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再学習のすすめ&科目ごとの効用に関する考察


0.はじめに

ここのところ「だ・である体」でずっと記事を書いてきたので、ここらで「です・ます体」の記事を書こうと思います。そのほうが今回の記事の趣旨に合いそうですし。

さて、今回のテーマは、
・「学校で習ったことを卒業後にもう一度学ぶことの意義」
・「学校で習った科目に実生活で役立つ効用はあったのか?また、あったとすればそれはどんな効用なのか?」
の2つです。
それでは、見ていきましょう。

1.「もっと勉強しておけばよかった」という後悔に含まれる矛盾

さて、皆さんの中には、在学中にはあまり勉強しなかったけど、卒業後に勉強の必要性を感じ、その結果として「勉強しておけばよかった」という後悔の念が湧いてきた、という方がおられるかと思います。
こうした気持ちは、わからないでもありません。切実な問題ですから。ただ、ここで指摘しておかなければならないのは、こうした後悔には「矛盾」がある、ということです。

(1)矛盾1-「事後的な批判」

これはあらゆる「後悔の感情」について言えることですが、「〇〇すべきだった/すべきでなかった」という後悔は、すべて「現在の価値観」をもって「過去の価値観・行動」を事後的に批判しているにすぎず、全く無意味なことなのです。
たとえば、私たちは天動説ではなく、地動説が正しいということを知っています。しかし、これは天文学の進歩によってそれを知り得たというだけで、そのことをもって、天文学が未発達だった時代に天動説を信じていた人々のことを「バカだなあ」と批判するのは不公平で、無意味だということです。

これを勉強の例に当てはめると、こうなります。
「かつて勉強しなかったのは、当時は勉強の価値を知らなかったからにすぎない。だから、そもそも勉強の必要性を感じなかった。これに対し、今は様々な経験によって、勉強の価値を知っている。だが、それはあくまで「今」知っているというだけで、それを知らなかった当時のことを後悔するのは、事後的な批判にすぎず、無意味である」と。
まあ、要するに後悔というのは「後出しジャンケン」なわけです。結果を知った状態で、どうするのが正しかった、と考えているわけですからね。だから、こうした後悔に苛まれる必要は本来、ないんですね。

(2)矛盾2-勉強する=上位互換という迷妄

とはいえ、今私が述べたことに対して、次のように答える方がいるかもしれません。

「なるほど、理屈ではそうかもしれない。それはわかる。わかっちゃいるが、やはり勉強しておけば今より裕福で、地位もあり、幸福だったかもしれないかと思うと、やはりやりきれない。頭ではわかっても心が納得できない。」

こういった気持ちもわかります。人間は常に、「もっとよい何か」を求めていますし、知性による理解と心情における受容はまた別の問題ですからね。
ただ、この主張にも誤謬があります。それは、

「勉強していれば今より必ず良い結末(現在の上位互換)だった」
という誤謬です。
確かに、勉強によって学力が向上すれば、進学・就職の選択肢は増えますし、収入・昇進のチャンスも増えるでしょう。しかし、それが「幸福をもたらすか」というのはまた別の問題です。ここでは勉強における「負の側面(リスク)」が見落とされています。

たとえば、学生時代しっかり勉強して卒業後、国会議員になったとしましょう。順調に出世し、総理大臣になりました。卒業後に非正規雇用で働くより、このほうが地位も収入も圧倒的に高いです。では、「幸福度」はどうか。これはわからないのです。というのも、地位や収入が上がれば、それだけ社会と多くの関係を持つことになり、トラブルに巻き込まれる可能性が高くなるからです。
令和になって首相襲撃事件が起きましたが、首相というのはその行動の影響力が大きいために、敵を作りやすいポジションにいます。だから、頑張って首相になったけど、知らないうちに誰かの怒りを買い、結果として事件に巻き込まれ、死亡してしまった、ということが起こり得るわけなんですね。

つまり、勉強は私たちに「選択肢」をもたらしますが、「幸福」をもたらすとは限らない、ということです。したがって、かつてしっかり勉強したとしても、その結果、何か悲惨なトラブルに巻き込まれていた可能性が残されているため、「勉強しておけばよかった」と単純に主張することはできないのです。

2.再学習の意義について

さて、以上によって、後悔の念を断ち切れたと思いますので、ここからは未来を向いて、まさにその後悔の種であった「勉強」の意義について考察することにいたしましょう。

(1)「勉強する理由」と「勉強」という言葉への疑問

さて、子どもが大人に対して、
「なぜ勉強しなければならないの?」
と質問したとき、まともに答えられる大人は何人いるでしょうか?
私が思うに、この質問に真正面から答えられる人は殆どいません。答えられる、と思っている人も、それが答えになっていない可能性が高いです。
よくある回答としては、

・「色々な考え方を学ぶため」
・「人生の選択肢を増やすため」
・「教養を身につけるため」
といったものがあります。
これらは一見すると、先の質問に答えているように見えますが、実はこれは真の意味で回答になっていません。その理由は2つです。
1つは、これらが一般的・抽象的回答にすぎず、個々の事例を考慮していないためです。そのため、たとえば、
「自分は野球選手になるので、古典は不要です」
というような反論に答えられなくなってしまいます。

2つ目は、仮にこれらが勉強すべき理由だとしても、現状の教育カリキュラムを肯定する理由にはならないからです。この場合、

「勉強する理由はわかりました。でも、たとえば論理的な思考を身につけるため、というのであればそれが数学の三角関数である必要はないですよね?なぞなぞでも、何ならテトリスでも論理的思考能力は鍛えられると思いますけど」
という反論が予想されます。

したがって、先の質問に真正面から誠実に答えるには、
・「この科目は、あなたにとって具体的に〇〇というメリットをもたらすから、学んだほうが良い」
・「もしあなたが〇〇という能力を身につけようと思った場合、この科目をこのカリキュラムで学習していけば、効率的に習得することができる」
という「実利」の観点から答えなければなりません。
ところが、現状はどうでしょうか?
「よくわからないけど、何となく、やらねばならぬもの」
だと認識している人が殆どではないでしょうか。
大人がその価値を理解していないものを、子どもが取り組むはずがありません。
まずはこの意識改革から始めなければならないでしょう。

そもそも、「勉強」という字が私は良くないと考えています。
だって、「強いて(無理やり)」「勉める」ですよ?
無理にやらされてモチベーションがあがるはずありませんし、仮にやらせたところで知識が定着することもないでしょう。なぜなら、「受験のために一時的に必要な知識」と捉えてしまうからです。受験が終わったらもういらない、というわけですね。
というわけで、以後は「勉強」を「学習」に変換して話を進めていきます。

(2)現物(原典)に触れる必要性

初めて大学図書館を訪れたときの感動は今でも残っています。何に感動したかというと、教科書に出てくる本が所狭しと並んでいたことに、です。
ルソーの『社会契約論』カントの『永遠平和のために』ミルの『自由論』など、歴史や政治経済の教科書で知った本がたくさんありました。当時の私はこれらの本を片っ端から読んでいきました。なぜ読んだのか。それは、
学校の授業で「作者と作品名を暗記しただけ」では何の意味もない。実際に読んでその主張を確かめなければならない、と考えたからです。
教科書には、たとえばルソーの場合、『社会契約論』で何を主張したのか、その結論だけが書かれています。結論に至る過程は書かれていません。しかも、結論はあくまで教科書を編集した人の解釈であり、本当にそういう主張だったのかを確かめるためには、私たちの方が原典に当たらなければならないわけです。
結果的に、こうして原典を参照する行為が積み重なり、「かつて学んだことをもう一度学び直す必要がある」と確信するに至ったのでした。
受験で得た知識を実践的なものに昇華させるには、こうした再学習が必要だと思います。


3.科目ごとの効用

再学習の意義については以上の通りです。ここからは学校で習う科目と、その科目を学習することで習得できる(と思われる)能力について考えていきたいと思います。

(1)国語系科目(現代文、古文、漢文)

国語(日本語)系科目のうち、現代国語(読み、書き、話す、聞く)については「必要だ」と主張する人が大半でしょう。これらは現代の文明生活を送る上で欠かせない能力だからです。問題は「古文」と「漢文」です。これはどうか。こちらは現代文と違い、学習しなかったからといって直ちに生活に支障が出るものではありません。古語や書き下し文で会話、文書作成する場面はあまりないでしょうから。
では、学校で習う意味はないのか?
結論を言うと、私はあると思います。

まず古文について。これは歴史系科目の章でも詳しく述べますが、昔の暮らし・考え方を学ぶ場合、昔の文献を読む必要が出てきます。そして、昔の文献は当然、昔の言葉・文法で書かれているため、それが現代の言葉・文法ではどう表現されるのかを知らないと、その文献を読むことができません。では、なぜ昔の暮らし・考え方を学ぶ必要があるのか。それは、そこに知恵が多く含まれているからです。

ルソーが『人間不平等起源論』で指摘したように、人間は文明を発達させるほど、本来の能力を失っていきます。早い話が乗り物です。乗り物がなかった時代、人は歩くしかなかった。だから、歩いた。歩くことによって足を鍛えることができ、長い距離を歩けるようになった。しかし、今はどうでしょうか?徒歩10分程度で行ける場所すら車を使う人がいます。これでは足の筋肉は衰える一方でしょう。
あるいは、戦争で貧しい時代、人々は食べ物を大切にしました。
しかし、今は飽食の時代となり、残飯廃棄の問題が深刻化しています。

このように、昔の暮らしには今の生活から失われてしまった「知恵」「習慣」「仕組み」が多く存在します。そして、私たちに時を戻す能力が与えられていない以上、こうしたものは文献を読んだり、古老に取材するなどしなければ知ることができないのです。
古文の役割は、こうしたものを知るためにあります。

漢文についても同様ですが、こちらは中国の歴史や文化を学習する、という側面もあります。

(2)社会系科目(日本史、世界史、地理、政治経済)

では、社会系科目はどうか。
これも、古文・漢文と同様、かつての「知恵」を知る役割を果たします。その他、現在の国際問題がなぜ発生しているのか、自分の国・地域はどんな産業を得意とし、また苦手としているのか、自分が住んでいる場所は災害に強いのか、そうでないのかについての回答を得られます。
これらは極めて実用的で、たとえば国際問題がどのように発生するかをつぶさに観察すれば、なるべくそれが起こらないように、起こったとしても平穏に解決する術を見つけられるでしょう。
自国の産業を知っていれば、何に注力して、どこの国と協力すべきなのかも見えてくるでしょうし、将来必要になる産業も予測できるようになるかもしれません。それは進路の広がりを意味します。
災害に弱い国であれば、防災対策や、支援ネットワークの強化の重要性も認識できるはずです。

というわけで、これらの科目も重要そうですね。
ただ、問題は、学校教育の場面ではあくまで「テストで点を取るための知識」しか与えられないので、学校の授業を頑張るだけではこうした知識は得られない、ということです。
この辺りは、「学校教育をどうすべきか」という、より巨大な問題に包括されることになりますね。

(3)理数系科目(生物、化学、物理、数学)

理数系科目のうち、理科系科目は文明の発展、生活利便性に直結することから、その実用性については論ずるまでもなさそうです。生物の器官を研究することは医学の発展に寄与するでしょうし、化学や物理は新しい医薬品や便利な家電製品の開発に役立つでしょう。わかりやすいですね。
ただ、理数系科目は苦手な人も多いでしょう。そうした人から、

「あー、全然わからないんで無理っす。できる人に任せるんで俺らはリタイアします。」
という声が寄せられるかもしれません。
この意見は妥当なのでしょうか。

結論を言うと、国民全員が理科系科目を理解しなければならないわけではありません(というか現実的に無理)。そういう意味では「できる人におまかせ」という姿勢もわからなくはありません。
しかし、知識が全くないのも困りものです。
というのも、何も知らなければ、理科系科目を活用して新発明ができたとき、その発明の妥当性や問題点を指摘することができなくなるからです。
工場汚染なんかがいい例でしょう。
工場で使われている薬品に含まれている物質に、公害のおそれがあるものが含まれていれば、公害の原因を早期に発見し、あるいは改善することができます。そういう意味では、「最低限の知識を身につけておく」ことは重要事項になってきそうですね。

数学についてですが、たとえばグラフやデータ分析などは実際の生活でもよく使われますね。商品開発や自己分析にも使うことができます。
因数分解はパワプロクンポケット10の主人公が
「勝手に分解すんなよ。自然のままにしておけよ。」
と言ったように、何の意味があるのか一見わからなかった人もいると思いますが、共通する事項をまとめて視覚的にわかりやすくする、原因(構成物)を明らかにする、といった思考訓練になりそうですね。
確率や割合は知っているかいないかで経済的に得するか、損するかが変わってくるので、大切な分野でしょう。

数学は特に好き嫌いが分かれる科目だと思いますが、それはなぜでしょうか。

1つの理由としては、他の科目が具体的であるのに対し、数学が扱うものには「無理数」や「虚数」など、イメージしづらい抽象的な概念が多いからだと考えられます。算数は好きだけど、数学は嫌いな人がいるのはこのためでしょう。算数は具体的ですが、数学は抽象的です。ある意味では形而上学を学んでいるような、そんな難解さがある気がします。

2つ目の理由ですが、数学で重要となる「論理」これが曲者になっているのではないか、と私は勝手に邪推しています。つまり、人は確かに「論理」や「因果関係」を理解しているし、訓練によってより深く理解できるが、普段100%「論理」だけで生活しているわけではないので、実生活との乖離が生じるためではないか、という推理です。普段の生活では、おそらく「論理」よりも「直感」のウェイトの方が大きいのではないでしょうか。
たとえば、被災者に資金援助する、支援物資を送る、ということは「論理的」な計算のもとで行われているのでしょうか。中にはそういう人もいるかもしれませんが、多くの人は自身の「感覚」や「信念」といった論理とは違う所にその行為の原因があるのではないでしょうか。「頭で考えるより、心で感じたことをやる」という感じですね。
普段の生活で慣れていない考え方を学ぶがゆえに、苦戦するのでしょう。
そんなわけで、数学は習得するまでに根気が必要な科目だと言えます。

で、ここからが重要なのですが、この仮定が正しい場合、数学は多少苦労してでも取り組むべき科目だ、ということが見えてきます。
と言いますのも、先ほど私は人間の実生活には「論理」という客観的なものより「感覚」や「信念」などの主観的なものの占める割合が高いのではないか、という仮説を提示いたしました。もしそうだとすると、仮に数学的思考を身につける訓練をしなかった場合、数学的(客観的)判断が必要な場面でも、個人的(主観的)判断を下してしまう可能性がある、ということになります。

たとえば、政治家の演説で、国民に甘い言葉ばかり使う、あるいはガソリンスタンドの店員がやたらと馴れ馴れしい(そしていろんなオプションを勧めてくる)、という場面を想定してみます。こうした状況においては、たしかに自身の「感覚」でもって相手への違和感を感じ取り、対処することはできます。
しかし、感覚というのは極めて個人的なものであり、あてにならない場合もあります。そういうときに、「相手は何を根拠に、どういう目的で」こんな話をしているのか、ということを冷静に観察することができれば、相手の雰囲気に飲み込まれることなく、その言動の妥当性を判断することができると思います。例としてわかりにくかったかもしれませんが、要するに、

「人間は論理的思考が苦手だからこそ、学ぶべきである。そうしないと、その思考方法を学んだものに騙されたりすることがある。」
ということですね。
実を言うと私は数学が大の苦手です。学生時代は全く歯が立たず、何の役に立つかもわからなかったため、諦めていました。しかし、この記事を書いているうちに、数学の重要性をなんとなく、感覚的にではありますが掴みつつあります。

現在の資本主義社会において「金銭」は重要な役割を果たしていますが、当然、それは金銭がらみのトラブルもまた発生しやすくなっているということです。とくに、「詐欺」については近年手口の悪質化によって被害を受けるケースも増えているようです。犯罪者の心理を推察するのは趣味ではありませんが、同じ金銭系犯罪である「保険金殺人」「強盗」「恐喝」の場合、直接人の身体を傷つけなければならないことから、躊躇する犯罪者もいるが、「詐欺」の場合は暴力を伴わず、しかも最悪「騙されたほうが悪い」と開き直れるから実行しやすい、と安直に考えている輩もいるのではないでしょうか(自分勝手すぎる考え方ですが)。
で、相手を騙すためには、相手に違和感・不信感を抱かせないことが大事であり、詐欺を行う者はこのあたりをよく心得ているのだと思われます。
ということは、私たちが詐欺被害に合わないようにするためには、「相手の話は本当に正しいのか?」と吟味する姿勢、デカルトの「方法的懐疑」が必要になってきそうです。そのために、数学的思考は非常に役立つでしょう。

数学の成績が優秀な地域では、詐欺被害が少ないという研究結果などもあると興味深いですね(詳しくは不明ですが)。
詐欺対策に、ぜひ数学を!というのもありかもしれません。

というわけで、数学は習得が難しい科目であるものの、根気よく取り組みそれを習得したならば、大きな成果が得られる、といえるでしょう。こう考えると、数学に歯が立たなかった人にも大きな希望となりましょう。なぜなら、中高の6年程度であっさり習得できるほど甘い科目ではなく、大人になってから再挑戦する機会が与えられている科目だともいえるからです。


4.おわりに

随分長い記事になってしまったので、このへんで終わりにします。以前から温めていたテーマだったので、無事、記事にできてよかったです。
学び直すことに遅すぎるということはなく、私たちにはいつでも再学習のチャンスが与えられています。
この記事を読んで、学習する意欲が湧くことがあれば筆者としては嬉しい限りです。
「詐欺」の話もしましたが、重要なのは身につけた能力を「いかにに使うか」ということです。最近は文系不要論なども唱えられているらしいですが、理系科目では「事実」や「法則」は導けますが、こうすべきという「規範」は導けません。実は、ここに文系の仕事があったんですね。

それでは、
ご精読ありがとうございました。

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