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「親子ガチャ」問題論考~子どもの福祉と育児責任の主体とは~


0.はじめに

近年「親ガチャ」問題が取り沙汰されることが多くなった。これは、
「どんな親の元に産まれるかで人生の方向性が決まってしまう」
ことをガチャガチャになぞらえて揶揄したものである。周知の通り、ガチャガチャで何が当たるかはランダムで、選ぶことができない。同じく、子どもがどの親の元に産まれるかも選ぶことができず、運悪く「外れ」を引いてしまったが最後、悲惨な結末が待っている、というわけである。

また、「親ガチャ」とセットで「子ガチャ」という言葉も存在する。これも
「どんな子どもが産まれてくるか、親は選ぶことができない」
というように、運(不条理)の問題として語られる。こちらに関しては出生前診断という部分的対策があるが、「命の選別」との批判も根強く、一筋縄ではいかない問題となっている。
本稿では、こうした「親子ガチャ」問題の所在、発生の経緯について考えながら、解決案を出していこうと思っている。


1.問題の所在

(1)親の最低水準(=子どもの出生時点での最低幸福水準)

まず問題の所在を確認しよう。
「親ガチャ」で問題にされるのは、子どもの福祉であり、「子ガチャ」で問題にされるのは、親の責任負担である。

誰の元に産まれるか、どんな環境に産まれるかわからないということは当然、劣悪な環境に産まれる可能性があるということだ。
しかし、そうした先天的なハンデを子どもに課すのは妥当ではない。なぜなら、それは個人の権利、平等を実現していないからである。
これは子どもから見た視点だが、親の視点から見るとどうなるか。

親からすると、子どもが先天的な障害を抱えていた場合、育児において経済的・精神的負担が増すことになる。親も一人の人間であるため、こうした負担が過度に増せば親個人の幸福が損なわれるほか、産み控えの原因になって少子化が加速する可能性がある。
先天的に問題がなければそれでよいわけではない。現代の情報化・流動社会においては後天的な不安や悪影響が拭えない。誘拐されたり、違法ドラッグに手を染めてしまうなどの問題だ。
後でより深く考察するが、現代で少子化が進む背景には、こうした社会への不安があることは否定できない。

「親子ガチャ」の問題は、実はコインの裏表の関係、同じ問題を別の側面から見ているにすぎない。双方で問題となるのは、
「子どもが親に要求できるスペックの最低基準はどの程度か」
ということである。
これが明確にならないと、基準に満たない親の元に産まれた子どもは大きなハンデを負うことになる。また、親の方も最低限身につけるべき能力がどの程度かわからなくなる。そうすると、毒親が生まれたり、産み控えによる少子化が進行したりする。だからまずはこの基準を明らかにしなければならない。
ただ、これはそう簡単な問題ではない。
要するに、この基準、言うなれば「良い親」と「悪い親」が何なのか明確ではないのだ。

たとえば、A,B二組の夫婦を想像してみよう。
A夫婦は、ふたりとも高収入。子どもにハイレベルな教育と環境を与えようと思い、都心の一等地に住むことにした。
B夫婦の方は収入があまり高くない。子どもには忙しない都会の生活ではなく、ゆったりとした地方の生活をさせたいと思い、農村に移住した。
さて、子どもはABどちらの夫婦の元に産まれたら幸せになれるだろうか?
これに関しては子どもの主観によって決まる、という答えが妥当だろう。どちらに産まれても満足する可能性はあるが、不満を持つ、すなわち「親ガチャに失敗した」と思う可能性もある、ということだ。
Aの場合は「もっと静かな環境で暮らしたかった」という不満が、Bの場合は「もっと文化的な所に産まれたかった」という不満が出てくることが容易に想像できる。

つまり、A,Bどちらが良い夫婦なのか、画一的な基準で言い表すことはできない、ということだ。良いかどうかは子どものニーズによって変わってしまうからである。
よって、「良い親」の基準を定めるのは現実的ではない。親が良いかどうかの基準は、反対概念である「悪い親」から「どれだけ遠ざかっているか」という距離で表すしかないだろう。

では「悪い親」とはどんな親かというと、これも結構定義が難しい。虐待は当然「悪」だが、低収入や低学歴の親は「悪」なのか。収入や学歴が低くてもそれなりの子どもが育ち、「親ガチャ」に失敗したと感じない場合もあるだろうし、それがハンデとなって自分のやりたいことができず、「失敗した」と感じる場合もあるだろう。

また、「悪」の基準は時代によって変わるという問題もある。たとえば現代のような都市化が進行していなかった時代、大学進学率は今より遥かに低かった。高等教育を受けずに親の仕事を継いだりしていたわけだ。それは1次産業がまだ今ほど衰退していなかったため、高等教育を受けずとも親の元で就労できたという背景がある。だから、子どもを中卒で農家・漁師にしてもなんとかなったわけだ。

しかし、今は産業構造が変わってしまい、1次産業が衰退し、高等教育が必要な3次産業が発展している。そうなると、子どもに教育を受けさせないと就労の選択肢を狭めることになってしまう。
よって、現代で子どもに高等教育を受けさせないことは「悪」と認識される。
このように、最低限避けるべき「悪」の基準も時代によって変わる。一筋縄ではいかない。

(2)毒親対策について

さて、ではそんな毒親が発生しないようにするためには、どうすべきだろうか。
私がかつて考えた方法を紹介する。ただし、現在は無意味な方法だと思っているが。

最初に思いついたのは、「親の免許制」である。無責任・不道徳な人間が問題なら、そもそも許可制にして親にさせなければいい、というわけだ。そもそもスーパーのバイトですら面接という「試験」が必要なのに、無条件で親になれるのはおかしい、という前提があった。
この前提自体は今でも間違っていないと思っているが、この「免許制」には問題が多すぎるのだ。

まず何をもって「合格」とするのか、またその基準を誰が決めるのか、という問題が立ちはだかる。つまり国家権力による恣意的な選別が問題となる。
この問題をクリアしても、
「じゃあ合格後は無罪放免でいいのか?」
という疑問に答えねばならない。
たしかに、親になる「前」に問題がある人を振り落とせるメリットはあるが、実際に毒親が生まれるケースの多くは親になった「後」だと思われる。実際の観察例があるわけではないが、『風と共に去りぬ』のバトラーとスカーレットが子どもの死後、関係を悪化させたことからもわかるように、そういったケースは少なくないだろう(余談だが、バトラーの豹変ぶりは違和感があった)。
そうなると、許可を出した後も何らかの方法で監督しなければならない。

あるいは究極的には、男女の生殖を国家権力で管理する方法も考えはしたが、ただのディストピアになるだけなので無駄、との結論に達した。


2.具体的対策

(1)儒教的価値観からの脱却

じゃあ具体的にどうすればいいのかという話になるが、結論からいうと、子どもは親の「物」ではなく、社会の「財産」だという認識を広めることである。そして、そのために儒教的価値観を克服しなければならない。

たとえば「私の」息子、というように、子どもには「所有格」がついている。そして、近代以前まで子どもが貴重な労働力であったことも合わせ、今だに日本では子どもを「親の物」扱いしているように思われる。
また、親の虐待問題はれっきとした犯罪なのだが、「法は家庭に入らず」という家族の私的自治を尊重する規範があるためか、表面化しづらいという問題がある。
もちろん、国家権力が安易に家族問題に介入するのは避けるべきだ。しかしだからといって問題が起きているのを見過ごしてはならないし、そもそも問題が起きないように努めなければならないのは明らかである。

なぜこんな無法地帯が未だに放置されているかといえば、儒教的価値観、つまり年長者を敬えという規範が日本社会に強く根付いているためだろう。
自分より少しでも年上・先輩なら敬語を使わなければならない、とか雑用は後輩が率先してやるべきだとか、様々な規範がある。
この価値観の何が問題かというと、
「自分より下の者は雑に扱ってもよい」
という馬鹿げた考えに転化しやすいということだ(当然ながら、虐待を正当化する根拠として悪用される)。

体育会系の部活や、テレビの芸能人の上下関係に嫌気が差した人も多いだろう。そうした権威主義が未だに蔓延る日本社会は、極めていびつな社会といえる。
ここで、「尊敬」と「尊重」の違いについて見ていこう。「尊敬」というのは相手その人を敬う気持ちである。反対に「尊重」というのは相手の「立場」を敬う気持ちである。
両者は全く異なる。
たとえば、自分より上の人にはおべっかを使い、下の人はぞんざいに扱う人を、みなさんも人生で何度も目にしただろう。あの連中は人を「尊重」しているだけで「尊敬」はしていないのである。
相手が誰であろうと、その人を大切にする「尊敬」の気持ち。もしこの気持ちが社会に広がれば、毒親は間違いなく減少する。なぜなら、相手をないがしろにする毒親は、そうした社会規範の元では淘汰されるからだ。
子どもを「親」という権威、「家族」という牢獄から救い、その保護と育成を社会全体で行う。平たく言えば、「子どもは社会で育てる」ということだ。

(2)コミュニティ(共異体)の再興

それでは「子どもを社会で育てる」とは具体的にどのようなことか、またいかにそれを実現するかを考えていこう。
子どもをみんなで育てる社会とは、「子どもの育成に関する責任を分割する社会」である。現状、育児の責任は親と学校に属し、勉学の場合は塾なども加わる。それ以外の人間は蚊帳の外である。だから仮に虐待が起こっても、
「だらしのない親(他人)が勝手にやったこと。自分には関係ない」
となってしまう。
なぜこうなってしまうのか。

ひとつはコミュニティの弱体化が原因だ。
交通網の整備、都市化によって周囲の人間は「匿名」になった。その結果、隣近所での助け合いが少なくなった。かつては商店街や近所の人が育児の一端を担っていたが、現在の育児は家庭と学校の問題であり、どちらも閉鎖的な空間である。だから問題が表面化しにくいし、表面化したところで関わりたくないのである。なぜなら「自分には関係ない」からだ。

なら昔のコミュニティを復活させればいいのかといえば、そうではない。昔のコミュニティは閉鎖的で抑圧的な側面もあった。現代の人権意識に照らすと問題もある。むしろ問題があったからこそ解体された、と見ることもできる。
よって必要なのは、かつての村社会のような共同体の復活ではない。多様な人間が共存する自由なコミュニティ、その名も「共異体」だ。各人の自由や独立を最大限尊重しつつも、大事な場面では協力し合う。それが特徴だ。

共異体が成立するためには、構成員の中から「他者・社会への不信感」を取り除かなければならない。なぜなら、たとえば子どもが誘拐されるような治安の悪い地域なら、育児に関しても協力できないからだ。そのような社会では、自分の家の方が安全ということになるだろう。協力するには信頼が必要である。

住民の地域社会への信頼の例として、「ぼくのなつやすみ2」のおじいさんを挙げたい。このおじいさんは主人公の家の近くにいるのだが、
「ここは田舎だから家に鍵をかける習慣がない。ここはいつも開いてるから、好きな時に入り、好きな時に出ていきなさい」
と主人公に言う。
郊外の団地で生まれ、「家には鍵をかけろ」「知らない人にはついていくな」と教わった筆者にとって、このセリフは衝撃的だった。「こんなに優しく温かい世界があるのか」
と驚いたものである。
こうした社会であれば、育児について住民が協力することも不可能ではないだろう。

さすがにこのレベルの境地に容易くは至れないだろうが、それでも参考にはなる。
たとえば、筆者は子育てをやりたいとは思わないが、自閉的な子どもが近所にいて、不登校になっていたとしよう。この場合、その子どもを一時的に預かることくらいはできるかもしれない。筆者は読書、ゲーム、旅が好きだとプロフィールに書いてあるが、これはすべて相手がいても構わない趣味である。本はたくさんあるから好きに読んでもらえばいいし、ゲームは一緒に遊べば楽しい。旅も共に行けば新たな発見があるだろう。孤独な筆者にとっても他者と交流ができるという意味ではメリットがある。
しかも無償で行える。行政でやろうとするとコストがかかってしまうから、これは大きい。もっとも、こうしたボランティアを行うにはお互いを信頼していることが条件であり、道のりは険しいかもしれない。
だが、実現すれば確実に親の負担を減らすことが可能だ。挑戦する価値はある。

(3)ナルシズムからの脱却

こうした試みに達するには、人々のナルシズムを調整することが必要だ。
ここで、ナルシズムとエゴイズムの違いについて触れておこう。
ナルシズムは自閉的な行動様式であり、エゴイズムは自己中心的な行動様式である。両者は重なりあうこともあるが、別のものである。
そして、この定義に従った場合、私は日本人にはナルシズム人間は多いが、エゴイズム人間はそこまで多くないと考える。ここに希望があると思う。

たとえば、東日本大震災のとき、原発事故などの混乱はあったとはいえ、社会秩序が崩壊するレベルの混乱は起きなかった。しかし、震災後にスーパーやコンビニから物がなくなった。買溜めがあったためである。これはナルシズム的行動といえる。
また、コロナ初期を思い出してみよう。マスクの転売があった。これはエゴイズム的行動といえる。
ナルシズムというのは、悪意なき利己的行為であり、エゴイズムというのは悪意ある利己的行為である。

おそらく、日本人は自己や家族を守るために後の人を考えず買溜めをすることはあっても、それで転売して利益を得ようとする輩はそこまでいないと私は思っている。つまり、他者を傷つけてやろうと考えている人は少ないはずだ、という主張である(もちろんエゴイストが存在するのは事実で、警戒はすべきだが)。
ナルシズムの行き過ぎがエゴイズムなのだ。

ではなぜナルシズムが広がったかというと、このブログで何度も述べてきた価値観の変化、つまり、コミュニティの解体、政治の季節の終焉、格差の拡大などの影響である。
これらの影響により、社会全体で共有すべき文化や教養が解体され、各人が狭いコミュニティに閉じ籠るようになってしまったのだ。
閉じ籠り=引きこもりであり、他者との関係が希薄になったわけだ。

国内総生産という経済指標がある。私はこれにならって「国内総会話量」という指標を考えた。字面の通り、国内でどれくらいの「会話」があったかを示す指標である。
実際はこんなものを測定することは無理だが、昔より確実に落ちていることは間違いない。情報の通信量自体は増えたかもしれないが、生の人間同士のやり取りは減っているはずだ。他者はもちろん家族との会話の時間も減っていることは想像がつく。そうなると必然的に自分ひとりの時間が増え、あとはせいぜい気の合う仲間との時間くらいしかない。会話量が激減しているのだ。

昔は違った。大阪から江戸に行く場合、1日では行けないから何度も宿場に泊まったはずだ。そこではいろんな会話があった。鉄道ができても、指定席で行く場合は予約が大変だった。並んで待ち、駅員と話さなければならなかった。
しかし、今は端末ひとつできっぷが買える。自動改札もあるから、出発から帰宅まで、「誰とも、一言も話さずに」移動できてしまうのだ。
使わない筋肉が衰えるように、こんなことが長く続けば「話す筋肉」も衰えるのは必然である。現代人は多かれ少なかれ「コミュ障」なのである。コミュ障というと
「自分は陽キャで社交的だから関係ない」
という人がいるかもしれないが、陽キャか陰キャかは関係ない。たとえどれだけ社交的でも、会話量が減ってコミュニケーションが上手く取れない人がいて、彼らとも意志疎通しなければならないからだ。

ではどうするのかという話だが、会話量を上げればいい。そのためにまずは旅先での「あいさつ」を勧めたい。
鉄道のクロスシートで誰かの隣に座る場合、無言で座るのではなく、一声かけよう。無言で座る人は結構いるはずだ。
現代人は「知らない人とは関わらない」がスタンダードになってしまった。ある意味やむを得ないのだが、かといって軽いあいさつ程度ですら省略してしまうようではコミュ障はますます加速する。そうなれば協力どころではない。
「無関心」こそが最大の害悪である。まずは他者や社会に関心を持つことから始める必要があろう。

他にも、現代人の典型的ナルシズム行動として、
「学校や職場から最短距離で帰り、家に引きこもってコンテンツを消費する」
というものが挙げられる。
「これの何が悪いんだ」と反論されそうだが、ここに現代人の自閉性が凝縮されていることは明らかだ。
まず、毎日同じ道を同じ時間帯に帰るので、それ以外の光景が見えてこない。つまり、誰か困っている人がいたとしても、気付かない。
次に一度家にこもってしまえばそこは個人空間となってしまい、他者との時空間共有ができなくなる。もちろん、そこでは他者との協力はできない。
当然だが、そうした個人の時空間は大切だ。孤独な時間は感性や想像力を育てる土壌でもあるからだ。
しかし、やはり「過ぎたるはなお及ばざるが如し」であって、そこにこもりすぎるのは度が超えた害悪と言っても過言ではない。何かしらの策を講じ、個人空間に過度に埋没しないようにしなければならない。そうしなければ以前他の記事でも書いた通り、我々は
「束にすらなれない雑魚」
と成り果てるだろう。

対策としては、歩くルートを変える、1つ前の駅で降りて歩く距離を延ばす、公園や図書館に寄り道する、などがある。
当然だが歩くと疲れたり、喉が渇くので、カフェやレストランに行きたくなったり、公園や図書館で一息つきたくなる。そうすれば、そこで会話の余地が生まれる。「国内総会話量」の成長が見込めるわけだ。そうやって他者と関わるだけでもナルシズムに対する充分な解毒剤となるほか、上手くいけば地域社会の問題も見えてくる。
旅先で「がっかり」したことがある人も多いだろうが、そのときなぜそう思ったかを分析してほしい。そうすれば、都市問題の原因や解決案が可視化される。実際にやってみるとわかるが、車や鉄道から沿線の風景を眺めるだけでは、街の問題はなかなか見えてこない。自分の足で歩き、自分の目で見ないとわからないのである。

他には、ありきたりだがボランティアも良い。筆者は通勤中のごみ拾いに取り組んでいる。これ自体やるだけで街の美化にもなるし、エゴイストがどれくらい存在するかを確認できる。加えてごく稀にではあるが、その姿を見てか声をかけてもらったこともある。そうすれば「国内総会話量」は増える。

日常で狙えそうなボランティアとしては、終着駅に着いたときに寝ている人を起こす、というものもある。まあ基本的には車掌の仕事にはなっているが、別に乗客がやっても構わないわけだ。
というか、「これは◯◯の仕事だから私には関係ない」という安易なセクショナリズムを持ち出すほうがまずいと私は考える。
日本人は店のサービスは無料だと考える傾向が強いと思われるが、サービスが無料ということは、そのぶん客が従業員を搾取している、ということ。なぜなら、サービスに対する対価を払っていないからだ。
そうした観点からは、自分たちで行えることは自分たちで協力して行う、という市民意識の醸成も必要になってくるはずだ。

ただし、ボランティアが重要だからといって、ボランティアから搾取することを正当化してはならない。
東京オリンピックのとき、企業は金儲けしてるくせに若者をボランティアでタダ働きさせて搾取するとは何事か、という批判があった。私も同感である。利益を得ているなら、自分たちで活動すべきなのだ。人を単に手段として扱ってはならない。ボランティアをする者は、企業の悪しき手駒にならないよう、充分留意して取り組むべきだ。

以上の取り組みによって市民の協力・信頼関係が醸成されていけば、育児の負担を分担することができ、親の負担が減る。そうなればイライラして子どもに八つ当たりする、というケースも減るだろう。なぜなら、困ったら周りに相談できるからだ。仮に毒親が現れても、協力関係があるなら自分には関係ないと切り捨てず、改善させようとするはずである。そうなってくると、毒親はますます生まれにくくなる。

(4)道徳の無力とエゴイズムの活用

さて、最後に毒親を道徳で撲滅しようとする試みが無駄であること、そしてエゴイズムを逆手にとった新たな育児の枠組みについて考察しよう。
説教好きな連中は毒親に対してこう言うだろう。

「子育てが上手くいかないなんて情けない。しかも途中で投げ出すなんて無責任だ。けしからん!これだから最近の若い奴は・・」

まあ最後のセリフで察する通り、典型的な老害の遠吠えである。
このセリフは一見正論を言っているように見えるが、実は何の意味もない。むしろ問題を悪化させる危険がある。
ここまで見てきた通り、毒親は親個人のモラルの問題である以上に、社会構造の問題なのである。親の良し悪しというのは結局相対概念にすぎず、計測することができない。だから親個人のモラルに問題をすべて帰属させれば、それは「解決する気がない」というに等しい。むしろ説教は親へのプレッシャーを増すだけで逆効果だろう。

そうではなく、社会の側が親に対し、
「高いモラルを持った方が得である」
ことを示せばいい。そうすれば次第に毒親は消えていき、親ガチャに失敗する子どもは少なくなる。現状のガチャの仕組みだと外れを引くリスクが高い上に、仮に当たりを引いたところで「実は外れでした」と叩き落とされることだってあるのだ。そうならないためにも、親に限らずすべての人間が高い公共心と思いやりを持てる社会環境を整備することが大切だ。

あるいはエゴイズムを上手く利用してもいい。たとえば実際の現場では、
「子どもほしくて作って、5年くらい育てたけどなんか思ったのと違う。思ったよりかわいくないし、大変すぎる。でも成人するまで育てないといけないのか・・・。あーあ。産むんじゃなかった」
という人が出てくることも予想される。
最後のセリフは子どもに絶対言ってはいけないセリフの代表格だろう。
さて、このような発言をする親がいた場合、大抵の人は「なんて無責任な奴なんだ」と怒りを露にすることだろう。
その感覚は別に間違ってはいないのだが、ポイントがズレている。そのズレとは、当初の気持ちがどうあれ、環境次第で人は変わるという事実、そこから目を逸らしていることだ。

これまで述べてきたように、
「子どもを産んだなら、自活できるようになるまで親がきちんと育てなければならない」
という規範は、子育ての責任をすべて親に帰属させているからこそ成り立つ。もし仮に、親が育児を途中で断念して近所の人に任せることが許されるなら、この規範は成立しないのである。
別の記事でも書いたが、現代の育児コストは金銭的にも精神的にも、近代化以前より遥かに高額である。また、昔の子どもは後取りでもあり重要な労働力、つまり財産としての側面が強かったが、今は大学まで行かせても就職できるかどうかわからない。財産というより負債のように感じる人が多いはずだ。子どもの家計における位置付けがまるで違うのである。
だからこそ、既存の一夫一妻制と家庭不介入を固辞して夫婦のみに育児の負担を押し付け続ければ、必ず歪みが出てくる。それは自明の理だ。

したがって、上述した一見無責任に見える親のエゴイズム発言、これを現代育児における多様なニーズと捉え、それに答える努力が必要だと思われる。
たとえば、0~3歳までは親が育て、その後は近所のAさんに任せるとか、赤子の泣き声で夜眠れないのが嫌だから、小さいうちは信頼できる人に預け、ある程度大きくなったら引き取りに行く、とか様々なアイディアを出して対策する。
もちろん、こうして親子関係が複雑になれば、何かトラブルが起きたときに利害関係も複雑化し、紛争が長期化するなどのリスクもある。しかし、親の負担の重さを軽減する方法として、一考の余地はある。

重要なのは、「誰が育てるか」という主体の問題ではない。「何のために、どう育てるか」という目的と手段の問題なのだ。一組の親が自分たちの血縁上の子どもに対し、生涯親でありつづけなければならない、というのは現代社会では酷である。理想と違っても責任は生涯続くからだ。
子どもの側にしても、すでに関係が冷えきっているのに、血縁関係があるという理由だけで扶養・保護責任の義務が課され、同居を強いられるのはあまりにも非倫理的な仕打ちだろう。これはボランティアの搾取と同じで、血縁上の関係を理由に無償介護を強要し、搾取してはならないのである。
親子ガチャ問題を解決するには多様な家族のあり方を考える必要がある。


3.おわりに

かなり複雑で込み入った問題のため、長い記事になってしまった。こうした家族の問題はセンシティブで触れたがらない風潮があるように思うが、筆者は家庭で起きる問題はあらゆる社会問題の源泉だと考えている。なぜなら、幼少期に形成された考え方や行動様式は、その後もその人のあり方を強く規定するものだと考えられるためだ。
この記事が「親子ガチャ」問題再考の契機になれば筆者としては望外の喜びである。

ご精読感謝いたします。


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