解が難しい作品ではあるが、逆に言えば、一文一文に自分の意見や疑問、それに対する答えなどを加えて読んでいけば、
「ここの文章は長いが、趣旨は〇〇だ」
ということがわかるようになり、プルーストの長文にも慣れてくるはずだ。

今回の考察は以上です。
ご精読ありがとうございました。

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